三月三日
ボルシェヴィキ
ボルシェヴィキは帝国主義戦争否定の立場により、全交戦国に対し、即時無併合・無賠償の講和を呼びかけた。だが、受け入れられなかったので、一九一八年の三月に、ドイツとポーランドのブレストリトブスクで単独講和を結び、ロシアは東部戦線から離脱した。西部戦線で戦う諸国に深刻な打撃となった。
『マリー・キュリー 激動の時代に生きた女性科学者の素顔』より
[3855ej18 0303 nuki.txt]
|
3月1日
突撃隊の指導者ホルスト・ヴェッセル
3月1日突撃隊の指導者ホルスト・ヴェッセルが共産党員による自宅襲撃で死亡し、「ベルリン戦に殉じた勇士」を讃える歌はナチス党歌になった。政府は突撃隊を禁止したがゲッペルスは茶色のシャツを白いシャツに変えるよう命令しただけで、活動は以前にも増して続けられた。
『シュレーディンガー その生涯と思想』より
[3853ej30 0301 nuki.txt]
|
三月
ボーア、ゾンマーフェルト
論文のページ数は膨大になり、分けて発表することに決めた。王立デンマーク科学院報告に第一部は一九一八年三月、第二部は同年十二月号に載った。第二号が載るまでに第三、第四部も仕上がっていたが、修正したいと思っていた。
しかしゾンマーフェルトはとくに初期の理論を、ボーアの考え以上に出来上がったものとして見る向きがあった。一九一八年にあてた手紙で、選択法則を導き出すルビノヴィッツの「わかりやすい」方法を論じた後、書き加えている。「……あなたの方法はたしからさらに先へ進んでいます。しかし上記の考えの方が教訓的であるように思われます……」。
ニールス・ボーア自身と、輝やかしい数学者であった弟のハラルは、ニールスが子供のように、自分が見たり聞いたりしたことを無邪気に、決然と信じてしまう例をいくつか話してくれた。また周囲の人から、非常に早くから幾何学的直観が発達していたことを聞いている。容器の容量を正確に判定することに発揮され、著名な生理学者で思想家であった父を喜ばせたという。第一の性質は宗教の授業で学んだことを信じてしまったため、両親が無信仰だったことにニールス少年が不安になったことが挙げられる。後年、一人の青年として宗教を疑い始めた時、今度は異常な決意で追及し、初期のギリシア哲学者を特徴づける深い哲学的傾向を身につけるようになった。ハラル・ホフディングの客観主義と存在における調和の自由な探求が、精神発達に意義があったと思われる他は、流行の哲学思潮とは無縁であった。
心理に対する感受性に裏打ちされかつ意志の問題の関心のおかげで、どんな問題でも安っぽい一般化に陥ることを警戒できたし、研究の本質から生起する非合理性に気づくこともできた。
ニールス・ボーアの科学的業績を順を追って調べた者なら、以上にのべた基調が、科学者として出発したときに遭遇した物理学の問題と同調しているのを感得できるであろう。物理学研究にあらわされるよりずっと前から持っていたことは、初期からの友人にはよく知られていた。二十年もあとで旧友が相補性に関する研究を話たとき、仲間の一人はボーアがいつも考えていたことであると言った。ボーアは笑って途方もない誇張といったが、われわれ初期の弟子達は真実が含まれていると証言できる。
『ニールス・ボーア その友と同僚よりみた生涯と業績』より
[3852ej18 03xx nuki.txt]
|
ディラック、ディラックの、家族と同僚
母親は受け取った翌日図書館に行った際、息子が王立協会のフェローに選ばれたという新聞記事を読んで仰天した。イギリス科学界で最高の栄誉で、誇らしさで頬を高潮させ郵便局に駆け込んで祝電を打った。葉書で触れていないのは解せなかったが、気持ちはつとめて隠した。息子を「いたずら坊主」と呼び、任命式をやるのかと尋ねた。一語一語下線を引いて、苛立ちを強調してしたためた。
今や自分の名前に続けてFRSと書くことができ、ほかの肩書きなど不要だった。当時四四七名のフェローを擁していたが、四〇代から五〇代になって推薦と落選を繰り返して任命されるのが普通である。したがって二七歳で初めて推薦され選任されたのは例外である。ハイ・テーブルと談話室で噂が広まったとき、最年少で選ばれたことに気づかない特別研究員などいなかったろう。
ニュースを聞いて、両親は息子の評判が素早く上がったことを痛感したようだ。「ボート・レースに興味を示さなかったのも当然ね」。やる気をなくしていたフローにとって願ってもない刺激だった。学校ではチャールズの同僚が列をなして祝いの言葉を贈り、手紙を受け取った。ポールに工学を教えたアンドリュー・ロバートソンは、卒業生で最初に王立協会員になるに無知外ないと確信していたと述べた。理論物理学の道に向かわせたロナルド・ハッセは、九月にブリストルで初めての公開講演を楽しみにしていると書いた。ブリストル市は英国科学振興協会の年会の開催地となる予定で、一週間にわたり科学者と市民が共に最新の科学についての講演を聴くのだった。チャールズは思わぬときに祝いの言葉をぶつけられ通しで、一度など授業中に知らない人間が二人も教室を訪れて偉大な業績を誉め、去っていった。
おそらく自分の成功を祝うため母親の勧めに従って初めての車、時速五〇マイルが出せるモーリス・オックスフォード・ツアラーに大枚をはたいた。運転免許試験はなく販売の契約が成立すると、販売店の店主はディラックを乗せてケンブリッジの街なかを少し走って見せたあと、車のキーを手渡した。同年時速二〇マイルの速度制限が廃止されてハイウエーは危険が増したが、ディラックの運転だからなおさらで、同僚の一人は「ディラックの車はギアがリバースとトップしかない」。と言って笑った。
「量子の海、ディラックの深淵」より
[3845ej30 0222 nuki.txt]
|
二月十一日
ドイツ軍
明けて一九一八年の二月十一日払暁、厚い霧のなかをドイツ軍の四千門の大砲が火を噴き、大戦中最大規模の猛攻の火蓋が切って落とされた。アメリカ軍が来援することは必至であり、それまでに三〇パーセント増えた兵力で、打って出なければならない。時間との戦いであった。
『毒ガス開発の父ハーバー』より
[3833ej18 0211 nuki.txt]
|