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年が始まるころ
ディラック
 家でも憂鬱な気分から開放されることはなかった。学校から帰った父親は意地の悪い暴君へと豹変し、フローの料理は配給制になったためにどんどん簡素に量も減っていった。一九一八年が始まるころにはパン、マーガリン、果物、肉を買うために長い行列に並ばねばならなかった。鶏一羽の値段は一ギニーという肉体労働者の一週間分の給料に相当する額まで上がった。なので多くの家庭で果物や野菜が育てられるようになった。庭仕事があるからといえば、家の中に漂ういやな空気から逃れることができた。
「量子の海、ディラックの深淵」より

年はじめ
ドイツとロシア
 1918年はじめになると、戦況は帝国ドイツにとってさらに悪くなった。戦争に反対する声が、多数を占めるようになった。ストライキやデモは増加し、ロシアでは皇帝の支配を終わらせ、事実上、東部戦線の戦争は終わった。
『オットー・ハーン 科学者の義務と責任とは』より

年初め
物理学者達
 一九一八年初めに物理学者達は、量子論の創始者の六〇歳の誕生日を祝うこととした。ドイツ物理学会の座長を務めていたアインシュタインは、ミュンヘンに二度書き送っている。「四月末にわれわれは、プランクの六〇回目の誕生日を祝って記念学会を行います(後略)」。
『プランクの生涯』より

[3773ej18 toshi hajime nuki.txt]

年末
シュタルク
 一九三三年末、シュタルクはすでに自らの運動を公的に注目させる影響力を有していた。
「ゾンマーフェルトとその学派を巡って」より

フリッシュ、物理化学研究所
 一九三三年末フリッシュはロンドンに移り、一年間ブラケットのもと研究することになった。後はコペンハーゲンに移り、三九年までとどまった。
 一九三三年末には、物理化学研究所は堂々たる「モデル研究所」に変わっていた。スタッフはすべて党員で固められた。自分の果たした役割について、ハーンは後年、「不愉快で誰にも感謝されない仕事」にベストを尽くくした、と述べている。しかし、こうも言えるだろう。何の見返りもなく、自分と研究所は見逃してもらえるだろう、というぼんやりした期待だけで。下手な取引だった。ナチスはハーンの値打ちを知ってしまった。
『リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者』より

ボーア、フリッシュ、ブラケット
 ボーアはとくに若い科学者にポストを見つけるべく、目配りをきかせていた。一九三三年末フリッシュはロンドンに移り、一年間ブラケットのもと研究することになった。
『リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者』より

年の末
ディラック
 大多数の量子力学研究者が陽電子は存在し、検出される前に空孔理論に記されていることを受け入れるようになったのは、一九三三年の末になってからのことだった。ミリカンだけが、宇宙線は「産声」という自身の理論を支持者がいなくなっても固執しつづけ、対生成に反対していた。

 あとから考えれば空孔理論を真剣に受け止めていたなら、陽電子は数ヵ月速く発見されていたと思われる。アンダーソンはのちに十分な設備が整った実験室で研究していたら、理論を額面通り受け止めさえすれば放射線を使って、一日の午後数時間をかければ」陽電子を発見できただろうと述べ、ブラケットも同意した。ディラック自身あとに気づいたようだが、陽電子の発見が遅れた一番の牽引は自分だった。というのも実験家に探し求めなければならないと強く主張したこともなければ、簡単に入手できる装置を使えば検出できるかもしれないと提案したこともなかった。三三年ののち堂々と予測しなかった理由を尋ねられて答えている。「臆病だったから、それだけです」。

 自分は陽電子を予測したのだと確信していたし、一九三三年以来公にも主張し続けてきたが、「予測」というのは言いすぎだと反論した解説者もいた。ブラケットさえも「ディラックは陽電子を予測するほんとうに間際まで来ていたが、ちゃんと予測していたわけではなかった」。と書いている。ディラックが読んだら傷ついたに違いない。
「量子の海 ディラックの深淵」より


[3772ej33 nenmatsu moto.txt]


ランデ
 クリスマスを前にして、ランデは去った。赤十字に二年間いた。後で、徴兵された。「その頃には誰彼かまいなしに徴兵されたから」
『ヒルベルト――現代数学の巨峰』より

クリスマス
ネルンスト
 普通のドイツ人はわからなかったが、クリスマスに帰宅した折に戦いは既に敗れたといって、家族や友人を戦慄させた。敗北主義でもなければ愛国主義の欠如でもなく、冷静な批判的分析だった。
 マルヌ方面から帰還したあと最高司令部に召集され、他の科学者とともに顧問団の一員に。将軍たちの優柔不断さがフランスとロシアに於いて、参謀本部が予期しなかった事態を作った。敵に包囲され、敵の戦力は増大し、ひどいことにはドイツは限られた資源で戦わねばならなかった。
 以上がクリスマスに分析した見解の実情。

 マルヌの会戦に参加したネルンストは、捕らわれそうなスリルを冒しながら、クリスマスのときに帰国することができた。
 興味深いことに、教授は帰宅するとすぐ、「この戦争はすでに敗れた」と公言したというのも、率直な性格の表れであっただろう。西部戦線が膠着したのをつぶさに観察したうえでの、科学者らしい冷静な分析だった。
『ネルンストの世界』より

クリスマス後
ネルンスト
 しかしすぐ、ほかの科学者たちといっしょに最高司令部に召集されて顧問団の一人になった。(中略)戦略上の主導権を回復する希望は、科学技術に頼るほかないと考えるに至ったからだ。
「毒ガス開発の父ハーバー」より

ハーン
 クリスマス後に休暇を得た。
「毒ガス開発の父ハーバー」より


[3764ej14 1224 moto.txt]

暮れ
プランク、レーナルト、シュタルク
 暮れにアカデミーの講義義務を負わない教授職だったアインシュタインの後任にラウエを推薦。同僚の書記も合意し当該者に提出したところ、教育・文化省はヒトラーを支持して権勢を得ていたレーナルトとシュタルクに助言を求めた。レーナルトは次のような所見を述べた。アインシュタインをアカデミーに招聘したのはプランクであり、ラウエはアインシュタインのもっとも親しい友人である。そしてつい最近、ラウエはナチによる相対性理論の処遇をガリレオの迫害になぞらえた。シュタルクは、五月以降就任していた帝国物理学・工学研究所所長として書いた。「プランクとフォン・ラウエが影響力をもちつづけるならば、アインシュタイン自身がアカデミーにとどまる以上に悪い結果を招くことになろう」。
「マックス・プランクの生涯」より

ワイル
 ワイルも年の暮にはアメリカに渡り、ゲッチンゲンは空家も同然となる。
「波動力学形成史」より



[3760ej33 kure moto.txt]

(クリスマス)休暇中
エリス、マイトナーとプランク、ルーベンス、チャドウィック
 エリスは一九一四年、休暇中にドイツで捕えられた。入れられた男性は、厳寒と窮屈と飢えに苦しんでいた。マイトナーとプランク、ルーベンスらが口を利いたおかげでチャドウィックは時折外出を許可され、科学装置の使用まで許可されたが、戦争が終わるまで捕虜のままだった。
『リーゼ・マイトナー―嵐の時代を生き抜いた女性科学者』わり






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