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その後のビルマ(ミャンマー)
木庵
1) ビルマのことで今私が危惧していることは、現在の軍事政権が中共と接近していることである。新疆、チベットが中共の属国になったプロセスとビルマの将来を重ね合わす人がいるようだが、私は本質的に違うと思っている。新疆、チベットは軍事力の弱さが中共に侵略を許したところがある。特にチベットは秘境の地でまさか新興中共が攻めて来るとはチベットの指導者は考えも及ばなかったのではないか。新疆、チベットともにラマ僧の数が多く、国を守る軍人の数が少な過ぎたところに侵略を許した背景があるとみている。それに対して、ビルマは軍隊がしっかりしている(?)。このしっかりしているという意味は、軍隊としての機能が発揮できる状態であるということである。勿論、タン・シュエ独裁体制がビルマ国民の幸福とは関係ないところで、彼等の利権中心に動いている歪み現象がある。これに対して、自由主義諸国は制裁措置をとっている。それがビルマの世界からの孤立、ならずもの国家中共と結びつかざるを得ないという背景がある。それに対して民主化運動をビルマや外国で展開しているのであるが、この民主化も多岐にわたり、アメリカ、イギリス向けの民主化であったり、中共向けの民主化であったり、少数民族向けの民主化であったりと、私の観測では一つ縄ではないように見受ける。アウンサン・スーチーさんは民主化のシンボルなのであろうが、そのあたりのことをもう少し、私の記事を読まれた人は教えてほしい。それに、近頃の世界不況の波をどの程度ビルマが影響を受けているのか、ビルマ軍事政権と中共との結びつきがどのように変化しているのかも知りたい。
2) ロス社会では有名なKという会社の経営者がいる。彼は主計中尉か大尉(学徒動員)でビルマ戦線を経験者している。以前こちらでインパール作戦についてのシンポジュームのようなものがあり、彼はこの作戦には参加していないが、ビルマ戦に参加して九死に一生を得たことを語られていた。私もインパール作戦がどのようなものであったか15分ほど説明したのであるが。先日彼から、ビルマで彼が戦った場所を訪問したDVDを頂いた。彼の訪問場所はダウェー、モーラミャイン、それにタウンシーの東部であったと思う。タウンシーの東部(タイ国境線の近くかな?)は日本軍がインパール作戦に敗れ、連合軍に追われるようにして逃げたところである。そこで終戦を迎えているが。また、そこで戦友を亡くしている。それも、負傷したKを救い出そうとした時に、戦友は敵の爆撃で命を落としている。命の恩人である戦友の最期の場所を訪問し、彼の霊に感謝を述べたくてやってきたのである。気骨のあるKは泣いていた。それに不思議なことに60年間ビルマ語を使っていないのに、いつしかビルマ語が出てきたのには本人も驚いていた。彼のいたところは日本の最後の砦になっていたのであろう。インパール作戦での敗残兵が靴も履かず、殆ど乞食のような格好で辿りついていたという。
3) Kの証言では、アウンサン将軍の日本軍への裏切りにより、幾人かの彼の戦友が命を落とした。アウンサンはビルマの独立という大儀があり、日本軍の情勢が悪くなった時に連合軍に寝返ったのも致し方がなかったであろう。ところが、最後まで日本軍と共にしたバー・モウにより親近感と尊敬の念を抱くのは、私が日本人であるが故であろうか。アウンサンはビルマの文句のない英雄で、彼は日本も愛したようであるが、彼の気持ちをバー・モウに直接手紙に書いている(この後は以前にブログで書いたものの一部抜粋である)。
「私には日本人を責める気持ちはありません。戦略的な見地に立ってみれば、解って頂けると思いますが、・・・・・究極の勝利を収めるのは我々の大義であるという確信があります。戦争があろうとなかろうと、平和であろうとなかろうと、我々の国の独立を求める戦いは勝利するまで続けなければなりません。私は最善をつくします。貴方には今は理解しかねるかも知れません。でも信じてください。しばらくすれば私の真意がどこにあったか。判って頂けるでしょう。」
この手紙は今もバー・モウの遺族の元に保管されているという。バー・モウは天国でどう思っているであろうか。
バー・モウは「ビルマの夜明け」(英文」を書いている。その目的は歴史の歪曲を正すためであった。
「・・・ビルマ軍は独立を獲得するために英国軍と中国軍に対して果敢に戦ったのであった。しかし、この重大な事実は、独立の数年後、植民地勢力からの贈り物として我々の手に入ったとするビルマ自身の戦後の宣言によって隠されていた。このようにしてわれわれは戦争中のもっとも重要な歴史的業績のひとつを現実には否定してきたのである。ビルマ独立義勇軍の誕生もそのひとつだった。戦争の真只中にあらわれたこの独立義勇軍はこの種のものでは初めてのもので、ビルマ中にめざましい本格的な軍事行動を展開するのに大きな役割を果たした。英国の植民地主義権力がビルマから追い出されたときに全国民が喜びに湧きかえったことを無視されてきた。いまや歴史は半分しか語られなくなった。反英国的なものはすべてぬぐい去られ、物語は初めから終わりまで、戦争の最後'時期の反日暴動と、あふれるほどの憎悪に満ちた反日感情と反日の声のこだまでつづられていった。」
ロンドン・タイムスはバー・モウの著書の主題を的確に掴んで、著書の中から次の言葉を引用している。
「真実の独立宣言は、1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行なわれたのであって、真実のビルマ解放者は、アトリー氏の率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった・・・日本ほどアジアを白人の支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし又その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったたりした諸国民そのものから、日本ほど誤解をうけている国はない。これは実に日本が、その武力万能主義と民族の夢想とのために謬(あや)まらせたためである。・・もし日本が武断派的独断と自惚れを退けて、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にももっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否過半数の人々から信頼と感謝とを、日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。そうは言っても、最終的には日本の無数の植民地の人びととの解放を果たした役割は、いかなる事をもってしても抹消することはできないのである、私は敗戦後の日本が、あらゆる屈辱と軽蔑に対して、何の抗議も抵抗もしないどころか、占領政策に便乗し迎合至らざるなき変わり方に、日本人は奴隷民族に堕落してしまったかと疑った時期があった。しかしそのあとの日本経済と、現実対応の姿を見て、長い目でみるなら、日本の敗戦は実際に於いては歴史的意味に於ける敗北ではなかったのではなかろうか。この敗戦は日本人に新しい現実主義を教え、日本人本来の偉大さと、世界列国の間に伍する本来の地位とを、発見させたのではなかろうか。」
平和の翼ジャーナル(Vol.5)
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