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終戦後も、数カ月間ミンダナオ島の山中をさまよい、
泥水を啜り、皮靴をかじり、
生き延びたTさんのお話。
親孝行は、早く戦死すること!
樺太生まれの、Tさんは、16歳になると早速飛行機整備隊を受験し、合格します。
家が貧しく、たくさんの兄弟姉妹の長男だったTさんは、苦労している母親に親孝行するには、早く軍隊に入って、名誉の戦死を遂げることだと考えたといいます。
名誉の戦死をすれば、軍人遺族年金が出て、母さんは、一生苦労しないで生きてゆけると言うわけです。
念願かなって、晴れて合格し、入隊すると、猛烈に勉強しました。
やがて整備士になると、南太平洋の飛行場に配属されました。
しかし、整備士の仕事が出来たのは、ほんのしばらくの間で、ミッドウエー会戦後、飛行機の補充は殆どなく、米兵の上陸に備えてタコつぼを掘ったりと、他の地上部隊と変わりない生活をしながら、移動に次ぐ移動で、遂にフイリピンのミンダナオ島に配属されます。
しかし、そのミンダナオ島にも、猛烈な艦砲射撃ののち米軍が上陸してきました。
正規の陸上部隊でないTさんたちは、本隊にはぐれ、十数名で、山中をさまよい歩きます。次第に食糧は尽き、体力のない人から順番に死んでゆきます。
腹ペコの時に、目の前に死体があったら、人間どうするか?と言って、口をつぐみました。
それ以上の恐ろしいことを想像するより仕方ありません。
およそ食べられるものはすべて食べ、皮靴も食べつくして、ふんどし一つで、残った数人が、さまよい続けました。降伏は、絶対してはいけないと教えられていたからです。
喉が渇いて、山中から流れ出ている、泥水を啜りました。
ところが、その泥水の流れだしている元をたどって行くと、半ば腐った日本兵の死体が折り重なっていたといいます。
もはやこれまでと言う時に、元の上官が訪ねてきて、戦争はとっくに終わっている、早く降伏するようにと勧められ、半信半疑で、その言葉に従い、捕虜収容所に収容されます。
聞くと見るとは大違いで、元々丈夫だったTさんは、忽ち体力を回復して、やがて内地に到着しますが、家族は樺太で既にソ連領になっていたため帰る所がありません。
止むをえず、四国の徳島県に遠い親戚のいるのを思い出し、そこでお世話になり、闇屋をやりながら、生き延びます。
闇屋というのは、当時はお米は勿論のこと、食料品は、殆ど配給制になっていたのを、田舎から、政府機関を通さず、「闇」で買ってきて、横流し専門を商売にすることです。
そうこうしているうちに、家族が北海道の知り合いを頼って開拓地に入植していることを知り、そこに合流して開拓農家となりますが、冷害に次ぐ冷害で、借金のみかさみますので、10年ほどで農家を止め、土木建築業につき、建物の基礎を掘る仕事につきます。
あの温泉ホテルも、こちらの学校も、あの役所も、みんな基礎は俺が掘ったんだと自慢します。
しかし、私が知り合ったころ、すでに70歳を過ぎておられたTさんは、その後基礎を掘るために、穴に入っていた時、それに気づかなかった若い建設機械の運転手が、ショベルカーを入れてきて、危うく命を落とすところでした。
若いものにはまだまだ負けないという自信を持っておられたTさんも、これを契機に仕事を止めました。
しかし、正規の仕事についていた期間が短かったため、受け取る年金は少なく、どうやって生活を食いつないでゆこうかと、四苦八苦です。
先日も、石原知事の長男の石原伸晃氏(自民党副幹事長)は、高齢者は資産を持っているからと、後期高齢者医療制度を合理化していましたが、Tさんの爪の垢を煎じて飲んでほしいものです。
戦後、日本人みんなが貧乏だったころと違い、トヨタ、キャノン、パナソニックなどの巨大企業は、赤字宣伝の傍ら、十年以上無収入でも、破産しないだけの内部留保を持っています。
久し振りに、トヨタ家の創業者一族から出た新社長と、その父親の名誉会長の半期の配当金は22億円を超えます。
すでに、総合力では、実質的に世界2位に達している日本の軍事力を支える防衛費、わけても思いやり予算は、最大の無駄です。
この軍事費の無駄遣いと、企業・高額所得者の優遇税制を元に戻せば、若い人に負担をかけることなく、高齢者の医療を無料にすることは、十二分に可能です。
最後に確認しておきたいのは、食糧などの補給計画を持たない、軍事力の行使は、秀吉の朝鮮出兵以来の悪しき伝統です。
千歩譲って、日本のアジア侵略が、正義の戦争であり、そこで一人たりとも一般人を殺していなかったとしても、補給路を持たなければ、現地での略奪は避けられません。
それこそ「侵略戦争」そのものです。
このTさんの体験から、多くの事を学びとってほしいと思います。
なお、明日は、戦後不当にシベリアに抑留された、林明治さんたちの運命が、実は日本政府の要請に基づいていたというお話。
また、明後日は、名1塁手とうたわれながら、それが結果的に軍部ににらまれ、24歳の若さで命を閉じた中河美芳さんのお話を伝えたいと思います。
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食糧などの補給計画を持たない戦争は,戦国時代以来の悪しき伝統でしょうか?戦国時代は、大荷駄、小荷駄等、補給もしっかり確保していたように思えるのですが?
どなたか、戦国時代に詳しいかた、ご教示下さい。
2009/8/11(火) 午前 11:46 [ 琵琶 ]
鈴川倶楽部です。
戦国時代はわかりませんが、(現地人に納得させうる)大義があり、言葉が通じる国内での戊辰戦争ですら、戦争が長期化すると、現地略奪は起きたようです(宿泊よりも荷駄負担が薄かったようです)。
今回の話も真実のひとつであり、本当の戦争を知るうえでの、たいへんな材料となります。
このような伝承を、よろしくお願いします。
2009/8/11(火) 午後 2:59
過去の日本では、歳を重ねた者、老いた者には、やさしかった。
と、感じます。
が、しかし、今、強いて言えば「敗戦後」そのような方々には、
本当に冷たいですね。
「戦争」は、反対です。し、戦争は悪いことです。
しかし、一般兵士は、「被害者」です。
「国」を守るという「大義名分」を「錦の御旗」にして、
この方のように、まるで道ばたのゴミ化のごとくにいのちを、粗末に捨てられたのです。
「純粋に国のためにいのちをかけた」という表現はあまり好きではありませんが、その意味はあったでしょう。
そのような方々が、今、冷凍庫のような冷たさの中にさらされています。
戦争を起こし、拡大させ、指導する。ことは、「犯罪」に間違いはないでしょう。
だけど、その頃、実際に「いのちを『的』にして」戦った彼らは、
必ずしも犯罪者ではないのではないでしょうか?
その彼らが、その重荷を必要以上に負わされいるような気もします。
「ケツの青い」若輩者のたわごととして聞いてください。
2009/8/11(火) 午後 4:08 [ take chan ]
うちの父親もひとつ間違えばこういう外地におくられていたかもしれません。そうすれば私なんかこの世に生まれ出ることもなかったかも。
また、京都はほとんど無傷でずっと残っていたので原爆のターゲットの候補地になっていたそうです。母がずっと戦争中、京都にいましたので(京都は疎開もなかった)ので、こちらのほうでも私は生まれてなかったかも。いろいろ想像すると決してひとごとではありません。
2009/8/11(火) 午後 8:41 [ 岡原耕 ]
日本で戦国時代と言われていた時の兵士は農民がほとんどで、食料確保のために農繁期は戦をあまりしなかった。というような記述をいつだったか何かの本で読んだことがあります。織田信長の家臣であった時の羽柴秀吉が戦闘のプロ集団を作り、食料確保も現地調達として金を払っていたような記述もあるようです。後々領地を治めることになった場合を考えて略奪行為は禁じられていたようです。でも末端の兵はそんなことはお構いなしにやっていたようですが、ばれたものは打ち首にされていたようです。
2009/8/11(火) 午後 10:24 [ waterdrinknoumin ]
苦労して、戦争中を生き延び、戦後の復興を成し遂げ、昭和の高度成長時代を支え、そして平成の今、、、切り捨てられる高齢者の人々・・・日本政府のやり方は、卑劣です!
2009/8/11(火) 午後 10:57 [ - ]
生きるか死ぬかの戦争では
略奪しないは建前でしかありません
殺し犯し奪いつくすのが戦争の実態ではなかったでしょうか
2009/8/11(火) 午後 11:31
ずうっと忙しくなかなか来れずにいて、まとめて読んでいたらもう言葉が出てこなくなりました。
私の知らないことを教えていただき、ありがとうございます。
2009/8/14(金) 午後 9:56
防災士のうさたん、お忙しいなか、訪問、コメントありがとうございます。戦争は、ごく普通の人間を、異常な心理状態におくものです。
日本だけでなく、国際平和の実現を目指しましょう!
2009/8/14(金) 午後 10:33 [ 琵琶 ]