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約束通り上記の記事の書き手を批判していきますが、「人間の価値」から「平等」を考えるから、
私から見て変な、市民社会にとって危険とも考える思想が導かれると思う。私ならもっと穏当に、
社会にとっての影響の程度で人間の重要さが測られると定義する。長谷川良の今回の言説で、
特に問題と考えるのは以下の段落と私には考えられ。
先ず、「人間は生来、平等ではない」。生まれた時から、遺伝子は異なり、その能力は異なる。知的能力だけではなく、肉体的能力も含め、人間が関与する全ての分野で人それぞれ異なっている。 私は論理展開が半端だから、私にとってのグロテスクの結論になっていると理解。もちろん私も、
大学入試もオリンピック大会も「動物の群れ」と似た機能があると理解し。ただし人間の大衆社会での、
勝者と敗者の立場の差は、群れを持つ動物と「質」の面で違いがあり。極端な話、人間以外の動物は、
「勝者」とは自分の遺伝子(の全部、または半分)を残せる個体と理解でき。
でも市民社会では多くの個体が繁殖の機会を与えられる一方、社会での活躍という新しい競争を、
ヒトは生み出したと仮定できるわけ。うまいことに活躍できる個体が「もてやすく」なれば、
ヒトは社会という群れを発展しつつ存続できるという構図。しかし「勝者」になるには運が必要と、
私は思うのでした。なので以下の段落は長谷川自身の思い込みと憶測。
「人間の価値」を判断するのは通常は社会だ。そして社会は不平等な状況下で生まれた人間の知的、肉体的能力の差を数量化し、測定する。その結果に基づき、人間を適材適所に配置する。そして人間の「価値」にも自然と相違が付けられる。会社から大学、ホテルからレストランまで一定の基準に基づいてランクがつけられる。誰も声を張り上げて言わないが、「人間は平等ではないし、価値も等しくない」のだ。 「測定」はしていると仮定できても「数量化」の結果かは疑問だから、長谷川の「価値」を、
私の言う「重要さ」に置き換えても、私は長谷川の論を強者の論理と理解を。しかし強者の論理は、
私も『機動戦士ガンダム F91』が公開された自分に知ったけど、貴族主義から考えられるように、
強大な責任が伴う筈で。つまり大衆という巨大な敗者を宥めて成立するのが市民社会と私は考え。
しかし今回の記事で長谷川は(既存)宗教に「社会の存続」の問題を押し付けた格好に。さらに、
戦後教育を以下のように批判。
日本では戦後、宗教教育や道徳・倫理教育がないがしろにされてきた。人間の価値を普遍的な価値まで止揚する宗教教育は無視され、選択の原理(進化論的教育)が重視されてきた。その行き着く先は、米国型のワイルドな資本主義社会だ。現代の課題は、普遍的価値観を擁護する世界観、人間観の回復だろう。その為には、「宗教はアヘンだ」という史的唯物論者からの批判にも耐えられる宗教的倫理が願われるわけだ。 天皇を(開戦でも終戦でも)利用し尽くしたと考える大東亜戦争を大失敗の戦争と考える私には、
日本人に宗教教育は社会の停滞と想定するのですね。日本人は一つの思想の受容は簡単なので、
社会の発展に必要な「異なる思想、思考」は(学校)教育から排除されると想像できるから。だから、
具体的には、人間が生来備えている“良心の世界”だ。という説明も却って恐怖。
「良心の世界」から地域、思想、認識の外れた人間を殺す理由になるのでは? さらに良心争いが、
戦争に発展する事態も考えられるのですよ。私が思うに、まずは長谷川良自身の見解を開陳するのが、
先決ということ。私自身は人類が存続するには「辛抱強くなるべき」という見方を持ち。
[3865hasegawa ryou.txt]
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文化談義
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