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武熊城
武熊城は現在の茨城県水戸市柳町にあった館です。現在、城址には武熊公民館が建っおり遺構らしき物は残っていない。
城は水戸城が築かれた台地下を流れる桜川沿いに築かれていた平城である。
城址石柱
武熊城は常陸大掾氏の一族で吉田の豪族石川望幹によって築城されたとされる。
その後、水戸城主の江戸通房の城となり、弟の常通が城主となった。
戦国時代には江戸通政が守っていたが、佐竹氏によって江戸氏が滅ぼされると、この城には佐竹一族の東義久が入城した。しかし、その佐竹氏も慶長6年、秋田に移封されてしまう。
その後、慶安4年(1651)、柳堤が築造される際に、城の土はすっかり削り取られて、城址は消滅してしまったという 別名 武熊館
城郭構造 平城(居館)
天守構造 なし
築城者 石河十郎望幹
主城主 石川氏、江戸氏、佐竹氏
改修者 江戸氏
築城年 延文年間(1356〜61年)
廃城年 慶安4年(1651年)
遺構 なし
再建造物 なし
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茨城県の城
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吉田城
吉田城は現在の茨城県水戸市元吉田町にあった中世の居館です。跡地には現在、常照寺が建てられ
ている。
居館は三方(一つは旧千波湖)を沼囲む半島状台地の現在の常照寺のある場所に築かれ、森林が茂り、武士の居館として最適な要害であった。
常照寺
吉田城は正確な年代はさだかではないが、平安時代後期に大掾氏一族の吉田清幹が築いたとされ、大掾清幹が館を建て吉田氏を称してこの地を統治したとされている。
その後、吉田氏代々の居城となったが、室町時代の応永23年(1416年年)になると水戸は江戸氏の支配下になり、吉田城は江戸氏のものとなり、その際、土塁や濠を強化したと推定される。
石碑
天正18年(1590年)江戸氏が佐竹義宣に攻略されると水戸は佐竹領となり、同城も佐竹氏の統治下となる。佐竹氏は水戸城の増築と城下町の整備に力を入れ、吉田城は水戸城の支城としての性格が強まり、重臣である車斯忠(車丹波)には与えられた。
その後、佐竹氏国替に伴い廃城となった。それ以降、水戸藩主第2代徳川光圀により跡地には常照寺が建てられ、現在に至る。
別名 吉田館
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城者 吉田清幹
主城主 吉田氏、江戸氏、佐竹氏
改修者 江戸氏
築城年 天文14年(1545年)
廃城年 元和年(1615年)
遺構 郭・土塁・空堀
再建造物 なし
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久下田城
久下田城は、茨城県筑西市樋口にった城です。現在、主郭址が公園となっており、それを囲むように2つの曲輪が残っている。空堀、土塁のほか、現在は用水路となっている水堀など多くの遺構が現存している。
城は、東に勤行川が流れる台地上に築かれ、筑西市樋口の城山一帯が城域で、往時は二宮町の台地を含み大規模な城下を構成していたとされている。
城址石碑
久下田城は天慶年間(938-948)、藤原秀郷が平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館]のうち上館にあたるという伝承がある。
結城・水谷と宇都宮氏の対立が深まっていた天文14年(1545年)、下館城主の水谷正村(蟠竜斉)が北方の宇都宮氏から下館領を守るため、下館城の北に築城したとされる。
主郭址の公園
天文年間には、宇都宮家臣の八十岡伊織を大将とする約200騎により攻められるも、水谷正村(蟠竜斉)がこれを撃退する。
その後も宇都宮家臣の武田治郎を大将とする約3,000騎により城められるも、結城氏の援軍を受けた水谷正村(蟠竜斉)が撃退している。 元和元年(1615年)、いわゆる一国一城令が出されるこれを受け久下田城も廃城になったとされる。
城郭図
別名 なし
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城者 水谷正村
主城主 水谷氏
改修者 水谷氏
築城年 天文14年(1545年)
廃城年 元和年(1615年)
遺構 二の丸跡、空堀、水堀、土塁
再建造物 なし
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下館城
下館城は現在の茨城県筑西市甲(本城町)にあった城です。現在、本丸跡に八幡神社があり、城域は下館小学校および宅地として開発されており遺構を確認するのは難しいが、下館小学校と八幡神社境内の間に、堀の一部が道路となり残っている。城跡は筑西市指定文化財になっている。
城は東に勤行川が流れる台地上に築かれ、濠を三重にめぐらしていたとされる。
八幡神社
下館城は天慶年間(938-948)、藤原秀郷が平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館)のうち下館にあたるという伝承がある。
文明10年(1478年)、水谷伊勢守勝氏が結城氏広から下館領を与えられ築城したのが始まりとされる。以後水谷氏の居城として戦国時代から江戸時代をむかえる。
江戸時代初期の寛永16年に水谷勝隆が備中国成羽藩へ転封し、松平頼重が入封する。寛永19年(1642年)の松平頼重転封後は一時天領となるが、井上正岑、黒田直邦などの支配を経て、石川総茂が2万石で入封する。以後、石川氏九代の治世が続き明治維新を迎えて、廃城となった。
城郭図
別名 螺城、法螺貝城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城者 水谷勝氏
主城主 水谷氏、松平頼重、増山氏、黒田氏、石川氏
改修者 水谷氏
築城年 文明10年(1478年)
廃城年 明治2年(1869年)
遺構 本丸跡、堀跡
再建造物 なし
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伊佐城
伊佐城は、現在の茨城県筑西市(旧常陸国伊佐郡)にあった城です。その城域は、現在の施無畏山延命院観音寺境内とその周辺が城域とされています。また伊佐城跡のとして茨城県の史跡に指定されている。
城は東側に勤行川をのぞむ台地上に築かれた。
施無畏山延命院観音寺山門
伊佐城の築城年不明とされている。
築城者は、藤原北家山陰流の伊達朝宗(常陸入道念西)との説あり。また、天慶3年(940年)、下野押領使の藤原秀郷(俵藤太)が平将門追討の際に上館(元館)・中館・下館の三館築いたという伝説]があり、この三館のうちの中館を伊佐氏が改修したものが伊佐城との説もあり、仙台伊達氏の発祥の地とされている。
下館藩主・石川総管の墓
南北朝時代までの伊佐城については記録がなく、その詳細は不明だが、同城のあった常陸国伊佐郡は、平安時代末期から鎌倉時代まで、伊佐氏の領地であった。
別名 なし
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城者 伊達朝宗?藤原秀郷?
主城主 伊達朝宗?藤原秀郷?伊佐氏
改修者 伊佐氏
築城年 平安時代
廃城年 不明
遺構 曲輪、櫓台、空堀
再建造物 なし
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