平和の翼ジャーナル

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浜松とビルマ(ミャンマー)

シュエバ



はじめに

2009年1月、浜松にある静岡文化芸術大学の公開講座でビルマについて講演する機会がありました。浜松へは4度目の訪問でした。これまでの3回はいずれも日本でビルマにかかわる話題や事件の取材でした。久しぶりに浜松へ行くというので昔のことをいろいろと思い出しました。浜松とビルマ(ミャンマー)とのタンヨーズィン(縁)についてです。以下の小文はそのとき浜松のみなさんにお話したことの一部をまとめたものです。

アウンサン、浜松へ

浜松の景勝地舘山寺温泉に近い大草山公園に二つの碑が並んで立っています。1970年代の半ばに建立されたものです。そのうちの一つにはビルマ語が刻まれています。碑の上段に「ジャパン=ミャンマー・チッチーイエー」と書かれています。「日本=ミャンマー友好」という意味です。当時の在日ビルマ大使が揮毫したものです。そのビルマ語の下には、この地からビルマ独立の動きが始まったと言う意味のことが日本語で書かれています。となりの碑は太平洋戦争中にビルマ戦線で亡くなった静岡県出身者のための慰霊碑だったと記憶しています。
なぜ浜松がビルマの独立とかかわるのでしょうか? 立役者は浜松市恩地出身の鈴木敬司陸軍大佐(終戦時には少将)とアウンサン将軍(アウンサンスーチーの父)です。
 1940年、陸軍参謀本部の一員だった鈴木大佐は、読売新聞記者・南益世という偽造旅券を使ってイギリス統治下のビルマへ入ります。目的はビルマロードの閉鎖でした。日中戦争をたたかっていた日本軍部は、蒋介石率いる中国政府(当時は南京から重慶へ移っていた)へビルマを縦断して物資を運ぶ連合国の補給路(ビルマロード)を封鎖しようとしていました。そのために反英独立をめざすビルマ人の組織と連携しようと考えたわけです。
 ラングーンに着いた鈴木大佐は独立をめざす組織のリーダー二人が外国の援助を求めてすでにビルマを脱出しているとの情報を入手、さっそく手をまわして接触を試みました。二人は中国のアモイに滞在していました。鈴木大佐はこの二人を日本へ連れてきました。それがタキン・アウンサンとタキン・フラミャイン(のちのビルマ共産党幹部ボ・ヤンアウン)です。まだ20代の二人はタキン党(ドバマ協会の別称)という独立運動組織のメンバーでした。タキンとはビルマ語で「主人」の意味、イギリス人ではなく自分たちこそがビルマの主人であるという気持ちをこめて名乗ったのです。
 鈴木大佐はさらに多くのビルマ人青年を密航させて日本へ集め、軍事訓練を与えたうえでビルマへ送り、国内に騒乱を起こさせようと考えました。アウンサンたちの方は、この機会に乗じてビルマの独立を果たそうというおもいでした。しかし、参謀本部はなかなかそのプランを認めません。その間、鈴木大佐は密航者であるビルマ人青年の面倒をみなければなりませんでした。東京神田の旅館駿台荘(脚本家大石静さんはここで育ったそうです)や高円寺、それに浜松市内恩地の実家、浜松のすぐ隣にある弁天島の小松屋旅館などにかくまいました。
小松屋旅館はたしか1990年代まで残っていましたが今はもう廃業しました。1986年、当時京都大学東南アジア研究センター客員研究員として日本に滞在していたアウンサンスーチーは父の足跡をたずねて弁天島まで足を伸ばしたといいます。彼女が弁天島へ行ったときは海からの風がふきつける寒い日だったとのこと、「父は寒がりでしから、たいへんだっただろうなあ」とのおもいで父をしのんだと話してくれました。たしかに、泉谷達郎さんの本には、小松屋旅館の一室か、鈴木大佐の実家か、はっきりしませんが、厚手のどてらを着込んで背中を丸めている若きアウンサンを撮った写真が掲載されています。

ビルマ独立義勇軍と雷将軍

 アウンサンはおそらくは浜松で想を練ったであろうビルマ独立をめざすプランを提出し、鈴木大佐らが奔走した結果、参謀本部は動き出します。鈴木大佐を長とする謀略機関「南機関」が作られました。「南」は鈴木大佐がかつて名乗った偽名・南益世からとったものだそうです。南機関は、おもにタキン党のメンバーである青年たちを手引きしてつぎつぎに日本へ脱出させ、30人が集りました。のちに三十人志士(イエボートンジェイ)と呼ばれる人たちです。彼らは海南島、玉里(台湾)で軍事訓練を受け、1941年12月、「大東亜戦争」開戦直後、タイ国へ移動、ビルマ独立義勇軍(BIA)を創設しました。司令官は鈴木大佐、アウンサンはビルマ人側のリーダーとして高級参謀となりました。
 1942年1月、日本軍はビルマへの侵攻を開始、BIAも同行しました。バンコクでは200人ぐらいの人数だったBIAはビルマの地に入るや、あっというまに勢力を拡大し数万人の兵力をかかえるようになりました。この時、鈴木大佐はボ・モジョ(雷将軍)と名乗り、ビルマ人たちからは東方から白馬にまたがってやって来た「救世主」とされ、たいへんな人気を博しました。
 日本軍は数ヶ月のうちにビルマ全土からイギリス軍(実際はカチン、カレン、チンなどのビルマ原住少数民族が中心)を掃討し、ビルマに軍政を布きます。これはアウンサンらBIAから見ると「約束違反」でした。彼らはビルマからイギリス勢力を追い出した段階で日本はビルマ独立を認めるものと理解していたのです。この間、大本営とのあいだに意見の食い違いがあったのか、鈴木大佐は1942年7月にビルマを去り、南機関も消滅しました。日本政府は1943年8月、ビルマに対して大東亜共栄圏内での「独立」を供与、バモー(日本ではバーモと表記)政府のもとでアウンサンは国防相に就任しますが、その時期からすでに将来のビルマ独立をにらんで、反日叛乱のための地下組織作りを始めていました。

 ビルマ国軍(BIAが改編されたもの)を率いるアウンサンは共産党・社会党や少数民族組織と連携をとり「反ファシスト(ファシストは日本軍を指す)人民自由連盟(AFPFL。パサパラ)」を結成し、ビルマ全土にネットワークを広げます。日本軍はインパール作戦の失敗、中国、インド両方面からの連合軍の反攻に抗しきれず退勢に追い込まれます。1945年3月27日、ビルマ国軍も反日叛乱を開始、8月には日本軍は連合軍に降伏、「大東亜戦争」は終焉を迎えました。
 日本軍が去ったあとへ復帰した宗主国イギリスはビルマ統治を再開しますが、アウンサン率いるAFPFLは国民の力を結集してイギリスと粘り強い交渉を行ない、ビルマ連邦は1948年1月4日に独立を達成しました。しかし残念ながらアウンサン自身は独立を目前にした1947年7月19日、制憲議会の場で政敵の手によって暗殺されました。アウンサンさえ生きていれば、ビルマの歴史は変わっていたのに、ビルマ国民の多くはそんなおもいで独立の父の殉難を残念がります。こうした気持ちは娘アウンサンスーチーへの期待にもつながっています。

大草山ふたたび登場

 1988年9月、大草山国民宿舎にはビルマ語が飛び交っていました。母国の民主化運動に呼応して日本からも声を上げようというビルマ人たち、およそ500人が日本全国から集ってきたのです。なぜ大草山が集合場所に選ばれたのか、日本のほぼ真ん中で東からも西からもあつまりやすいほかに、独立の父アウンサンゆかりの碑があることも理由のひとつでした。
 この年、ビルマでは1962年以来26年間にわたってつづいた軍部独裁政権への不満が爆発、大規模な民主化闘争が展開されました。アウンサン亡き後のビルマ国軍を率いたネウィン(三十人志士の一員)はビルマ式社会主義を国是にかかげ、政治・経済・社会すべての分野を国軍の支配の下に置く体制をとっていました。政党はビルマ社会主義計画党(BSPP。マサラ)しか認められませんでした。労働組合も「官製」。日本のビルマ人留学生協会すら解散させられました。言論・表現の自由もありません。無策な軍人のせいで経済は疲弊し、かつてはとなりのタイ国より進んでいたはずのビルマは最貧国(LLDC)にまで転落しました。1988年3月、大学生と当局との紛争がきっかけとなり、一党支配打倒、民主主義獲得の動きはたちまちのうちに全国に広がりました。
 民主化運動が最高潮に達したのは1988年8月8日(8888)、直後にアウンサンスーチーが政治の舞台に登場します。彼女の言葉は国民の胸を打ちました。「父の作った軍隊は国民に銃口を向けない」。「父がめざしたのは平和な、民主主義の連邦国家です」。「私たちはこれから第二の独立闘争をたたかいます!」。
 おそらく母国民主化をめざす在日ビルマ人も「第二の独立闘争」に共鳴したのでしょう。独立の父アウンサンゆかりの大草山に集り、はじめての民主化運動組織「在日ビルマ人協会(BAIJ)」を立ち上げました。その後、在日ビルマ人の民主化組織はさまざまに変遷し、BAIJも姿を消しましたが、日本での運動がこの地ではじまったことは民主化運動の歴史に刻まれるはずです。

平和の翼ジャーナル(Vol.5)



参考文献

泉谷達郎『ビルマ独立秘史 その名は南謀略機関』徳間書店 1967
田辺寿夫『ビルマ民主化運動1988』梨の木舎 1989
ボ・ミンガウン著 田辺寿夫編訳『アウンサン将軍と三十人の志士』中央公論 1990
アウンサンスーチー著 マイケル・アリス編『自由』集英社 1991
根津清『難民認定 ミャミャウィンが語った1500日』ダイヤモンド社 1992
根本敬『アウンサン 封印されたビルマ独立の夢』岩波書店 1996
大石静『駿台荘物語』文藝春秋 1998
根本敬・田辺寿夫『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』角川書店 2003


 

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勉強になります。私が京都大学を卒業したのが、1980年です。「留学生友の会」というサークルにいましたから、時期が合えばスーチーさんにお目にかかったかもしれません。

2009/2/3(火) 午後 8:48 希土暁宣

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歴史をしっかり学ぶことが必要です。
自虐教育をやめて、本当の歴史を教え無かったら中国、韓国の反日教育によるプロパカンダ歴史が独り歩きしてしまいます。

とくに朝鮮半島には日韓併合が植民化でな連邦と言う方が真実です。

韓国併合は韓国朝鮮が日本に助けを求めてきたので、日本が朝鮮半島を助けてあげたのです。

国家予算の20%も使ってソウル大学や、北朝鮮の豊水ダムなどを建設する国づくりする宗主国は西洋にはありません。そのために、東北の開発が遅れました。

アウン・サン氏は日本が敗退を始めた時期にイギリスとの独立の密約で日本と離反してしまいましたが、戦争が終わってイギリスは約束を守らずに、本当の独立はアウン・サン将軍の暗殺の数か月後1948年になってしまいました。

初代ビルマ首相のバ・モウ氏の言葉を書いておきます。
「真の独立は1948年1月4日ではない。1943年8月3日だ独立の真の理解者は東條大将と大日本帝国だった。」

2012/4/22(日) 午後 4:50 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]


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