泥棒だ 作詞 遠藤ミチロウ
やっぱり当時の遠藤ミチロウは凄い。私も当時の「ロッキング・オン」での評論のように、
上記の歌詞がある「泥棒」を、逃走劇の一場面として理解してた。しかし『trash*』の、
3000枚の一枚を買った私は、タイトルナンバーの「trash」を思い出すべきで。実は、
以下の歌詞の「泥棒」から別の意味を思いつき。
泥棒どもが追いすがっても 作詞 遠藤ミチロウ
あるいは以下の文言もある。
そんなに情けない顔をするなよ 別解釈の鍵は「泥棒ども」で、定義された対象を「国民」、言ってる主語・主体を「役人」と、
解釈可能では? 「ゴミ箱をあさっても何にもでないぜ」や「そんなに情けない顔をするなよ」を、
役人の市民(≒国民)に対する態度・思考と考えるわけ。「転がり落ちてもないないをする」は、
民への冷遇と解釈できるのですよ。しかし徹底したあしらいは恐怖からと私は憶測。
だから姜尚中の以下の見方は間違いと思う。
冷たい態度と恐れの感情は、しばしば一人の人間が同じ対象(人間)に持つという考え。私は、
関東大震災における朝鮮人虐殺を例示。当時から馬鹿にした朝鮮人には一方で、復讐への恐怖、
「良心による恐れ」があったと仮定すれば虐殺事件の「論理」が理解可能。なら日本人を役人、
朝鮮人を(日本の)市民・国民と置き換え、日本の役人は市民・国民を怖いと思ってると憶測を。
さらに憶測すると「原点」はドイツ帝国の崩壊の筈。GHQからさらにワイマール共和政の、
展開を聞かされたと仮定し、日本の役人は「体制の保守主義」を志向したという推論。GHQは、
「貴方たちの国民のため」、失敗学としてドイツを例示したつもりが、教わった方は国民は怖いと、
認識するようになったという「物語」。だから文化庁がJASRACの味方に。
[4098dorobou.txt]
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赤く枯れた土の星にやっと
手渡された命の綱渡す人よ
時は今青白のガスで飛ぶ
大宇宙を切り裂く一筋の望み
大地に隠された不確かな喜びは
松明で呼び合う
確か求める科学のように
もう笑おうよ
いまぼくらに待ち望む希望あるから
勇気をくれた船が
忍はきっと大地のためやっと
届けられた遠い使いなのね
人は生まれ出で絶え間なく
産み育て星の子に受け継がれ楽園を目指す
ぼくらの望む道 双子に引き裂かれ
酸の星の人から
赤く朽ちて滅び待つぼくらの星よ
もう笑おうよ
いまぼくらに待ち望む希望あるから
勇気をくれた船が
もう笑おうよ
いまぼくらに待ち望む希望あるから
勇気をくれた船が
※没
もう悲しむな
いまあなたを待ってる人がいるんだぜ
再び逢いたいよと
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海と膿
口と朽ち
蔵と鞍
矢継ぎ早にミンミンゼミが唸りだし
しだれかかった牛舎の下で泣き出した
牛舎の周りはサバンナであり
立派に空いた穴の深さは100メートル
ルール地方で騒動が起こった時代
異人は月の裏側で待ちわびてたという
憂いの報告を陣痛納得しながら
ラストの調印式で伝達式の招待状を送る手はず
ずるずると長引いて二回のまばゆい上空の光
理論的に導出したのが放置の結論で
でも憐憫から情報とデータの世代交代は許す
すだれの隙間一つひとつがヒトの群れへの窓
[4096mudai.txt]
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私はガンダムシリーズの批評で、よく実在の事件として論じてる。でもshiwasu5さんとJIN さんの、
対話の論点は作劇であると理解し、当時の「富野の目論見」の推察から考えた方がいいと思う。前回、
ガンダムを終わらせるために<「アムロとシャアの決着」として単純化できない>物語を富野は、
求めたと指摘したが、実はより細かい論が必要で。
ガンダムを終えるために反面教師としても参考にしたのはヤマトだった筈。沖田十三の復活という、
大抵の人は興ざめする設定を使い、古代進と森雪に託すことに成功したと私は理解。一方ガンダムは、
実はアムロやシャアの親世代はΖ以後、排除された。ならばアムロやシャアを先輩世代と定義し、
後輩世代に(劇として、思想、行動、思考を)受け渡せればガンダムは大団円を迎えることが出来。
以上の経緯で考え出された人物がクェス、ハサウェイ、ギュネイと仮定すれば? 以後論じるのは、
クェスに限るが、富野の思惑としてはアムロやシャアに意見できるのは「親に反発する女の子」と、
劇中のクェスの言動から推察可能であり。しかし作劇、特に脚本作業で分かった筈だけどクェスは、
アムロとシャアに本当に(つまり戦場で)対峙するには小者過ぎと思うのですね。
「主役」としては弱いが、単なる「存在」としては強過ぎるんですね。 JINさんが正に指摘されたクェスの上記の特質、簡単に言えばアムロやシャアが社会人なのに、
クェス、ハサウェイ、ギュネイは「学生」と定義できるのですよ。ジオンの忘れ形見のシャア、
時の人となったアムロ、二人とも「役割を与えられた社会人」の特質を大袈裟にした人物。一方、
上記の若者三人、クェスとハサウェイは特に当初は「役割」から自由な存在と私は理解し。
つまり初登場から役割を与えられた存在こそアムロとシャアと対決でき、更には仲裁できる存在と、
私は今になって理解を。「若い時分で役割」として私が思いつくのはやっぱりアイドル。さらに、
シャアの昔話をしてくれるのがアムロなら、ロンデニオンでのアムロからシャアへの乗り換えも、
全く別の意味、「危険な偵察」になり得たと。
ならばハサウェイもアイドルとしてのクェスに見合う人生経験豊富な若者にする必要があり、
アムロとシャアの対立、対決を「不毛だ!」と一括できたという意味。しかし実際のフィルムでは、
クェスとチェーンの諍いに翻弄され、クェスの悲劇を目撃した後、チェーンに内ゲバの攻撃だけ。で、
作劇としても二つに分裂し、「一点に集中して終幕」という名作の基本を逃したと考えられ。
でも作劇は歪でも当時の正直な富野の思想や思考があからさま
と
「頂点」の映画と理解したく。五十年後も百年後も語り継げる一人の「思想家」の思い/想いの発露。
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参考:<侵犯>の物語
私も褒めたり貶したりで絶対の評価がしにくい『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ですが、
クェスに関しては公開当時から「面白い女」と思ってた。実際に仲間や友達にいたら厄介だけど、
第三者の視点で見れば考察のし甲斐のある人物と思う。だからshiwasu5の以下の命題に対しては、
私は正反対の判断を下してる。
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』は、映画としての眼目は、美少女クェス・パラヤだった。 予想外に成功した「登場人物」と思ってるので。多分クェス・パラヤは当時の富野由悠季が、
「求めた」登場人物だから。JINさんとの対話で問題になった以下の認識・理解はまさに、
ガンダムを終わらせようとした富野が求めた物語だったのでは?
ドラマは「アムロとシャアの決着」として単純化できない 傍証として私は今回も『タッチ』を紹介。あだち充は連載開始前にすでに上杉和也、カッちゃんを、
殺す計画だったとか。上杉達也と浅倉南の三人で物語が十分展開できる、してしまうと気づいたからで、
和也を完全に物語から退場させ、他の人物が活躍する「隙」を作ったというのですね。「逆シャア」は、
私の見立てはちょうど逆。富野の分身であるアムロやシャアを批評してくれる存在が欲しかったと。
簡単に言えば富野監督はシャアやアムロを出来るだけ劇中での存在を小さく見せたく、異物としての、
クェスに引っ掻き回して欲しかったと推察。予想外の出来と思うのは初登場が上手くいったため、
関わる人間に難癖をつける役柄に私は納得できたため。特にチェーンやナナイに対しての態度は、
納得でき。チェーンに怒ったのは、アムロへの態度が曖昧だったからと思われ。
言葉がきついのはクェスが言語での表現が下手だからで、チェーンがアムロを好いているのは、
明白であり、クェス自身もアムロに憧れ以上の感情を仮定して考察を。そう、クェスも二人が、
大人同士の付き合いをしていたら、応援できる優しい娘と考えるのですよ。だから以下の言い合いで、
クェスは本当は「はっきりして!」、あるいは「はっきりさせて!」と言いたかったと私は理解し。
クェス 「大人の言いそうなことね。あたしが聞きたいのはそういうことじゃないわ、アムロ・レイとの関係よ」逆襲のシャア 全セリフより また「ナナイが私をぶったの!」は当然の感情と私は考え。ハサウェイとの初対面での大人しさと、
別人だとの指摘には、公共空間だからという理解が出来。クェスは甘えられる場所が欲しい人物と、
仮設すれば、殆ど全ての言動が私には理解可能に。ではクェスは逆襲のシャア、さらに富野にとって、
大成功の劇中人物だったかというと、既に指摘された以下の欠陥が私も減点対象というもの。
「主役」としては弱いが、単なる「存在」としては強過ぎるんですね。 [4094gundam.txt]
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