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私の映画の評価の仕方は鑑賞直後はたいてい好きになるけど、時間が経って他の映画や、
世の中の動向などによる記憶の更新で、決定される形。だからまだ一回の『この世界の片隅に』は、
凄いと今でも評価し、『君の名は』は『タッチ』の直系の青春アニメとして素晴らしいと認識。一方、
『シン・ゴジラ』は変態は面白いと思うものの、愚民でもいいから大衆を描くべきとだった思っていて。
尤も押井版の二本のパト映画も権力側の人間が主人公だったと思う。しかしパト1は第二小隊という、
警察のはみ出し者が活躍する話だから庶民の私は楽しめたし、パト2は権力機構の内ゲバなので、
国家権力は疑う対象と考える私の好み。しかし『シン・ゴジラ』は、ゴジラとずっと付き合うという、
終わり方に同意するものの、私だったらもっと「まぐれで勝った」ことを強調した筈。
さて新訳Ζですが、実は評価が難しい映画であり。厳しい評価になることと評論自体が難しいの、
二つの意味が存在し。鑑賞直後は、テレビ版の放送前にシャアが出ると知って面白がったように、
穏やかなカミーユとエゥーゴの面々に楽しく観れたと記憶。しかし「列島震災」を挟む十二年の月日で、
改めて宣伝したい三部作かと問われると、『タッチ』の映画三部作と同程度という評価。
作劇で頑張ったし元々の作風を取り入れようとする気概に敬意を表するが、肝心の主題の抽出に、
失敗したと考える。映画『タッチ』は二本目で「和也を越える」が達成されたことが「失敗」で、Ζは、
「混迷の時代の乗り越え方/克服の仕方」が主題で、テレビでは最悪を物語ったと私は理解。ならば、
映画ではやはりシャアとアムロは「人間」と理解したカミーユは、先輩とは違う人類の認識が必要では?
簡単に言えばF91でも示された「世代を継承/次に期待」では、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』と、
殆ど同じ終わり方。しかし最大の難点と今考えるのは「劇場での三文芝居」と考えられ。推察するに、
当時の富野の出資者への当てつけ。テレビシリーズの激論(『朝まで生テレビ!』初回は一年後)は、
深夜での再放送の(VHS)録画視聴で面白く観た覚え。
しかし「星の鼓動は愛」でのカミーユの颯爽とした登場に、私は今さら疑問を持つ。単純に言えば、
はったりでもシロッコやハマーンと対峙できるか疑問ということ。所詮モビルスーツ乗りというのが、
三作観た後の私の認識だから。私なら「恋人たち」で自分の名前に関してフォウに語ったように、
シロッコにはギレンの真似、ハマーンにはジオンは一年戦争で負けたと宣告させる。
宣告の前にフォウやサラの悲劇を語れば、特にサラに関してはシロッコは多少は動揺すると想像を。
しかも政治家の商売道具は言葉なので、「Ζガンダムのカミーユ」として恐れられ、優秀な兵士として、
敬意を表されるとしても所詮一兵卒からの鋭い批判に、シロッコは怯むと思うのですね。そう、
自分の政治思想がぼやけてる、曖昧、空虚と明かされるので、当該の場面でシロッコは実質死ぬ。
ならば各々モビルスーツに戻った後の立ち合いでΖガンダムがジ・О(オー)に止めを刺すのに、
観客は納得させられると思うのですよ。
[3934z gundam.txt]
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2017年05月11日
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