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「片隅の迷路」という小説がある。
開高健の作品で、昭和28年に徳島で起きた「ラジオ商殺し事件」を描いている。
この事件はいわゆる「冤罪」をテーマにしたもの。
犯人とされ服役した被害者の内縁の妻、富士茂子さんは、何度も再審請求しながらもはね返され、漸く再審が開始され無罪が確定したのは、事件から32年、茂子さんが亡くなって6年後のことだった。
誰もが迷路に嵌り込む日常の罠、恐怖を、開高健は見事に描き、読後の戦慄は今も心の奥底で不気味に蠢いている。
足利事件の犯人とされた菅家さんが、県警本部長の謝罪を受け「許す気になった」とニュースが伝えている。
許せるものでもなく、許されるものでもない「冤罪」を、敢えて「許した」菅家さん。
その思いは計り知れない。
警察が謝り検察も謝罪したが、裁判所は口を閉ざしたままだ。
最も罪深いのは裁判所であるにも関わらず・・・。
迷路の入り口はDNAだった。
血液型を遙かに凌ぐ個人識別。
今でこそ、その信頼度は100%に限りなく近いが事件当時はそうではなかった。
にもかかわらず、警察は新しいオモチャを手にした子供のようにDNAの一致にはしゃいだ。
DNAが一致したのだから、犯人でないはずがない。
警察は片目を瞑って取り調べた。
犯人ではない事実も真実も必要はなかった。
必要なのは、DNA鑑定の結果に沿った事実だけ。
つまり自白である。
本来DNAは一致しないことで犯人ではないという証明にはなるが、一致したところで犯人だという証明にはならない。
この基本的な論理が無視された。
警察も検察も当時としては画期的なDNA鑑定を盲信してしまった。
それ故の暴走。
不幸ではあるが、同情の余地はある。
罪深きは裁判所である。
10年間に及ぶ弁護側の再鑑定要求をはね返した宇都宮地裁。
その間に事件は時効を迎えた。
不作為の罪。
罪を裁く裁判所の罪は、一体誰が裁くのか・・・。
迷路は彼方此方に仕組まれている。
ポッカリと暗い口を開けて、誰かが迷い込むのを待っている。
くわばらくわばら・・・。
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