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【時事問題アラカルト2010−10】
【写真】阪神・淡路大震災
●心の復興できてへん
ー阪神・淡路大震災の遺族は今、
−娘と孫を失った若林さん夫妻
―17日で、15年
6434人の死者、4万人以上の負傷者を出した阪神・淡路大震災から17日で15年になります。家族・肉親を失う悲しみのなかで、遺族は懸命に生きてきました。遺族たちの15年を追いました。
1995年の震災後、復興計画で整備された神戸の東部臨海新都心「HAT神戸」の団地に暮す、若林冨美子さん(74)は震災で娘と孫を失いました。街は変わりましたが「心の復興はできてへん」と話します。
震災当時、冨美子さんは、夫の辰夫さん(77)と灘区水道筋で40年にわたって薬屋を営んでいました。
震災発生のとき(午前5時46分)木造2階建ての家の内部は崩れ落ちましたが、冨美子さんは何とか階段で階下へ下りました。辰夫さんは、2階の窓を開け、倒れかかった隣家を伝って外へ脱出しました。
「あの子らどうしてるやろう?」。徒歩10分ほどの大内通りに一人娘,ますみさん(当時34歳)夫妻がくらしていました。
午前7時ころ、ますみさんの家の近所の子どもたちが走ってしらせにきました。「おばちゃんが死んだ」
段ボール下に
ますみさんの家は1階が1メートルほどに押しつぶされ「ぺっちゃんこに全壊」した状態でした。近所の人たちに手伝ってもらい、遺体を掘り起こすことができたのは午後2時。7時間が経過していました。
「テレビがのっかった、ますみの顔面は打撲でうっ血してはれ上がりまっ黒やった。手は無意識にお腹をかばっている様子やった」と冨美子さんはいいます。ますみさんの胎内には3月出産予定の赤ちゃんがいました。
このとき3歳の孫の正志(まさゆき)ちゃんも亡くなり、ますみさんの夫は腎臓破裂の重傷を負いました。
辰夫さんがますみさんの傍らにあった段ボールを持ち上げると、幼児がにこっとわらいかけました。「やー、生きとるぞー」という叫び。「2番目の孫(男の子)がちょこんと無傷で座っていたんです」
2か所の仮設住宅を毎日往復し、当時1歳7カ月の孫を育てることが夫妻の生きがいになりました。
娘らを亡くしたコトガショックで辰夫さんは薬屋をやめました。震災後、この地域で廃業した同業者は10軒にのぼります。
知恵をあげて
孫は高校生になり、身長は1メートル85センチに成長しました。「ブスのばばあがおったら彼女できへん」と憎まれ口をきく一方、冨美子さんが、電話で頼みごとをすると、「ぼく行ったるは」身の回りのことを手伝ってくれる優しい青年です。
「娘に、『孫を残してくれてありがとう』という気持ちだといいますが、娘と孫が生きていてくれたらという気持ちも消えません。
「震災で受けた苦しみが消えずに、心のケアができていない部分がある。人間関係が殺伐としてわびしい」とはなします。
冨美子さんは、震災遺児の心のケアを実践している「神戸レインボーハウス」の集まりに参加し、差し入れをするなど積極的に支援しています。
「若い人たちに知恵をもらい、私たちも知恵をあげていけば(復興)できていくと思うよ」
(浜島のぞみ)(つづく)【以上2010年1月13日(水)しんぶん赤旗1面トップより】
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