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この間、いくつかの地方紙を見る機会があった。
どれも、戦後70年の終戦記念日について力強く取り上げている。
「福島民友新聞」8月15日付の「編集日記」は次のように書く。
「悪夢のような戦争はとうに終わっている。だが一部兵士の復員はまだ終わらない。未復員のわが子、わが夫はどこで復員の日を待っている…」。1946(昭和21)年3月3日付の本紙がこう伝えている▼続けて同年2月末現在の「県下出身兵士未復員数」が載る。終戦時における県下出身兵員約16万人のうち既に復員した人は約7万9000人余。まだ、半数の8万1000人余が未復員だとある▼第2次世界大戦で約6万7000人の県出身者が戦死したとされるが、古里では多くの人たちが「今、帰って来たぞ」という言葉を待っていたのではないか。その一方で、県内ではその復員者たちによる犯罪が増加したことも本紙は報じている▼住宅難、失職、生活難から行った窃盗が最も多く、次いで経済事犯が続き「闇商人への転落が多いことを物語る」と分析している。戦争の苦しみは戦地だけのものではなかった。子や夫を失った家族、帰還できた兵士たちの心をも傷をつけて苦しめ続けたに違いない▼戦後70年。この間、日本は曲がりなりにも”平和”を享受してきたが、今も地球上では戦火が絶えず”悪夢”に苦しむ人々がいる。体験者の思いを受け継ぎ、忘れないことが私たちの務めだ。
(以上 引用)
福島県出身で兵隊として送られたのが16万人、約6万7千人が「今帰ってきたぞ」という言葉を待つ家族のもとへ帰れず戦死した。復員者たちの犯罪のこと、子や夫を失った家族や帰還できた兵士たちの心の傷についても触れている。
「新潟日報社」15日付では、「新潟日報」の8月15日付では、「新潟戦後70年──記憶つなぐ戦時の証し」と題して見開きで特集をして、新潟県で、第二次大戦で7万人を超える県出身の兵士が戦死していることなどを詳しく書き、県民の戦争体験を紹介している。
県がまとめた「新潟県終戦処理の記録」によれば、終戦時、国内勤務者も含めて26万8721人が、陸・海軍に所属。当時の県の男性人口の4分の1にあたる。把握漏れもあり、実際はもっと多い可能性があるという。
そして、生きて故郷の土を踏めなかった県出身者の兵士は7万3659人にものぼる。軍隊に所属した人の2割だ。
戦地別では、満州事変から終戦まで14年の戦争が続いた中国では2万人超が戦死。フィリピン・ルソン島8057人、ビルマ(現ミャンマー)5563人、ソロモン諸島ガタルカナル島2849人などである。
新潟県の戦没者7万3千人というのは、近隣の福島県6万7千人、長野県5万5千人、群馬県5万人、富山県3万7千人などと比べても多いといえる。
新潟の各市町村別では、新潟市が1万4千人強で最も多く、長岡市約9千人、上越市約7500人などとなっている。
空襲・機雷の犠牲者も1633人にのぼる。
1945年8月1日から2日の長岡空襲では市街地の8割が焼け、1486人が命を落とした。
また、新潟市では、同年5月から終戦まで、港周辺に12回にわたって機雷計781個を落とされ、機雷に触れて被害にあった船は戦後も含めて44隻、91人が死亡した。
敗戦から27年が経った1972年(昭和47年)に「海麟丸」が新潟港で機雷し沈没、乗組員42名中2名が死亡し、他の乗組員も全員重軽傷を負った。
新潟市は、日本海側で屈指の港湾都市であったが、1945年に硫黄島、沖縄が陥落すると、米軍による本土の機雷封鎖が始まる。日本の船舶が航行できる水域が狭まり、大陸資源を本土へ運ぶルートは北朝鮮から新潟港を結ぶ航路しかなくなり、新潟市が受けた空襲は、新潟港の封鎖を目的とした、アメリカ軍の機雷投下が主であった。
また、アメリカは、7月に原爆投下命令で広島、長崎、小倉(福岡県)とともに新潟市を原子爆弾投下目標の一つに定め、長岡市の工場などに模擬原爆による投下訓練まで行われたものの、新潟市への投下は実行されず、終戦を迎えた。
新潟市が最終的に目標都市から外された理由として、①模擬原爆投下時点での視界不良だったこと、②京都市が候補地から外れたこと、③新潟市の都市規模が小さかったことなどが挙げられている(長岡戦災資料館・星貫さん)。
東京大空襲、広島・長崎原爆投下、沖縄戦だけではない。
日本の全国各地で戦争はあり、大きな被害があり、尊い命の犠牲があった。
大戦での日本人の戦没者は310万人。
そのことを、漠っとしてではなく、それぞれの地方の目から掘り下げて見ることは戦争を身近に引き寄せて考えることにつながる。
だからこそ地方紙が伝える戦争には、全国紙にはない鋭い視点があるのだと思う。
「新潟日報社」では、8月15日の終戦記念日に、自社が主催して、戦争を語り継ぐ催し「1945あの夏を忘れない」を新潟市中央区の新潟日報メディアシップで開いた。参加者約50人が戦没者に黙とうをささげ、平和への思いを新たにしたというこの集会の開会のあいさつで、新潟日報社の鈴木聖二・特任論説編集委員が次のように述べた。
「平和はもろく、守ることは簡単ではない。戦争を知る人の声にもう一度耳を傾け、平和の基本を新潟からつくりたい」
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2015/8/17(月) 午前 7:19 [ 琵琶 ]