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今回のテレビ放映で劇場公開の映画館での鑑賞を含め、四回目の視聴の筈。私の宮崎駿体験は、
テレビの『ルパン三世』の再放送から始まった筈で、「ラピュタ」の前作の『風の谷のナウシカ』は、
封切と同時に発売されたビデオで視聴したと記憶。多分「ルパン」の再放送の時に「カリ城」も、
宮崎駿監督作品と知った筈で。だから私は宮崎駿を、アニメファンより大衆の一人として体験した形。
当時はガイドブックまで買って期待していたのですが、当時の記憶を思い起こそうとしても、
「不満だったか?」だし、「主人公の活躍が薄味になっている事」という認識を私は避けられた。で、
今回の視聴でも勇気と腕力と根気がある少年パズーは、十分(シータの)ヒーローと理解。だから、
「主人公パズーもヒーローではなく、ふつうの少年だった」は最大限の誉め言葉と思う。
単純に言えば姫や若様を主人公の立場として回避すれば、ラピュタ捜索は国家事業なので、
国家や軍が(主人公の)物語の障害となるのは当然と。また「日常的な感覚で撮られた作品」という、
アニメ様の認識も私には疑問。私には感情表現も作画も十分「活劇」と今回改めて思ったから。多分、
アニメ『タッチ』を日常アニメの基準として捉えているため。
ただ今回気付いたのはドーラ一家の海賊船、タイガーモス号の描写が意外に乏しかったことであり。
パズーがシータと一緒に見張りして一夜明けてすぐに、ムスカが同乗して軍が指揮するゴリアテに、
遭遇すると今さら気付き。多分「ラピュタに着いて終わり」を避けたためと私も推測を。でも、
ラピュタても活劇があるので、私には当時も今も十分「血沸き肉躍る」アニメ映画になっている。
ただし主人公の年齢に作家としての宮崎の限界を推察できるのですね。例えば富野由悠季が、
恋愛を十分認識できる年代をさんざん主人公にしてきた一方、宮崎駿は『風の谷のナウシカ』と、
『もののけ姫』に限られると私はは理解し。しかし二本とも宮崎は主人公(たち)に「恋愛禁止」を、
させていると思うのですよ。
そう、『天空の城ラピュタ』でのパズーとシータはぎりぎり恋愛感情が(作劇として)回避可能な、
「子供」。つまり生物としてのヒトに一番重要と私の考える生殖と欲情を徹底した避けたのが、
宮崎駿監督作品であり作家としての宮崎駿というのが私の評価。だからこそ(今の)日本の大衆が、
安心して鑑賞できるという意味。
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