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年はじめ
ドイツとロシア
1918年はじめになると、戦況は帝国ドイツにとってさらに悪くなった。戦争に反対する声が、多数を占めるようになった。ストライキやデモは増加し、ロシアでは皇帝の支配を終わらせ、事実上、東部戦線の戦争は終わった。 『オットー・ハーン―科学者の義務と責任とは』より
年初め
物理学者達
一九一八年初めに物理学者達は、量子論の創始者の六〇歳の誕生日を祝うこととした。ドイツ物理学会の座長を務めていたアインシュタインは、ミュンヘンに二度書き送っている。「四月末にわれわれは、プランクの六〇回目の誕生日を祝って記念学会を行います(後略)」。 『プランクの生涯』より
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抜書
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年が明けた最初の会合
シュレーディンガー
亡くなった時ルードルフは動植物学会副会長であったので、年が明けた最初の会合で旧友のアントン・ハントリルシュ教授が、ルードルフを讃える演説をした。 『シュレーディンガー その生涯と思想』より
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初頭
シュレーディンガー
1918年初頭チェルノヴィッツ大学の理論物理学教授候補として考慮されているという手紙を受け取った。「ところがほどなくオーストリアの領土でなくなってしまうのだから、運命のいたずらというものであろう」。服役中であっても哲学の書物を耽読する時間を持ち、実際無益な殺傷と破壊にあって、唯一の救いとなったのである。 『シュレーディンガー その生涯と思想』
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年明け
シュレーディンガー
年があけると(オーストリアは)まったくのインフレになった。そのためにもともと少なかった父の銀行資金の価値はなくなり、(私が賛成してしまい)父がペルシャじゅうたんを売った金の価値もなくなってしまった。また(父の了解ずみで)死んでから売った、浪費物でない器械はもちろん、つまらない書類類の価値もなくなった。関心のない大部分は古本屋に売ってしまった。 『シュレーディンガー わが世界観【自伝】』より
年初め
ネルンスト
ダルゲルスドルフの屋敷は一九二〇年初めに危機が到来し、馴れぬうちに売ると決めた。戦争犯罪人の容疑者のリストを準備していたが、兵器研究に従事した科学者はすべて載ると判明。まずスウェーデンに行き、スイスに移ったが、間もなく除外され、元の職場に戻ったのである。 『ネルンストの世界』より [3775ej20 toshi hajime nuki.txt]
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正月
(ニールス・)ボーア、オスカー・クライン
一九二〇年の正月の頃、ボーアは私(オスカー・クライン)と私のスウェーデンの友人といっしょにダーラネへ、スキー旅行に出かけて、実際的な能力で感銘を与えた。「教授であるかの見分けは、自分の手袋を忘れていることである」。[訳注 他人のスキーの世話をして、手袋をはめるひまがなかったことを意味する]。夕べに泊った小さな山小屋で一般的な物の見方を語ってくれた。中でも超心理学的現象に批判的な立場を、無線電信(ラジオのこと)を精神感応に対する反証として話した。 『ニールス・ボーア その友と同僚よりみた生涯と業績』より
ラザフォード
一九二〇年正月にはダーウィンと一しょに大きな木にノコギリをかけたりして全く元気だと書いている。娘はケンブリッジの社交生活を楽しみ、自分自身はトリニティ大学のホールで食事していた。 『ラザフォード 原子の開拓者』より
[3774ej20 shougatsu nuki.txt]
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