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★第8回大阪大空襲―1945(昭和20)年8月14日13時16分〜14時1分(約45分間)大阪上空に飛来したB29は145機 高度6700〜7700メートル。
(B29 100機以上の空襲が「大空襲」とされている
(B29によって空からまかれたビラ ヒロシマへの原爆投下も知らせている。)
日本国民に告ぐ!即刻都市より退避せよ!!
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/o-kuusyuu8.html
★あと1日生きていたら…終戦前日の空襲慰霊
8月14日13時20分配信 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090814-00000575-yom-soci
★彦根空襲http://sichikawa.seesaa.net/article/449824.html
敗戦当日(1945年8月15日)
その時、私は?
彦根市内建物疎開の手伝いに・・・
聞き洩らした玉音放送!
1945年8月15日
私は、昨日の校長先生の言い付け通り、従弟と二人で、自転車で1時間近くかかる母方の実家にお墓参りにでかけました。
ところが、着くとすぐ、祖母が、「折角墓参りに来てくれたのに、何もご馳走も作ってや
れない」それどころか、「今日は彦根市内の親戚の家で疎開する日になっているが、男手がなくて困っているだろうから、お前たち二人で手伝いに行ってやってくれないか」というのです。
彦根は、散発的な機銃掃射などは受けましたが、まだそのころまでは本格的な爆撃は受けていないので、ほぼ、無傷で残っていました。
しかしそろそろ危ないということで、その日は、一斉に目ぼしい家財道具を積み込んで、田舎の親戚や知り合いのところまで、運びだす日になっていたのです。
「わかったよ」と言うことで、二人でリアカーを引っ張って、彦根の町に向かいました。
彦根の町に入ると、すでに人々は、リアカーや大八車に荷物を積み終え、今度は屋根に上って、屋根瓦を1枚1枚はがして、手渡しして、いっしょに持って逃げようとしているのです。
「いよいよ、彦根の町も終わりだな」と二人で語り合いながら、正午前後に、やっと親戚の家にたどり着きました。
ところが着くと同時に、「折角来てくれたのに申し訳ないが、すでに荷物は積み終わり、これから出発するところだが、少しでも遅れると、道が渋滞して大変になるから、お茶も出せないが、このまま帰ってくれないか」と言うわけです。
事情が事情ですから、そのまま腰も下ろさずにもと来た道を引き返しました。
ところが、奇妙なことに、人々は、先ほど手渡しで下していた屋根瓦を、手渡しで元に戻しているのです。
「あ、わかった、一旦運びだそうとしたけれど、さすがに重すぎるから、諦めて、元に戻しているのだは・・・。」と納得して歩いてゆくと、どの家もどの家も軒並みに瓦を元に戻しているのです。
「おかしい、手間のある家なら、運びだしてもよかろうに、どうして全部の家が一軒残らずバックしているのだ」と疑問に思い、黙々と瓦を元に戻している家の小父さんに聞いてみました。
小父さんは、「良く分からんが、戦争は終わったらしい。」というのです。
そんなわけがありません。戦争は勝つか、負けるかの二つしかありません。
日本は戦争に負けるはずはありません。昨日校長先生がそう言ったばかりです。
かと言って、連日B29がやってきて、あちらこちら爆撃を受けている日本が、昨日の今日、勝てるとは、いかに何も教えられていない中学4年生と、3年生の二人にも思えません。「もう一度聞いてみよう」と町を出はずれた農家で聞きました。
「どうやら、戦争は負けたらしい」と言うのです。
それこそ絶対にありえないことです。
日本は「神の国」ですから・・・。
「あの小父さんは、きっとスパイだ!だからあんなデマを流しているのだ!」
「二人では敵わないから、あとで、友達を連れて、やっつけに来よう!」
と話しあいながら、帰ってゆきました。
どうやら、私たちは、15日の正午にあった、昭和天皇のいわゆる「終戦を告げる」「玉音放送」を聞き逃したらしいというこちにきづいたのは、一年以上も経ってからのことでした。
それまでの、あの瓦を手渡しで一枚一枚はがして車にのせていた64年前の町の人々の様子は、目を閉じると今でも、手に取るように浮かんでくるのですが、その農家を離れてから、どうやって、祖母の家に帰りついたのか、更に約1時間もかかる道を自転車で、琵琶湖岸の家まで辿り着いたのか、さらに、4日間のお盆休みが終わったら再開されるはずだった干拓作業への呼び出しもなく、どうして日々を過ごしていたのか、記憶はぷっつり切れて、未だにその空白の10数日のことはコレッポッチも思いだせません。
突然、記憶が蘇ってくるのは、敗戦直前の8月10日、繰り上げ入隊で、18歳で伏見の連隊に入隊した2歳違いの兄が、8月末の深夜、汗だらけで、「帰って来た」というところからです。
このお話は、8月末にお伝えしましょう。
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上記の資料のように、敗戦の前日にも大阪は空襲を受け、大きな被害を受けていました。そう言えば、その日は、琵琶湖上空から、B29の編隊は大阪方面に進路を向け、間もなくズシンズシンと、地響きが伝わってきて、夜は大阪の空が真赤に燃え上がっていたのを思いだいました。
2009/8/15(土) 午前 1:38 [ 琵琶 ]
彦根は、大規模な空襲を受けなかった数少ない地方都市で、おかげで彦根城も焼けずにすみました。ただ上記の資料のように散発的に戦闘機等が飛んできて、私もたった一人で、湖岸道路を家に向かって行くときに、突然グラマン戦闘機が現れ、大急ぎで自転車をぶん投げ、道路端の溝に伏せた時、機銃掃射が道を走りました。あの時の米兵の私を狙った顔つきを、未だに思いだすこともあります。
2009/8/15(土) 午前 1:45 [ 琵琶 ]
名古屋と大阪という大都市にはさまれて、琵琶湖上空は戦闘機の通路だったわけですね・・・名古屋城が戦災で失われたことを思うと、彦根城が残ったのは本当に幸運だったんやなあ(;_;)
お兄さん、ご無事でよかったですね!!
2009/8/15(土) 午前 8:42 [ ほったん ]
生々しいお話、ありがとうございます。
私の両親は荷なぜか戦争のことは話してくれません…
ただ父方の祖父は焼夷弾で足を失い、病院に廊下でろくに治療も受けず亡くなったことと、その後父はリヤカーに祖母と荷物を乗せて東京から宇都宮まで疎開したということだけ、子どもの頃から何度も聞きました。
それ以上のことは聞いてはいけない気がして、聞けませんでした。
2009/8/15(土) 午前 8:49
国民の中にも、どこか予測があったのですね。
2009/8/15(土) 午前 11:23 [ nakayamagoro ]
傑作☆です。
2009/8/15(土) 午後 6:35 [ 岡原耕 ]
鈴川倶楽部です。
いつの世も、あらゆる所で常に、適正な情報が流布されているわけではない。
それゆえ、違った解釈・評価がうまれてしまう。
それは歴史がかたるところ
:われわれは、”あいまい”の中で生きている。
2009/8/15(土) 午後 9:10
私の父は昭和5年8月6日生まれ、つまり広島に原爆が投下された日に15歳になったのです。しかしそんなことがおきているとは露知らず、周囲の同年代の少年たちが志願兵になっていくのを見て、「おれももうすぐ志願して戦死するのだ」と思ったそうです。終戦の日に何を思ったか、父から聞いたことはありませんが、どうせじきに戦死すると思ったから旧制中学へ進学しなかったのですから、きっとそのことを後悔したに違いないと思います。
2009/8/16(日) 午前 11:24
この写真を見て、中学生のときに雑誌で見た「紙の爆弾」というグラビア特集を思い出しました。太平洋戦争中、かなりいろいろな宣伝ビラが米軍によって日本にまかれたようですね。今でも特に印象に残っているのは、一枚の紙に幼子を抱く父親と、草生すしゃれこうべとを描いて、父子のほうには「意義ある人生」、しゃれこうべのほうには「犬死」と書いてあるものです。
こういう宣伝って、どれほどの効果があるのでしょうか。
今はイスラエルが、パレスチナを爆撃する前に標的になる地域の一般家庭に電話で避難勧告をしているということを書いてあるブログ(イスラエル在住の日本人のもの)を読んだことがありますが、実際に電話を受け取った人たちが避難することを期待するより、人道上の配慮をしたと国際社会に言い訳する材料になっているような気がしますが。
話題からずれてしまいました、すみません。
2009/8/16(日) 午前 11:29