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殿山城
殿山城は足立郡吉岡(現在の埼玉県川口市安行吉岡)にあったとされます。安行吉岡にある金剛寺付近の川に囲まれた舌状台地上が城跡とされています。現在は道路が整備され、住宅地になっていて、遺構は、殆んど残っていませんが、昭和五一年の発掘調査により舌状台地に沿って溝が発見されたとの事である。
金剛寺
詳しい築城時期等は不明ですが、戦国時代に岩附城主太田資頼(太田道灌の孫)に仕えていたとされる、吉岡将監が居城したとされています。
吉岡将監はこの地、安行村の村名になった中田安斎入道安行の子であり、親子で太田氏に仕えていたとされている。
本堂 また金剛寺は、室町時代に、この地方を支配していた豪族中田安斎安行の館跡であるともされ。金剛寺は同氏により創建されたとされる。
別名 なし
城郭構造 陣屋
天守構造 なし
築城者 吉岡将監
主城主 吉岡将監
改修者 不明
築城年 不明
廃城年 不明 遺構 なし
再建造物 なし
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埼玉県の城
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大門宿本陣
大門宿本陣は埼玉県さいたま市緑区大門にあった宿舎で、大門宿は、日光御成街道の宿駅で、
会田家が本陣、問屋を勤めていました。
本陣、脇本陣、旅籠6軒があったとされ。現在、保存されている本陣表門のはす向かいに脇本陣表門があります。また、現在も会田家が表門を所有している。安永5年(1776)の徳川家治の日光参詣では、ここ本陣に松平定静(松山城主)が、脇本陣に酒井忠以 (姫路城主)がそれぞれ宿泊した。
大門宿脇本陣表門
会田家は、 元々、信州会田郷に住し信濃守護小笠原氏の家臣であった会田将監幸久の子孫で、武田信玄の侵攻により小笠原氏が敗退すると、会田幸久は越谷郷(越谷市南荻島)に移り住み岩槻太田氏に仕え
次に後北条氏に仕えた。幸久の子、会田信清の時には後北条氏の江戸衆として江戸下平川・葛西小岩・飯塚・奥戸の地に276貫900文の知行があった。
その後、信清の孫の会田外記が日光御成街道大門宿(さいたま市大門)の開発者となり、1697年(元禄10年)に正式に発足する。
会田外記は紀伊徳川家鷹場の鳥見役や大門町の本陣、問屋、名主役を兼帯する村の要職を一手に引き受け、岩槻藩主より苗字帯刀を許されている。
別名 なし
城郭構造 宿舎
天守構造 なし
築城者 会田家
主な城主 会田家所有
改修者 会田家 築城年 安永5年(1776) 廃城年 遺 構 門
復元遺構 所在地 埼玉県さいたま市緑区大門
アクセス JR浦和駅東口バス2番乗り場から、「東川口駅北口」行き、[美園郵便局]下車、徒歩3分
駐車場 なし |
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渋江氏館
渋江氏館は現在の埼玉県さいたま市岩槻区本町付近にあった館で、渋江交差点付近だったとされています。渋江交差点近くの浄安寺前には渋江の町名の石碑がたっていますが、館址はすでに痕跡を残しておらず、正確な所在地すら明らかではない。
浄安寺
渋江氏館は武蔵七党の一つ、野与党の大蔵経遠が渋江郷に居住し土地名を称し居館したとされる。
岩槻は鎌倉時代に渋江氏・箕勾氏・柏崎氏・金重氏・須久毛氏らが幕府に従い御家人として活躍した土地で、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏が支配した。
建保元(1213)年、大河戸御厨のうち八条郷地頭職を従前通り渋江五郎光衡が安堵されているのが「吾妻鏡」の初見である。
また、康元元(1256)年・永徳3(1383)年にも渋江氏の名前が見られる。 太田道真が岩槻城主になると、渋江氏は太田氏に臣従した。しかし、大永5(1525)年、北条氏綱の岩槻城攻めに渋江氏が内応し岩槻城は落城した。 その後、渋江三郎が岩槻城代となるが、享禄3(1530)年、太田資頼に岩槻城を再奪回され渋江氏は城を追われることとなる。 別名 なし
城郭構造 館
天守構造 不明
築城者 渋江氏
主な城主 渋江氏
主な改修者 不明築城年 鎌倉時代 廃城年 戦国時代 遺構 なし
復元遺構 なし 所在地 埼玉県さいたま市岩槻区本町
アクセス 東武野田線岩槻駅下車 徒歩15分
駐車場 なし |
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岩槻城
岩槻城は埼玉県さいたま市岩槻区(合併前は岩槻市)(旧武蔵国埼玉郡岩槻)にあった岩槻藩の藩庁で江戸時代以前には岩付城とも書かれた。
現在は岩槻城址公園になっていますが、城址公園は曲輪の一部で、本丸があった場所は住宅地となっている。元荒川の台地を利用した平城で、珍しい総曲輪型城郭の縄張りが施されていた。中世には奥大道(鎌倉街道中道、奥州道)沿いに、近世には日光御成街道沿いにあった。
岩槻城跡公園
従来は室町時代の1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝が当時対立していた古河公方・足利成氏を牽制するために、扇谷上杉氏の家臣の太田道真・太田道灌父子によって江戸城、河越城とともに築かれたとされていた。しかし、近年、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料が発見され、最近の研究では後者の方が有力とされている。
黒門
戦国時代になると扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。1522年(大永2年)、太田資頼が岩槻城を奪取する。以後、岩槻太田氏の居城となる。伊豆、相模を手中に収めていた後北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩槻城のみは孤立しながらも奮闘する太田資正(三楽斎)の居城として機能する。1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し、資正の追放を断行。岩槻城は後北条氏の手に落ちる
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩槻城に篭城するが、浅野長吉等に率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。
新曲輪付近の土塁と堀
北条氏滅亡後の徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入る。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となる。江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、藩主が固定。廃藩置県まで大岡氏の居城となる。
城郭図
別名 岩附城・岩付城・城鶴城・浮城
城郭構造 総曲輪式平城
天守構造 不明
築城者 成田正等
主な城主 成田氏、大田氏、後北条氏、大岡氏
主な改修者 後北条氏 築城年 1478年(文明10年) 廃城年 1871年(明治4年) 遺 構 土塁・空堀・曲輪・門
復元遺構 なし 所在地 埼玉県さいたま市岩槻区太田
アクセス 東武野田線岩槻駅下車 徒歩30分
駐車場 あり |
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花崎城
花崎城は埼玉県加須市花崎にあった城で、現在の花崎城山公園と城跡公園含め付近一帯が址地と思われるが、現在は、両公園以外は住宅が建ち並び、遺構は花崎城山公園に空堀や水掘が確認できるにとどまる。城跡公園には遺構らしきものは残っていない。
花崎城の築城時期や築城者は不明で、近くにある粟原城(鷲宮城)の支城であるともいわれ、永禄四年(1561年)に上杉謙信が小田原城の北条氏康を攻めたとき、粟原城主・細萱光仲は北条氏の援軍として小田原へ駆けつけた。結局謙信は小田原城攻略を断念したが、永禄4年(1561)8月、上杉謙信は家臣の木戸忠朝に粟原城と花崎城を攻めさせ、木戸忠朝は千人余りで花崎城を攻め落とした。
花崎城の細萱光仲は小田原城に加勢していたため、光仲の子でわずか11歳の細萱半左衛門泰秀が守っていた。 、 別名 なし
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城者 細萱氏
主な城主 細萱氏
主な改修者 不明 築城年 戦国時代 廃城年 不明 遺 構 土塁・水堀・空堀
復元遺構 なし 所在地 埼玉県加須市花崎2丁目
アクセス 東武伊勢崎線花崎駅下車、徒歩約3分
駐車場 なし |






