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ニールス・ボーア
一九二〇年春のベルリン訪問でアインシュタイン、プランク、ほか何人かのドイツの物理学者と始めてあった。フランクとは暖かい友情を結んだ。フランクはまた、一九二一年にできたブライダムスヴァイの新しい研究所の最初の客員研究者になった。 『ニールス・ボーア その友と同僚よりみた生涯と業績』より
ボーア
忙しかったにもかかわらずプランクからドイツ物理学界でスペクトル線の講演を依頼されたとき、喜んで引き受けた。量子論を発見したプランクは偉大な存在で、喜んで手紙をマルグレーテやハラルドに見せた。 『ニールス・ボーア 世界を変えた科学者』より
ボーア、アインシュタイン、ヘヴェシー
ニールス・ボーアが初めてセミナーに登場したのは、一九二〇年四月のことだ。ボーアにとって初めてのベルリンだ。初対面のプランクと行動をともにし、アインシュタインとも知り合いになった。アインシュタインは、ボーアが「ただそこにいただけで」幸せだった、と述べている。ボーアの方でも、アインシュタインと話をしたことは「これまでで最高の経験」として感謝している。ヘヴェシーは「ベルリンでボーアに贈られた拍手喝采は、これまで聞いたこともないものだった。老いも若きも、心から素晴らしいと讃えた」 『リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者』より
(四月下旬と推定)
ボーア
アインシュタインと初めて会った年で、原子理論を講義するためベルリンに招かれた時だった。 (不明) [3912ej20 042x nuki .txt]
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抜書
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四月二十日前後
エドワード・テラー
エドワード・テラー、一九三〇年春、二二歳で水素分子イオンに関する量子力学的な博士論文研究を完成。 復活祭(四月二十日)の休暇中、ハイゼンベルクはボーアのサークルに紹介する。次はゲッティンゲンでの助手職で、特にフランク、ハイトラー、ノルトハイムと共同研究し、量子力学を分子物理学の問題に応用する専門家として名をなした。「ゾンマーフェルトとその学派を巡って」 [3909ej30 0420 nuki .txt]
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三月下旬
ドイツ軍
三月下旬には連合国軍は中間が突破され、ドイツ軍はいきおいよくなだれ込んだ。 『毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者』より
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3月16日
ハーンとマイトナー
1913年に始められたアクチニウム元素の祖先さがしは戦争中に終わった。ウランとラジウムが除去された残留物の中に、未発見の長寿命の放射性元素が見つけ出さなければならないという予想が確かめられた。化学的に分離することが特別に困難で工業界では「灰色の不幸」と呼ばれた。ハーンとマイトナーは強い化学物質を使って、三つの段階を経て屈服させた。元素を濃縮し、定数を決定することにも、成功したのだった。 『オットー・ハーン 科学者の義務と責任』より
マイトナーとハーン
検電器によってアクチニウムの〈母〉物質が確かめられたのは、一九一八年のことだった。 『リーゼ・マイトナー 嵐の時代を生き抜いた女性科学者』より [3872ej18 0316 nuki.txt]
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3月14日
シュレーディンガー
1918年3月14日に学会で発表した論文において、友人のコールラウシュが1906年考案したゆらぎ測定の方法に対して、完全な統計的分析を行った。 『シュレーディンガー その生涯と思想』より
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