一月二七日
アインシュタイン
ボルンへ。ベルリーナ宛認められた、若い同学の徒デーリンガーの件について。現在こちらには天文学研究資金が多額で、私に一任されている。天体物理学研究をする気持ちはないでしょうか。年額六千マルク出せると思います。多少は増額出来るかもしれません。フロイントリヒと一緒にしていただくことになります。星のスペクトルの光度測定です。技術的実験の仕事の方がよろしければ、別口を探すあてもあります。ただ今日、学問ではなかなか生活できないのが残念です。
母が回復のあてのないまま、筆舌を絶して苦しんでいます。お迎えが来るまでには、だいぶ間があるでしょう。エルゼはよくやってくれています。妻も楽ではありません。わずかな私の向学心が、さらに乏しくなっています。
そちらもお子さんたちがまた病気では大変でしょう。奥さん、あなたまでとは冗談が過ぎます。そんな中できみは相対性の高遠をやっては研究所の破産を救い、おまけに論文まで仕上げるのですから。
ファヤンスのことはハーバーもひどく非難しています。ハーバーは自分で勝手に取り上げた数値なのにその点を全然考慮せず、見つかった符号の価値を極端に過大評価。連続性を放棄しなければ量子論を解決できないとは、考えていません。その伝で行けば、座標系を放棄しても一般相対性理論を作り出せる。連続性なしで、どうやってn点の相対的運動を表せというのですか。パウリの反論はヴァイルに反するばかりか、他のあらゆる連続性理論にも抵触しますし、電子を単一として捉える理論にも反する。解がもはや連続的性格を持たないような過剰な決定を、微分方程式によって求めるべき。ただどうしたらできるか、皆目見当がつかないのです。
政局は一貫してポルシェヴィズムの方へ進んでいます。ロシアの表面的な大成功が、不安定さをます西欧諸国、ことにわが国の現状と相まってそうなるのだと思われます。しかし本格化するまでに流血ざたがあるに違いありません。
ニコライに対する非難と攻撃はまことに厳しく、彼は講義をすることができません。私はまたしても公的な立場で弁護しなければなりませんでした。
フランスは目も当てられぬ役を引き受けています。勝利という者は全く担い難きもの。エルツベルガー告訴はいい気なものです。
ポルシェヴィストを毛嫌いする気は毛頭ありません。理論の方はこっけい極まりないですが。成り行きを確かめることができたら、面白いだろうと思います。とにかく彼らの言葉は大きな影響力を持っています。連中は政治的才能のある人間を前面に立てています。最近ラデックのパンフレットを読みましたが――自分の仕事を心得ていて賛嘆の限り。
私の意見をイギリスで発表しろというのですか。イギリスも自分の問題で手いっぱいです。ドイツの窮状打開になにができるでしょう。アメリカ同様、援助活動ぐらい。それしきのことでは、焼け石に水。講和条約の内容は過酷すぎ。でも、履行できないのですから、承服しがたいだけのものより好都合。連合国の国民の立場にすれば、勇敢に戦ったフランスに感謝の意を表すため。なお春、メダルをもらいにイギリスに行きますので、猿芝居の向こう側をこの目で確かめてきます。
シュペングラーは私を放っておいてくれませんでした。シュペングラーはユークリット――カルテシウス(デカルトのラテン名)を対比して、何にでも適用するのです。でも彼は才気があります
因果律の問題には、私もほとほと困っています。光の量子的な吸収と放出は、完全に因果的な考え方で理解できるときが来るか、断言する勇気がありません。
シュテルンの言っていることは理解できません。なぜなら自然が「わかりやすい」という言葉が何を意味するかはっきりしないから。(厳格な因果律か否かという問題でしたら、言っている意味は明瞭です)。
ゾンマーフェルトの本はすばらしい。もっとも率直に言わせてもらうと、純粋無垢とは言いかねるものを持っていると思えます。
君の手紙が本省で効果をあげて大変喜んでいます。やはりいろいろな点でよくなったのですね。最近聞いた話では、正教授たるきみの独裁的権力の方も惨憺たる最期を迎えるということです。
奥さん、お子さん方が丈夫になられ次第、実験室で実験技術習得を始められたらいかがでしょうか。本気で申し上げています。あなたのような方は、ご自分の才能を発揮できる仕事が必要です。
『アインシュタイン・ボルン往復書簡集』より
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(一月十日のはず)
アインシュタイン
「連盟が存在していることに対しては、いつも感謝しています」 連盟の十周年記念日に際して。しかし合衆国の協力なくしては、連盟が正義の原動力たり得ないこといつも強調していた。
科学者は、国際的な理解の原因を進めるために演ずべき、特殊な役割があると考えていた。科学者の仕事は国境による制限がなく、価値判断は客観的である傾向をもつ。したがってそれぞれの国の科学者にとって、共通の拠りどころを見出すのは非常に容易と考えていたから。
「私の政治的な理想は民主主義である。しかし究極の目標にため、一人の人物が判断と命令し、責任のほとんどをとることに止むをえない。しかし指導される人々が強いられてはならない」
ドイツが独裁制になる前、当時なお行なわれていた形式的民主主義の暗い面と同様に、独裁制の暗い面を認めていた。
「私は今日ロシアおよびイタリアに存在するような制度に対して、いつも激しく反対していた」
アメリカの政治組織を、ドイツまたはフランス共和国より優れた民主主義の形態とみなしていた。
「われわれの慌しい生活の中で真に価値のあるものは、国民ではなくて、独創的で感受性の強い個性であり、人格性であると私はいいたい」
独裁主義が一人の選良を認めるが故に反対するのではなく、多数の人々の間に愚民精神を発展せしめようと試みるが故に反対した。戦争と兵役の回避は非常に望ましいと考えたので、各個人の兵役含む拒否が最も有効な手段と考えた。
『評伝 アインシュタイン』より
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ヒルベルト、ワイル
教授は六八歳になると引退しなければならなかったが、ヒルベルトは一九三〇年一月二三日に達するはずであった。ゲッティンゲンでは、予期と悲しみの湿った甘辛い雰囲気が漂っていた。
引退が近づくにつれて、後を継ぐべきかについて考えがだされた。(中略)もしクーランが新しい世代の『クライン』であるとすれば、ワイルこそ『ヒルベルト』であった。
一〇年程前に、ワイルは戦後ドイツの生活が不安定であったゆえに断った。ヒルベルトはいっている。「(中略)会いに行くのは簡単だが、こちらの人になってもらおうとするとなかなか手こずらせる」。またワイルは決心がつかなかった。イギリスから帰って間もなかったが、留守中に机の上に積み重ねられた新聞、手紙の中に表わされたペシミズムの数々を目にして、いろいろ気をもんだのである。加えて、自分が、ゲッティンゲンにとって妥当な選択対象ではあり得ないのではないかということについても気にしていた。当時四五歳だった。自分が創造的時期の終りに近づいていたことを知っていた。「これからも偉大な業績が期待できる」若いエミール・アルティンのような人をとるべきではなかろうか? しかし申し出にひかれた。ワイルはヒルベルトを愛し敬っていた。また、ゲッティンゲンの数学―物理学的伝統には、アルティンよりもかかわっていることを知っていた。クーラン、ボルン、フランクと協働できることはありがたいことだった。情況はよくなっているように思えた。ダウ・プランによって経済的問題は解決に向っていた。友人アインシュタインの仕事に関して「ユダヤ人の物理学」云々とつぶやいていた狂信集団は例外的としてとどまっているように思われた。
「あなたの後継者と呼ばれて、どのような歓喜と誇りとに満たされたか、申し上げるまでもありません」とヒルベルトに書いている。(中略)ドイツをおおう暗雲は、急には晴れないだろう。「しかし、これから先、あなたの傍にあって長く幸福な年月が送れることを、私は望んでおります……申し出をお受けするのが遅れましたことを、どうかお許し下さい」
『ヒルベルト――現代数学の巨峰』
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一月二〇日
ディラック、ウィルトシャー
ウィルトシャーらー学友たちも新しい理論に夢中になり、複雑で難解な理論をはっきりさせようとがんばった。しかし教師たちもイギリスのだいたいの学者のように、科学革命と称される理論について学生以上に知っているわけではなかった。《ネイチャー》などの専門誌にときどき論文が載る以外、相対性理論についての情報源は新聞と一般雑誌だけで、編集者たちは広いスペースを解説者に与えて、常識とは相容れないらしいことを憶測に基づいて――たいていは面白おかしく――論じさせた。一九二〇年一月二〇日の《パンチ》はイギリスの憎むべき敵ドイツで生まれた相対性理論に対して、多くの人々が困惑している様子を歌った、反ユダヤ的な詩を掲載した。
ユークリッドは行ってしまった、
教師たちに見限られ、追放されて。
そして、現代のドイツ生まれのユダヤ人物理学者たちは、
空間のなかの奇妙なねじれと
矢のように進む光の道筋のずれを見出し、
ニュートンの理論をさんざんに破壊した。
新聞や雑誌は一般市民の関心を集めるようになって数ヵ月の間に、生半可な解説書の広告で溢れかえった。当時は科学ジャーナリストはいなかったのでウィルトシャーと、科学者が一般向けに書いた記事に頼らねばならなかった。注目に値するのがアーサー・エディントンで、クエーカー教徒でケンブリッジ大学で天文学と数学を研究しており、相対性理論に精通している唯一のイギリス人だった。しかも相対性理論の正しさを証明した日食観測旅行の一つに自ら参加していた。
「量子の海 ディラックの深淵」より
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1月17日
シュレーディンガー
理論物理学の椅子は依然決まらぬままで、1920年1月17日教授会はシュレーディンガーを助教授に推薦した。本人は早く結婚したかったがアニーの収入を当てにしたくないと考えていた時、イェナのマックス・ヴィーンから理論の講義も受け持つ条件で助手の口がかかった。年棒2000マルクでまずまずと思われた。ドイツのインフレが始まっていなかった時期である。コンサルタントの副収入があるティリングがウィーンの助教授を受けて最終的(1927年)には理論物理学の教授に任命されたが、理論物理の研究を事実上やめてしまっていた。後になってみるとティリングの友人がウィーンから逃げ出したのは幸いであった。
『シュレーディンガー その生涯と思想』より
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