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松本城
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にあった城である。
日本国内に12基現存している、安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の1つで、現存12天守の中では唯一の平城。天守群は国宝に指定されている。 典型的な平城で、本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。
松本の地は古代以来、国府がおかれ信濃国の中心として信府と称された。
松本城は戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中(井川)に居を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。 天文19年(1550)に甲斐国の武田信玄に攻められて落城し小笠原氏はこの地を去った。
武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。以後、32年間にわたって武田氏の信濃攻略の戦略拠点となり、甲州流普請が施された。
天守、乾小天守
安土桃山時代の天正10年(1582)に織田勢の攻撃で武田氏が滅び、徳川家康の配下となっていた小笠原貞慶が旧領を回復し、この地に再入城した。
そして、小笠原貞慶が大修築し、名を深志城から松本城に改称した。
黒門(復元)
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。
太鼓門(復元)
その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
明治維新後、1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。
別名 深志城・烏城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城)
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か1615年築) 複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城者 小笠原長棟・石川数正・康長父子
主な城主 小笠原氏・石川氏・松平氏・堀田氏・水野氏・松平氏(戸田氏)
主な改修者 松平直政 築城年 1504年(永正元年)
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
再建造物 黒門、太鼓門
所在地 ・長野県松本市丸の内4-1
アクセス ・JR篠ノ井線・大糸線、松本電気鉄道上高地線 松本駅 東口(お城口)から約20分。
・JR大糸線 北松本駅 東口(お城口)から約7分。
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長野県の城
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上田城
上田城は信濃国小県郡上田(長野県上田市)にあった城です。 現在は、本丸・二の丸と周囲の濠跡の範囲が上田城跡公園として園化されている。明治以降に、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。 本丸跡には、明治に松平神社として建立された歴代城主を祀った神社がある。現在では、真田神社と呼ばれている。三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されている。同地は現在上田高校の敷地として利用され、門は学校の正門として使用されている。
上田城は上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。北に太郎山、南に千曲川があり、段丘の崖〔がけ〕を利用して築城されていほります。
本丸を南側に置き、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯郭式といわれる縄張りとなっている。これは千曲川に接した南側が最も天然の防御力が強く、当時の情勢から東(徳川氏)からの攻撃を想定したものである。
通常は本丸や二の丸など城の中心に置かれる政務用の建物が、三の丸に置かれているのが特徴である。これは、真田信幸が上田領を継承した際に、上田城は破却されており、城下町に近い三の丸跡地に居館を建てたことに始まる。その後、上田城は仙石氏により再建されたが、不完全なまま終わっている。真田昌幸時代の上田城について正確な構造は、わかっていない。
上田城本丸南櫓と東虎口櫓門 その後、上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城である。 武田信玄に臣従した諜将、真田幸隆は、
天文10年(1541)に信玄の父、甲斐の武田信虎に奪われた領地を、謀略を巡らし奪い返した。 幸隆は信濃攻略を再開した信玄の懐刀として活躍し、その武名を戦乱の世に馳せたが、信玄が天正元(1573)年に没すると、幸隆も翌年病没。 信玄亡き後の武田家は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、幸隆の長男・信綱、次男・昌輝も鉄砲の餌食となり、真田家は三男・昌幸が継ぐこととなった。 昌幸は 天正8年には上野沼田城を占拠するなど自立の道を歩み始める。 その後、天正10(1582)年に武田氏が滅亡、旧武田領の甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は織田政権下に組み込まれた。甲斐一国は、武田親族衆の穴山梅雪に与えられた南西部の八代、巨摩の2郡を除いて河尻秀隆に、信濃は森長可らに、上野は滝川一益に与えられた。この時滝川一益は関東管領に任ぜられていたともいわれている。駿河は同盟関係の徳川家康が領する一方、武田征伐に協調した隣国の相模の後北条氏は遺領を得られなかった。
主家滅亡後、真田氏は織田信長に臣従し滝川一益の与力となるが、同年6月、信長が京都の本能寺で明智光秀によって討たれ(本能寺の変)ると。変に即応して上野や甲斐南東の郡内領へ侵攻した後北条氏に滝川一益が神流川の戦いで敗北し撤退する。以後は、上甲信三国は草刈場と化し周囲の有力勢力(徳川・北条・上杉)の狭間で真田氏は揺れ動くことになる。
水堀
滝川一益の敗退直後は北条氏に臣従するが、すぐに徳川氏の誘いに応じて乗り換え、上田・小県地方制圧の拠点としてに上田城の築城に着手する。この時には徳川の支援を得たが、敵対する後北条氏による上州方面での攻勢のみならず、北方の上杉氏からの妨害も受けている。しかし翌年には北条・徳川の和議に反発して徳川と決別、当初は北側に予定していた大手(防御正面)を対徳川を想定して東側に変更している。天正13年(1585年) 次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉景勝に臣従し、上田城にて徳川軍(約7000)を迎え撃ち、撃退に成功する(第1次上田合戦)。 その後、慶長5年(1600年) 徳川家康率いる上杉討伐軍から離脱した昌幸が、石田三成の西軍に与しておよそ2000の兵力で上田城に篭城。徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を迎え撃ち、前回に続いて守り抜いた(第2次上田合戦)。この時、上田城攻略を断念した秀忠軍は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。 慶長6年(1601年) 真田昌幸・信繁が紀伊国九度山に配流になり、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に陣屋を構える。そのため、信之の時代には上田城は存在していない。元和8年 (1622年) 真田家は同国松代に移封される。 1626年(寛永3年) 代わった仙石忠政により再建が始められたが、2年後の1628年(寛永5年)忠政の死により城普請は中断される。以後仙石氏三代の後は松平氏が明治維新まで城主を勤めるが、本格的な再建は行われなかった。
別名 尼ヶ淵城 真田城
城郭構造1 梯郭式平城
天守構造 なし
築城者 真田昌幸
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
主な改修者 仙石氏 築城年 1583年(天正11年)
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀
再建造物 門 所在地 長野県上田市二の丸
アクセス JR長野新幹線「上田」駅から徒歩約10分
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