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 八月八日の確か午前七時ごろ、私は誰もいない鳥取市民体育館にいた。一番上のドアを開け、観客席の合間の階段をゆっくり降りる。私の幼なじみのタッちゃん、上杉達也が甲子園でその真価が問われるように、私浅倉南もこの会場で観衆の期待を一身に浴びるはず。その時南は、みんなの期待に答えることが出来るのか? 演技の前の習慣になった、観客席からの浅倉南をイメージする。半分くらい降りた後、すぐ脇の椅子に座って。
 これまでコーチがビデオ見せてくれた私の演技と練習の成果を合成した動きは、観客として見てもほ
               で
れぼれするものだった。腕の伸びと上半身の柔らかさ、躍動する足の動きを幻視して、練習通りの演技ができれば誰にも寄せ付けない高みに登れることを確信できた。もちろん浅倉南をライバル視するすべての女の子がそう思っている、そう思おうとしているはずで、南も念のために今踊っている私の視点で確認することにする。

 新体操を始めたころ、南はがむしゃらだった。キャプテンとコーチ、康子の期待、公表された後の学校のみんなの後押し、そして南が勝手にライバルと思っていたタッちゃんへの恐怖心から、早く上手くなりたいと思い続けてた。しかしカッちゃんも体験したはずの周囲の期待と自分の努力の循環が、空回りした時期がある。
 コーチとキャプテンしか知らないことだけど、ちょうどタッちゃんが甲子園行きを果たした今回の地区予選の最中、南風で「ここんとこ毎晩、滅多打ちに合う夢を見てるよ」と南に弱音を吐いた時の心境と同じものと思う。南は当時、新体操をずっと続けていた女の子との技術の違いを見せつけられて、なんで南が持てはやされるのかわからなかった。だからコーチは南に自信をつけさせるため、資料用として撮っていたビデオを見せてくれたのです。
 始めは高度な技術で定評のある、新体操のエースの演技を何本か。南が秋の東京都大会で準優勝して先物買いのマスコミから騒がれたころだけど、画面に映る女の子はみんな確かな演技で、私の演技の目標と思ってた。次に取り出したのが都大会での私の演技。しばらくは雑な動きに停めてほしいとも思ったけど、そのうちに何だか光って見えた。試しに前のビデオをもう一度見せてもらい、わかったのです。コーチが言うのは、
「一生懸命で、ほのかに悲壮感のある笑顔」。
 確かに当時の心境を言い当てているようで、照れて受け答えがまごついたのを覚えてる。でもそれから感情を素直に表現するのが浅倉南の新体操と定義し、選曲も演技の表現もコーチと一緒にその方針を貫いたのです。

 南は会場を見渡したあと昨日の練習に、練習ではやっていない演技を加えて、試合での浅倉南の体感と視覚を想像した。大丈夫、全身を使ってもいつも以上に筋肉に余裕があり、優雅さも十分に表現できると思った。でも自分でも奇異に思って観客席を見ると、タッちゃんが階段に目立つように立っていた。でも今タッちゃんは甲子園。
 南はインターハイ前までのように上杉達也がいない舞台でどれだけできるか、タッちゃんの写真への思いだけでどれだけのことができるか、試すことにした。油断するとすぐ思い浮かぶので、まず白く塗りつぶして。
 タッちゃんを消した舞台はしかし、客席がだんだん薄暗くなる。しまいには観客さえ判別できず、ともすれば無人の会場で演技する感覚にとらわれる。観衆の感情を受けて上手い演技ができる新体操選手の浅倉南にとって、一番まずいケースだった。これまでは写真だけで満足な演技ができたのに、タッちゃんが甲子園に行く前の晩、まだカッちゃんを引きずっているのを知ってしまったのが原因だった。
 今回のテーマは健康なお色気、可愛い媚を含んだ演技もあったけど台無しになりそうだった。私は立ち上がり、最前列まで降りて行く。



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ディラック、ボーア、エーレンフェスト
 ディラックはノルウェーでハイキングと登山を楽しんだあとボーアの研究所で会議に出席し、レニングラードに向かい第一回ソビエト原子核物理学学会に参加するつもりだった。賞賛するための祝宴が開かれると期待していた。

 一九三三年のボーア主催の定例年会は神経を尖らせた雰囲気で、陽電子を巡って議論を戦わせたりピンポンをやるなど、許されないように思われた。しかし今やほとんどの物理学者が陽電子を確信していたので、空孔理論を信じてきたことが報いられたと感じただろう。パウリは目の当たりにしたくなかったのか出席せず、休暇を取って南フランスに出かけた。

 ボーアはいつも通り一週間のプログラムを企画し講演や討論は研究所で行なう一方、社交には新しい家を使った。デンマークの大手ビール醸造会社の敷地にある邸宅である。最も傑出した存命のデンマーク人に対して政府から贈られることになっており、当時はボーアが暮らしていた。

 集まった物理学者は総じて陽気だったが、エーレンフェストは落ち込んでいた。丸々とした顔で肥りすぎだったが、最近の進展から取り残されつつあった。発表される研究報告はあまりに難解で、気が滅入る文書でしかなかった。自分の研究に価値がないと思い込み、ゆっくりしたペースで研究できる地味な分野のポストを研究していた。だが完全に諦めたわけではなかった。一九三三年の会議でも意識してなかったろうが討論では鋭い質問を投げかけ、発言者を明確に説明するよう仕向けた。おかげで本筋とは無関係なことに逸らされずにすんだし、新しいアイデアの特徴を見逃さずにすんだ。会議ではディラックの近くで、煙たい空気から離れて何時間も話していた。

 ボーア邸で閉会のスピーチが済むと参加者は玄関まで荷物を持ち出し暇を告げた。よくあるほろ酔いの別れだったがタクシーに乗ろうとしたエーレンフェストの様子が落ち着きなく、やりきれなそうに見えた。ディラックのいろいろと尽くしてありがとうという言葉に返すことができず、ごまかすためにかボーアのそばに行って別れを告げた。戻ってきたとき頭をたれ、すすり泣きながら言った。「君が言ってくれたことは、君のような若い人からの言葉として、わたしにはものすごくありがたすい。なぜって、たぶん、わたしのような者は、生きる価値がないと感じているからね」。一人で帰らせるのはまずいと思ったが考え直した。「たぶん」ではなく、「ときどき」と言おうとしたと結論づけた。気の利いたことを言いたいと思い、自分が誉めたのは本心からと強調した。まだ泣いていたエーレンフェストはディラックの腕をつかみ言葉を捜していたが、思い浮かばなかった。
「量子の海 ディラックの深淵」より



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九月
コペンハーゲン
 ボーア主催の定例年会。
 会議室に集まった学者、神経を尖らせた雰囲気。
 挨拶や、陽電子発見の祝福をされるディラック。
 ディラックに挨拶する、ちょっと硬い表情のボーア。
ボーア 「ディラック教授久しぶり、陽電子の発見おめでとう!」
 握手するディラックとボーア。
 辺りを見回すディラック。
ディラック 「パウリは?」
ボーア 「今回は来てないみたいだな」
ディラック 「そう…」

 ボーアの邸宅。
ディラック 「新しく買ったのですか」
ボーア 「いや、政府からの贈り物だよ」
ディラック 「え?」
ボーア 「ここはデンマークの大手ビール醸造会社の敷地内でね。政府が一部買い取って、最も傑出した存命のデンマーク人に贈られる手筈になっているのだ」
ディラック 「そうなのですか」
 広間を見渡すボーア。
ボーア 「でも良かった。会議と違ってみんな陽気になって」
 不審げなディラック。
ディラック 「エーレンフェスト…」
 丸々とした顔で肥りすぎのエーレンフェスト、落ち込んだ表情でディラックを見る。
エーレンフェスト 「ディラックか…」
(ボーアの声) 「エーレンフェスト、」
 笑顔のボーア。
ボーア 「今回も討論では鋭い質問を投げかけ、発言者を明確に説明するよう仕向けたこと、有り難う。お陰で本筋とは無関係なことに逸らされずにすんだし、」
 不審げなエーレンフェストの表情。
ボーア 「新しいアイデアの特徴を見逃さずにすんだよ」
エーレンフェスト 「止してくれボーア、あれが精一杯だ」
ディラック 「私こそエーレンフェスト教授、貴方から色々教わりたいです」
 気を引き締めているボーアと、ちょっと戸惑っているディラック。
エーレンフェスト 「いったい今回の研究報告は何だ? 私にはあまりに難解で、気が滅入る文書でしかない!」
ボーア 「そう言うなエーレンフェスト、今は発見の時代だ。直に情報とデータを整理してくれる人が現れるさ」
エーレンフェスト 「なら私はそいつを待つ。自分の研究に価値はないよ。ゆっくりしたペースで研究できる地味な分野のポストで研究を続けるよ」
ボーア 「いや、量子論にはまだ貴方の力が必要だ。先の会議でもディラックの近くで、煙たい空気から離れて何時間も話していたじゃないか。な、ディラック」
ディラック 「あ、はい」
 涙ぐむエーレンフェスト。
エーレンフェスト 「ボーア。君から最大限の謝辞をもらっただけでも、私は光栄だ」
 エーレンフェスト、背を向けて歩く。
 顔を見合わせるディラックとボーア。

 壇上のボーア。
 閉会のスピーチをするボーア。
ボーア 「パーティーを閉会します!」
 一同、各々に玄関まで荷物を持ち出し、ほろ酔いで暇を告げる。
 落ち着きない、タクシーに乗ろうとしたエーレンフェスト。ディラックを前にしている。
 エーレンフェスト、ドアの前のボーアに駆け寄る。
エーレンフェスト 「ボーア、さようなら」
ボーア 「また鋭い質問をしてくれ」
ボーア夫人 「気をつけてね」
 タクシーの前のディラックに、エーレンフェスト駆け寄る。
 ディラックの前でエーレンフェスト、頭をたれてディラックの肩に手を置き、すすり泣く。
エーレンフェスト 「君が言ってくれたことは、君のような若い人からの言葉として、わたしにはものすごくありがたい、ありがたい…」
 吃驚しているボーア夫妻。
 吃驚している残っている科学者。
 ちょっと吃驚しているディラック。
(エーレンフェストの顔) 「なぜって、」
 俯いているエーレンフェスト。
エーレンフェスト 「たぶん、わたしのような者は、生きる価値がないと感じているからね」
 ディラック、ちょっと憐憫の表情。
ディラック 「自分が誉めたのは本心からです」
 エーレンフェスト、口をもぐもぐさせている。



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大塩高志
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