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館林城
館林城は群馬県館林市にある戦国時代から江戸時代にかけてあった城です。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
城は城沼に西から狐の尾のように突き出した半島に中心を置く平城で、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突き出す形の低台地に、本丸(子ども科学館南側)、二の丸(現在は市役所)、三の丸(現在は文化会館)、八幡郭(くるわ)、南郭を置き、これらを取り囲むように稲荷郭、外郭、惣郭を構え、さらにその西方に城下町を配置し、それらを土塁と堀によって囲んでいた。
図書館脇の城址碑
築城については、天文元年(1532年)赤井照光によって築かれたとするものがあり、四代照景のときに後北条氏に属したが、永禄四年(1561年)に上杉謙信に攻略され足利の長尾氏が城主となった。
三の丸土橋門
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の後北条氏による三つ巴の攻防のなかで、北条氏と同盟を結んだ武田信玄が関東に進出すると、上州の諸将は揃って後北条氏に通じたが、信玄が駿河を侵略したため後北条氏は信玄との盟約を破約とし、上杉謙信と接近を始めた。永禄13年(1570)に正式に講和が結ばれ、館林城は謙信配下の広田直繁に与えられた。
北条氏康が死去すると越相同盟は消滅し、北条氏に属していた長尾顕長が館林城主となったが、後に城を明け渡すことになり、北条氏規が館林城主となる。 足利長尾氏、後北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡後、徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり 、石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。
案内図
江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。 宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。
その後、廃藩置県をむかえ、明治7年(1874年)には火事により城の建物の大半はに焼失した。
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群馬県の城
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平井金山城
平井金山城は平井城の背後の山(山頂の標高は331メートル)にあった詰城で、城の一部分では発掘調査が行われ、遺構が発見され、石積みが検出された。現在も多くの遺構があり一帯が群馬県指定史跡に指定されています。。標高331mの頂上部の本丸を中心に尾根沿いに郭が配された梯郭式の山城とされる。
平井金山城址標柱
越後上杉勢の本拠地が厩橋(まやばし)城となり平井城は廃城となったと思われ、それに伴う金山城も同様な仕儀となったと思われます。
別名 金山城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 上杉顕定
主な城主 山内上杉氏
築城年 応仁元(1467)
廃城年 戦国時代
遺 構 土塁・空堀・竪堀・石積
復元遺構 なし 所在地・群馬県 藤岡市平井
アクセス・上信越自動車道「藤岡」IC車15分。
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平井城
平井城は、現在の群馬県藤岡市にあった城で、現在、址地は群馬県指定史跡にしていされている。
鮎川が湾曲する南端部に置かれ、平地部分に本丸などの本城があり、鮎川の断崖面に竪堀、断崖面以外は内堀と内土塁で区画されていました。背後の山には詰城である金山城(平井金山城)があった広大な城である。
本丸跡の復元土塁
平井城は、通説では永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実が、家臣の長尾忠房に命じて築かせ、平井城に逃げたとされる。応仁元(1467)年には上杉顕定によって関東管領府として大改修が行われた。
この後、持氏と憲実+幕府の連合軍の間で永享の乱が起きたが、憲実方が勝利した。 文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。
平井城址縄張図
天文21年(1552年)、北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで北条に寝返っていたためである。
永禄3年(1560年)に長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。
別名 なし
城郭構造 平山城(山城)
天守構造 なし
築城主 長尾忠房
主な城主 山内上杉氏
築城年 永享10年(1438年)
廃城年 戦国中期
遺 構 なし
復元遺構 土塁、空堀 所在地・群馬県藤岡市西平井
アクセス・上信越自動車道「藤岡」IC車15分。
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国峰城
国峰城は群馬県甘楽郡小幡町国峰にあった城で、現在でも国峰城址として、堀等の遺構が残っている。
国峰城は、山城部・丘城部・平城部が南北2.5キロメートル、東西2キロメートルの間に展開している。山城部は、標高434メートルの城山、比高約、200m、山頂を本郭とし、西側の尾根上を掘切って数個の郭を構え東下20メートルに第2郭があり、山腹に二段の腰郭をめぐらす。顕著な竪堀が斜面を下り、東端から放射する二筋は山裾で、長さ1120メートルの横掘りで連結され御殿平への通路となっている。
御殿平
仁治年間(1240〜43年)に武蔵児玉党の一員であった小幡氏が築城したとされます。
小幡氏は、西上州の主領としてその勢力を伸ばし、東は多胡緑野(多野郡)、西は西牧南牧、南は神流川を越えて武蔵の国境、北は臼井側を境とし、磯部付近の地域すべてを領し国峰城の御殿より眺められる地域がすべてその支配下だったと云われ、関東管領山内上杉氏の重臣でした。
本丸址
小幡重定(憲重)の時、上杉憲政が後北条氏に破れ越後に亡命、その後は小幡氏は武田信玄に従った。
長野業政は小幡重定を追い、一族の小幡景定を城主としました。永禄4年(1561年)に信玄は国峰城を奪い、信実(のち信真・信貞・信定)と改名した重定を復帰させます。以後信実は赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって活躍した。
国峰城は武田氏の西上野の要となり、永禄九年(1566年)の箕輪城を落城させます。天正十年(1582年)に武田氏が滅亡し、信実は織田家臣の滝川一益配下となりましたが、本能寺の変で信長が没し後北条氏に敗れた滝川一益が上野から撤退すると今度は、後北条氏に従いました。 本丸跡にある主郭説明板
天正十八年(1590年)、豊臣氏の小田原城攻めに際し信定は小田原に籠城、国峰城は子の信秀が守備しましたが、前田利家に属した北陸道軍分遣隊藤田信吉に落とされ廃城となりました。信定は真田昌幸を頼り、信州で客死し、小幡氏は信定の養子の直之が徳川氏の旗本として存続しました。
別名 なし
城郭構造 平山城(山城)
天守構造 なし
築城主 小幡氏
主な城主 小幡氏
築城年 仁治年間(1240頃)
廃城年 戦国末期
遺 構 曲輪、土塁、堀切、竪堀
復元遺構 なし
所在地・群馬県甘楽郡甘楽町国峰字城山
アクセス・上信越道富岡IC〜15分(登山口まで)
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麻場城
麻場城は群馬県甘楽郡甘楽町白倉にあった城で、現在は史跡公園として整備されていている。
北へ張り出した丘城(比20m)の先端に築かれている。北端に空堀と土塁を巡らせた主郭があり、南側に土橋を架けて虎口を開いている。麻場城は400m西の場所に位置する仁井屋城と、2つを併せて白倉城と呼ばれている。
麻場城址標柱
この2つの城は室町時代の文明年間(1469〜87)に白倉氏によって築かれたという。
白倉氏は小幡氏の一族で、山内上杉氏の重臣として上州八家のひとつに数えられる。
天文15年(1546年)白倉五左衛門は、笛吹峠(碓氷峠)の戦いで、武田信玄の部将板垣信方を射落として勇名を轟かせた。
案内板
戦国時代の白倉氏は上杉謙信、武田信玄と主君を替え、最終的には小田原の後北条氏の配下となるが、天正18年(1590)の小田原役において、豊臣勢の別働隊である前田・上杉の北国勢の前に降伏後に廃城となった。
別名 白倉城
城郭構造 囲郭式丘城 別城一郭
天守構造 なし
築城主 白倉氏
主な城主 白倉氏
主な改修者
築城年 文明年間(1469〜87) 廃城年 天正18年(1590)
遺 構 曲輪、土塁、横堀、堀切、
復元遺構 空堀、物見台 所在地 群馬県甘楽郡甘楽町白倉
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