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神奈川県の城

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                              小田原城
 
小田原城は、神奈川県小田原市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。
現在の小田原城址の主郭部分は、現在の小田原城跡は徳川家康の関東移封後、大久保氏時代に造営されたものである。土塁の城の多い関東地方において主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは1632(寛永9年)に始められた大改修後のことである。
後北条氏時代は、平時の居館を現在の復興天守の周辺に置き、本丸は、後背にあたる標高70mの八幡山にあったとさる。
外郭は総延長9㎞に及んだとされ、小田原城は八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を土塁と空堀で取り囲んだ総構えと呼ばれる城郭都市の構造だった。現在、本丸跡は城山公園になっており、奥には小峯御鐘ノ台周辺の大空堀と土塁の遺構が残っている。当時の城は
平山城というより山城に近い感じであったとされる。
 
                                      天守閣(復興)
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 ここに城が築かれたのは、平安時代末期まで遡り、元は、八幡山付近にあったとされる相模の豪族土肥一族小早川遠平(小早川氏の祖)の居館であったが、室町時代中期、応永23年(1416)上杉禅秀の乱で禅秀方の土肥氏は失脚し、城は駿河国に根拠を置いていた大森氏が奪う。大森氏はその後、相模国・伊豆国方面に勢力を広げて行ったが。
明応4年(1495、それ以後とする説もある)、駿河今川氏の客将から身を起こし、韮山城を拠点に伊豆国を支配していた北条早雲こと、伊勢平氏流伊勢盛時は関東進出を志し、謀略をもって小田原城を夜襲、大森藤頼から城を奪い、旧構を大幅に拡張する。以来、北条氏綱、氏康、氏政、氏直と戦国大名北条五代の居城として、小田原城の整備、拡張を続け南関東の中心地となる。
 
 
                                                                                                                                                                                           
                                          渡り橋        イメージ 7

永禄4年(1561年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、11万3千ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切った。
 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                       常磐木門
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永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗した。信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌永禄12年10月1日から4日にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲するが、後北条氏籠城戦で守りきる。後に後北条氏武田氏の駿河領有を承認し甲相同盟を回復している経緯から、この時の小田原攻めは本格的侵攻ではなく軍事的示威行為に過ぎないものであったと考えられている。
.                                                                                                            常磐木門内側
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天正18年(1590)3月、豊臣秀吉は水陸合わせて21万余にも及ぶ大軍を率いて小田原城を包囲。
後北条氏は大城郭の堅塁を頼んで籠城戦を決意。籠城戦は長期にわたるが、秀吉軍北条氏の関八州の支城や砦を次々と攻め落として小田原城を孤立化させ、6月27日には小田原城を見下ろす笠懸山の山頂に「石垣山一夜城」と呼ばれる陣城を完成。
孤立化した小田原城内では軍議がなかなかまとまらず、世に言う小田原評定を続けたが、天下あげての大軍には抗しきれず7月5日、ついに小田原城は開城。四代北条氏政は切腹、五代北条氏直は高野山に追放。ここに関八州を制した北条氏5代95年の歴史の幕は閉じる。
戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心の大久保忠世小田原城に置き江戸城防衛の西の要として重要視された。
                                                                                                                        二の丸表門,銅門
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慶長19年(1614)大久保忠世の子大久保忠隣が謀反の密告により改易。小田原城は大幅に規模が縮小され、徳川幕府の番城となる。 
 
 
 

                                                                                                                                                                                                     銅門の内枡形の内部
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元和5年(1619)上総大多喜から阿部正次が入城。次いで寛永9年(1632)下野真岡から稲葉正勝が小田原城主となり、三代将軍徳川家光の後押しで三層の天守・本丸・二の丸・三の丸と城の整備が行なわれ、近世城郭となった。                                                                                                                                                                                 二の丸隅櫓
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                                   貞享3年(1686)下野佐倉から大久保忠隣の子孫である大久保忠朝が11万3千石で入封。以後、小田原城は大久保氏10代の居城として明治維新を迎える。                  
 
 
 
小田原城は、江戸時代を通して1633年(寛永10年)と1703年(元禄16年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。
 
 
別名               小峯城、小早川城、小早川館
城郭構造     平山城
天守構造          複合式層塔型3重4階(1633年 築)(1706年 再)(1960年 RC造復興)
築城者         小早川氏
主な城主          小早川氏、大森氏、後北条氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏
主改修者      大森氏、北条氏、大久保氏、稲葉氏
築城年        1417年(応永24年)
廃城年         明治4年
遺構           石垣、堀、土塁、堀切、曲輪跡
再建造物        復元天守・櫓・城門
   
【所在地】神奈川県小田原市城内6-1
 
【交通】 JR線・小田急小田原線他小田原駅から徒歩約10分
 
 
 

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