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文京区区議団HP【2013−3−13】
 
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小池あきら前参院議員、吉良よし子東京都委員会雇用と就活対策室長、小竹ひろ子前都議を囲んで、左より、金子、まんだち区議、関川前区議、いたくら区議。右より、こうだ、島元、高畑区議。(森鷗外記念館にて)
江東区区議団ニュース【2013−3−13】
区議団ニュース2013年新年号
「希望のもてる政治へ 今年も全力でがんばります!」
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                             あぜ上三和子
 

2013/03/11

きょう東日本大震災2年…被災者が主人公の復興こそ

http://azegami-miwako-2008.blog.ocn.ne.jp/weblog/images/2013/03/11/photo.jpg 東日本大震災から2年になりました。今も15万人を超える方々が避難生活をされ、長期化する避難生活の中で体調を崩したり家族バラバラの生活でストレスを抱えて・・政治がやるべきは、被災者の方々に寄り添った復興と支援を最優先で取り組むことです。私は、都に対し何度も「東京に避難している方々の痛みに寄り添った支援」の具体策と被災地支援の強化を求めてきましたが、避難の長期化に苦しむ方々に一層寄り添った支援が必要と痛感しています。一昨日見たテレビでは、福島の幼い女の子が「普通に大人になったら赤ちゃんが産みたい」と。放射能の不安におびえている姿には胸が張り裂ける思いです。「原発ゼロ」の取り組みと、被災者が主人公の復興・支援に引き続き頑張りたい、決意を新たにしています。写真は、後援会の皆さんと福島応援ツアーに行った時に塩谷岬でみた虹。
 
 

転載元転載元: 世界と日本の政治

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生い立ち

母親に命の大切さを教わる
http://ohyama-tomoko.com/images/plofile1.jpg私は1955年(昭和30年)東久留米市で、姉と兄の3人兄弟の末っ子として生まれました。
  小学校3年生のころから近くの教会の日曜学校に通い、小さな木の椅子に腰掛けて、賛美歌を歌ったり、「隣人愛」とか「弱い人にやさしくしなさい」という牧師さんの説教を子どもながらに真剣に聞いていました。
  両親は、子どもたちの自立を大事にし、のびのびと育つことを願っていました。
  母親は、若い頃は、東久留米市にある都立の養護学校の教師で、子どもたちに、優しさや思いやりの大切さを教えていました。そして、私たち兄弟には、庭の一部を一坪づつに区切って、それぞれ好きな花などをつくらせました。
  私は自分の畑に、水仙やチューリップ、ひまわりなどを植えて育てました。こうして母は、命の大切さということを教えてくれたのだと思います。
高校時代−障害者施設でボランティア活動
http://ohyama-tomoko.com/images/plofile2.jpg 中学生の頃は、友達もたくさんでき、活気あふれる毎日でした。都立東村山高校に入学してからは、生徒会やテニス部の活動にも参加。
 文学書などを読み、人生に悩んだりもしました。また、アメリカのベトナム侵略戦争が激しくなった時代で、どうして人を殺し合う戦争が起こるのか、真剣に考えました。
 母親の影響もあって、障害児問題に関心を持っていて、高校2年生のとき、福祉のボランティアを募集しているのを新聞で知り、応募しました。ボランティア活動は夏休みに島田養育園や秋津養育園など、それぞれ2週間くらいつづき、重度心身障害児の介護などを手伝いました。
 障害をもつ子どもたちの実態は、私の想像をはるかに超えていました。同時に、私は、障害に苦しみながらも、一生懸命生きる姿に大きく励まされました。
日本共産党との出会い
こうしたボランティア活動のなかで、私ははじめて日本共産党と出会いました。
 泊まり込みでボランティアをしていたある日、介助活動についての小集会に参加しました。そのとき、そこで働いている共産党員の方から、「革新都政になって、初めて福祉行政が重視され、障害児たちが普通の人間として扱われるようになった」こと。政治や社会の仕組みについて、わかりやすく情熱がこもった説明に感動させられました。  私が初めて都政をめざしたときも、そしていまでも、このときの感動を思いおこし、どうしても都民が人間として大切にされる都政をつくるために頑張りたいと思っています。
「福祉を生涯の仕事に」と決意
高校を卒業する頃には、「将来は福祉関係の仕事をしよう」と固く心に決めていました。
 母のように、きちんと自分の職業を持ち、自立した女になりたい、自分の仕事に誇りを持って生きたい、幼い頃から学んだ「弱者にあたたかい人間に」なりたいと思いました。
 そして保育科を中心にした白梅学園短大(小平市)に入学しました。
 静かな雑木林と、津田塾大学、武蔵野美術大学などが散在する学園ゾーンの一角にある白梅短大の保育科で2年、さらに夜間の専攻科で2年間学びました。
 短大時代には、授業、保育の実習とともに、クラブ活動や学費値上げ反対の運動などにも参加しました。
 このころ友人に誘われて日本民主青年同盟に入り、短大時代に、社会の成り立ちや、働く者が社会の主人公なんだということを学びました。
よりよい保育をめざして
http://ohyama-tomoko.com/images/plofile3.jpg白梅短大では、保母(現在は保育士)の資格と幼稚園教諭の資格をとりました。
 「子どもは社会を構成する人間のいちばん最初の段階。そこには未来があり、ロマンがある。親も保母も、子どもを通じて成長できる」と考え、迷わず保母の道を選びました。
 1976年(昭和51年)4月、新宿区の職員に採用され、初めての職場は、下落合保育園でした。
 「いつも子どもと同じ目の高さで接し、いっしょに成長していく」。失敗することもありましたが、常にこの姿勢をもちつづけたいと思っていました。
 しかし、当時の新宿区政は福祉に冷たく、保育行政は父母の願いと隔たりもあり、保母の仕事にも様々な制約がありました。だからこそ、職場の仲間と励まし合い、お母さんたちと話し合って、父母や同僚の意見も聞き、よりよい保育をめざす運動にもとりくみました。
日本共産党への入党と労働組合運動
http://ohyama-tomoko.com/images/plofile4.jpg 1978年(昭和52年)、仲間の推薦で日本共産党に入党しました。戦前・戦後いっかんして侵略戦争に反対し、平和、民主主義、主権在民をいのちがけでつらぬいた党。障害児施設のボランティア活動に参加したときから、心の中に育ててきた「いのちを大切にし、福祉を充実させる」ためには、政治革新こそ必要であり、この党とともに歩んでこそ、ほんとうの人間愛、自分の夢をかなえる道だと決意したのです。
 すでに中堅保母となっていた私は、新宿区職員労働組合の保育部会の書記長にも選ばれ、活動していました。
 1989年にはじまった労働時間短縮のたたかいでは、区内30の保育現場で徹底して話し合い、父母への署名運動にもとりくみ、10日間で1万2千名の署名が集まりました。
 区長に、具体的交渉に応じるよう申し入れましたが、区長は応じません。私たちはやむなく区長室前におしかけ、運動は座り込みにまで発展しました。この運動をつうじて私たちは16名の増員をかちとり、労働条件の改善も実現できました。
 この闘争に、父母の方々、地域の労働者の方々が横断幕を持って応援に駆けつけてくれたときは、ほんとうに感動しました。団結することがいかに大切かということを実感しました。
 その後、党からの要請を受けて、新宿区議、東京都議として活動していますが、このとき学んだことが「いつも住民のみなさんとともに」という私の活動の支えとなっています。

転載元転載元: 世界と日本の政治

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