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同じ方が、一か月前「民主党がダメだったから自民党しかない」→今「共産党から立候補したらいいじゃん」へ
 
 最近、本社社主・さとうしゅういちが「自公が参院選で勝てば介護保険の要介護1・2の方の生活支援サービスがカットされる」と、いろいろな方にお話ししたところ、こんなことがありました。





 この方は、ほんの1か月前まで、「民主党政権がダメだった。やはり、日本の政治は自民党がやるしかないのでは?」とおっしゃっていました。
しかし、介護保険の問題をわたしがご説明すると「保険料を取っておいて、サービスを受けられないとは?!」と立腹されました。
 また、わたくしに対しても、「今は、野党も共闘しているし、共産党から立候補したらいいじゃないか」と勧められました。
 「確かに、さとうさんが訴えてきた原発のことも大事だが、身近に感じられなかった面もあった。主張は変えなくてよいから、生活に身近な話に比重を置いたらいいのではないか?」
とも。
 同じ方の反応の激変。この1か月で内閣支持率が下がっていることを裏付けるような対話でした。また、野党共闘が進行していることも、野党にプラスの効果をもたらしている、と感じました。

http://hiroseto.exblog.jp/24199916/


転載元転載元: 日本世直しのための情報拡散

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 早いもので三月である。
 春という季節は何となく慌ただしい。わたしにとっては師走よりも心がそわそわとして落ち着かない。何かと雑用が入ったり畑仕事をしたりで、ブログの更新も疎かになってしまった。小説を書きたいのだが、連載のブログが中途だったりして、そちらを片付けてからでないと……、などと気持ちが整理できないでいる。五年目の3・11が巡ってくる。今月中には連載小説『三月十一日の心』の続きを書くつもりだ。

 3月1日の衆議院予算委員会での日本共産党の高橋千鶴子議員の締めくくり質疑があった。リアルタイムで観られなかったので、YouTubeで観たのであるが、これからの日本のあるべき政治の姿というものを考えさせられた。高橋千鶴子議員が、これからの日本のあるべき政治の姿に関わる重要な問題に触れていたからだ。
 高橋千鶴子議員の質疑は、翌日の民主党議員の質疑と表面的には同じようにみえる。
 予算の配分に当たって何を優先すべきかという視点では同じであり、大企業への優遇税制を優先した予算配分を止めて、中小企業や子育て支援、そして社会的な弱者を救済するための政策に予算を優先的に配分すべきだと、大企業偏重の安倍政権の姿勢を批判している点も同じである。またそうした政策に振り向けるための原資がないと安倍政権はいっているが、その一方で、参議院選挙対策の目的だけのために低所得の高齢者へ3万円の支給をし、1兆円もの予算を軽減税率に振り向ける矛盾を批判している点でも一致している。
 しかし本質的なところで、共産党の高橋千鶴子議員と民主党議員の質疑には違いがあるのである。その本質的な違いは何か、これから論じてみたい。論じるといってもいつものように、文学的直観に導かれて気付いたものであり、どこまで論理的に論じられるかは保証の限りではない(笑)。

 安倍晋三は政権につくと直ぐに、アベノミクスなる経済政策を打ち出したが、同時に、トリクルダウンという何とも奇っ怪な理論を掲げている。詐欺師的経済学者であり安倍晋三のブレーンである竹中平蔵の好む理論であるが、竹中平蔵の腐り切った性根と、醜悪な生き様そのものを映し出す理論であり、安倍晋三と安倍政権の本質である詐欺性と虚偽性を象徴している理論だといえる。
 大企業と富裕層の富(金)が集中的に膨れ上がっていけば、いつしかグラスの許容量を超えて溢れ出した富という水が下に向かって滴り落ちていくという驚くべき理論である。この理論には社会という視点はない。社会という視点がないから社会保障という視点もない。大企業と富裕層をどんどんと富ませれば、そのお零れが下々にまで行き渡るという上から目線の傲慢な視点だけしかないのである。
 アベノミクスとはトリクルダウン理論と一体となったものだ。
 したがって、安倍政権がやったことは大企業と富裕層に富を集中させる政策であり、格差を構造的に生み出す政策だといえる。安倍晋三にとっては格差を生み出すことは織り込み済みなのである。何故ならば、大企業と富裕層が満腹になり、もうこれ以上は食えないという大企業と富裕層の胃袋の許容量を越えた地点まで、下へは富は回らないという暗黙の前提があるからだ。いわば意図的に大企業と富裕層へと富が集中するようにしたのであり、そのうちにグラスに収まり切れなくなった富が下に向かって落ちていくからそれまで指を咥えて待っていろ、という理論なのである。理論というにはあまりにもお粗末である。
 この理論には逃げ道がある。大企業と富裕層への富の集中がまだ足りないから下々にまでその恩恵が行き渡らないという理由付けであり、つまりまだトリクルダウンが起こる水準まで達していないから、大企業と富裕層へと富が加速度的に集中するような政策を急がなくてはならない、という都合がいい言い逃れが可能なのである。新自由主義者であり、詐欺師である、竹中平蔵の理論では、トリクルダウンと構造改革と規制緩和と市場開放が繋がっている。トリクルダウンが起きないのは、構造改革と規制緩和と市場開放が不徹底であり、大企業と富裕層へと向かう富が不足しているからという永遠の言い逃れが可能なのであり、これほど便利な経済理論はない。結果と責任から永遠に逃避できるのである。
 そもそもが大企業と富裕層の胃袋がいつしか満腹になると前提することが間違っていることは歴史が証明してくれている。大企業と富裕層の胃袋には許容量などないのである。富を貪欲に求めて胃袋自体が肥大化していくからだ。永遠に満たされることはなく、常に空腹感を覚えているといえる。そして、空腹感を満たすためには手段など選ばないというおぞましい本性がある。
 資本主義とは常に膨張していくこと(拡大再生産)を宿命付けられている。より多くの富を得ようと貪欲なまでに生産を拡大していくことを本質としてもっているのである。だから生産を短期間に、そして効率的に拡大するためには、有害物質を垂れ流そうが、低賃金で労働者に長時間労働を強いようが忖度しない。子供までが劣悪な労働環境で生産に駆り出されていたのが偽りのない資本主義の歴史だったのであり、赤裸々な本質なのである。明治維新によって上からの近代化が推し進められていった日本においても例外ではなく、過酷な労働の実態は女工哀史を紐解くまでもない。日本においては公害問題は深刻であった。田中正造が政府に反旗を翻した足尾鉱毒事件は有名であるが、戦後になっても水俣病を筆頭に枚挙に暇がない。
 こうした資本主義の本質をみれば、市場において公平な競争など行われないことは論を待つまでもない。市場において働くとされる「神の手」などという論理は、論理を導き出すために資本主義の本質を除外し、現実とかけ離れた世界を設定して、その世界でしか成り立たない空論でしかない。
 近代経済学を少しでも囓れば分かることだが、近代経済学の論理は、現実離れした世界を設定して(例えば公平な競争が成立し、人・物・金が自由に移動できる世界等)、その世界で成り立つ法則でしかないのである。そんな世界はどこにも存在しない。したがって、そうした論理をあたかも真理であるかのように振りかざして、現実の社会に働きかける経済政策として運用すれば、当然に社会のどこかにしわ寄せと歪みが発生するのは当たり前である。薬と同じで副作用があるのだ。副作用への配慮と対策がなければ、しわ寄せと歪みは深刻な社会問題を引き起こすことになるのである。
 経済的な効率化がスーパーマンのように言われているが、経済的効率化が社会的な歪みを生み出し、その歪みを解消するために莫大な社会的費用が発生する可能性があるという視点が抜け落ちている。もしかしたらその歪みは二度と修復できないものかもしれないのである。
 資本主義の歴史とは、放置しておくと社会の破滅を招くという資本主義が本質として持っている破壊性と凶暴性を認識する歴史であり、どうしたら破壊性と凶暴性を押さえ込むことができるかという歴史だったのではないだろうか。凶暴な牙を持つ化け物との格闘の歴史が、資本主義が誕生して以降の歴史だった、とわたしは思っている。その格闘の歴史の中で、化け物の凶暴性を抑えるための法律や規制ができたのだ。また資本主義の本質が生み出す社会的な歪みと格差の構造を是正するために社会保障制度やビルト・イン・スタビライザーといった財政制度が生み出されたのだろう。
 そうした歴史に逆行するかのように、凶暴な化け物を野放しにさせろという時代錯誤的な経済理論が復活してきたのである。詐欺師的経済学者である竹中平蔵が信奉している新自由主義と呼ばれている経済理論だが、別名を新古典主義といわれていることから分かるように、歴史を無視して、資本主義のおぞましい本質を礼讃し、資本主義を野放し状態(古典的資本主義)へと回帰させろ、という恐るべき理論なのである。凶暴であり性悪な巨大資本の意志をそのまま代弁したような理論だといえよう。トリクルダウン理論が詐欺的だというのは、凶暴であり性悪な巨大資本の意志を巧妙に正当化するものでしかないからだ。端からトリクルダウン理論などに妥当性がないことは、巨大資本が誰よりも承知しているはずだ。何故なら、己の胃袋に許容量などなく、際限なく肥大していく化け物の胃袋であることを知っているからだ。
 
 アベノミクスという経済政策を考え出した安倍晋三のブレーンは筋金入りの詐欺師に違いない。
 安倍政権の合い言葉は「ナチスに習え」であるが、マスメディアを掌握して悪質なプロパガンダによりファシズムを受け入れるような社会的空気を作り出し、世論を巧妙に誘導していく手口を、安倍政権は着実に実行に移しているといえる。
 アベノミクスとは、正しく経済版「ナチスに習え」なのではないだろうか。ナチスの経済政策を真似ているといっているのではない。マスメディアを操りプロパガンダによって、安倍政権そのものといえる看板政策であるアベノミクスが上手くいっていると印象操作を行っているという意味で「ナチスに習え」と言っているのである。
 印象操作の基本となるのは、日銀の金融政策による為替操作で円安へと誘導する手法であり年金積立金の運用ポートフォリオの見直し(GPIF改革)により国内株式の運用率を引き上げて株価操作を行い株高を演出する手法だ。
 安倍晋三はドルベースでの経済指標を出されることを極端に嫌がるが、それは円換算ではなくドル換算すれば事の本質が浮き彫りになってしまい、アベノミクスの化けの皮が剥がれてしまうからだ。巨大輸出企業の輸出額(ドルベース)が同じでも、円安になって円の価値が半分になれば、円換算した輸出額は二倍になる。日本国内でその金を使えばそれまでの倍の購買力になるのである。マジックでしかない。輸出額は横ばいなのに国内の巨大企業の収益が過去最高などと安倍晋三は自画自賛しているが、ドルを円に換算しただけの見かけの収益でしかない。だから巨大企業の内部留保が過去最高となっても、その金を賃金として分配するという決断に至らないのだろう。何故ならば、巨大企業が誰よりも己の経済的実力を知っており、単なる為替上の収益でしかないことを自覚しているからだ。
 マスコミは年金積立金の運用による官製相場で強引に引っ張り上げた株価をアベノミクスの成果だと宣伝している。そして、企業収益が好転し内部留保が史上最高にまで跳ね上がったと大音量で宣伝し、それがアベノミクスの動かしようのない成果の証拠だと印象操作をしている。が、円安へと誘導したが輸出は横ばいであり、単に円換算して見かけの収益が増えただけだという事実はひた隠しにしている。マスコミを操り国民の目を巧妙に欺いているといえるだろう。
 
 世界は関税と非関税障壁を撤廃する方向へと突き進んでおり、経済的意味では国境のない市場の一元化が進行しつつある。金融市場においては既に国境の壁はないといえる。グローバル経済といわれる所以であるが、日銀と年金を使った為替操作と株価操作がこうしたグローバルな金融市場において行われるのだから、それによって生じた富が国内ばかりでなく海外の金融資本と投資家に流れていくことになる。グローバル経済においては、仮にトリクルダウン理論が成り立つと仮定すれば、一国だけで収束するものではなく、世界規模でしか成り立ちようがないのである。つまり、世界の巨大企業と富裕層に富が集中してグラスから溢れ出さない限り、トリクルダウン理論は成立しようがないのである。グローバル経済とは、一国だけの金融政策と財政政策などによる刺激策で経済活動を活発化させられる構造ではなくなったということなのだろう。
 安倍晋三は株価が上がるとアベノミクスの成果だと我田引水的に自画自賛し、株価が下がると外的要因だと言い逃れする。が、グローバル経済下においては一国の金融政策と財政政策と経済政策で、意図的に経済環境を操作できるということは妄想でしかなくなったのである。短期間には操れているような現象をみせても、それは一瞬だけの幻のようなものでしかない。
 だから地球のどこかで金融不安が起これば、瞬く間に全世界に影響が波及するのであり、世界経済を牽引していた中国経済の急成長が緩やかになっただけで世界経済に深刻な影響を及ぶすことになるのだろう。
 わたしは経済的意味では、もう既に国境はないと思っている。
 経済的意味では国境は存在しないのに、巨大多国籍企業の経済活動を考える場合に、その巨大多国籍企業が生まれた国を通してみることは本質を見誤る元凶だと考えている。極論すれば、グローバル経済下においては全世界の1%の巨大企業と富裕層などの富める人々と、99%の貧しき人々という対立図式が本質としてあるのではないだろうか。この本質的な対立図式でみることをせずに、従来の国家という視点でみてしまうから、99%を更に貧しさと絶望へと突き落とす政策を、あたかも国益であるかのような錯覚をしてしまうのではないだろうか。
 衆議院の予算委員会での共産党の本村伸子議員によって、アメリカの軍産複合体に組み込まれ下請的な存在になっている事実が暴かれたが、ベトナム戦争の枯れ葉剤を開発し、毒性の強い農薬とセットになった遺伝子組み換え作物の開発で悪名の高いモンサント社の世界戦略の一翼を担う住友化学の例を挙げるまでもなく、1%の富める者たちの利害は一致しているのである。

 経済的指標とは便利なものである。予算委員会で野党は具体的な経済的統計データを示してアベノミクスが失敗であることを論証しているが、答弁に立った安倍晋三は別の経済的統計データを示して、アベノミクスの成果を強調する。どちらのデータが正しいのかというと、どちらのデータも正しいのだ(笑)。
 極論すれば、経済的統計データというものは、対象の選別の仕方を変え範囲を限定すれば、欲しい数値的データは作り出せるものなのだろう。たとえば、ドルベースでみるか、円ベースでみるかでも、全く違った数値が導き出されてしまうのである。これでは議論が噛み合うはずはない。
 現実としてはほとんどの国民はアベノミクスの恩恵を受けていない。むしろ家計は苦しくなり、暮らしの基盤自体の破壊が進んでいることを実感しているはずだ。しかし、マスコミはこうした現実に肉迫し、現実の背後に潜む真実をも暴き出して広く国民に知らせるという報道姿勢はないばかりか、国民の目を現実から逸らすことに腐心している。
 そもそもがマスコミが正常に機能していれば、閣僚の致命的ともいえる不祥事や暴言が頻発している内閣が総辞職に追い込まれないのが不思議である。第二次安倍政権の前ならば、疾うに総辞職に追い込まれていたはずだ。つまり、マスコミが正常に機能していないのである。安倍政権が「ナチスに習え」を実行している証左だろう。戦前の大政翼賛報道の再現だと危機感を覚えている。
 マスコミだけではない。司法と検察も同様である。明白に政治資金規正法と斡旋利得処罰法に違反している甘利明元大臣を放置したまま検察は動こうとしない。権力の意向を汲んでいるとしか思えないではないか。参議院選挙を前に安倍政権の中核にいた甘利明が刑事事件として立件起訴されれば命取りになりかねないからだろう。検察は腐り切っているといえる。
 
 衆議院予算委員会の質疑応答を観てきて思うことは、経済に政治が飲み込まれてしまっているという現実である。
 あるべきはずの政治が、単なる経済政策の善し悪しにまで貶められてしまっているのだ。政治不在といえる。もしくは、経済による政治の隷属化というべきなのかもしれない。
 こうした憂うべき事態を招いているのは、経済至上主義が根柢にあるからだろう。経済成長がなければ、国家の安定的な発展はなく国民の暮らしの向上はなく、また幸福の実現もないという病としての神話に社会が冒されていることに起因していると思う。
 病だという理由はいくらでも見つけ出すことができる。
 一例を挙げれば、原発再稼働である。福島原発事故は収束はおろか現在進行形で放射性物質を放出し続けている。放射性物質を無害なものにできる技術はない。ハイテクの最たるものだといわれてきた原発であるが、一度事故が起きると撒き散らかされた放射性物質は基本的には処理不可能なのである。あろうことか汚染された表土を人力によって削り取り、放射能の値を下げるという愚かな行為が怪しまれることなく行われている。が、根本的に除去されたのではない。削った表土の保管場所が問題となってくる。つまりは汚染の移転でしかないのである。半永久的に放射性物質は消えることはない。そして半永久的に帰還困難な地域は残り、法的に帰還可能とされた地域においても健康的観点からみて安全だという科学的根拠はない。また、汚染地域は福島だけに限定されたものではなく、東日本ばかりかアメリカの東海岸にまで至っている。
 こうした状況で原発の再稼働をする社会をどう見ればいいのだろうか。
 正常な理性と感情をもっていれば、そして倫理観の欠片でももっていれば、原発の再稼働などあり得ないことだ。

 日本共産党の高橋千鶴子議員と民主党議員との決定的な違いを、わたしは経済成長至上主義と経済成長神話から自由になっているかどうかに見ている。
 民主党は基本的には経済成長至上主義と経済成長神話に囚われていると思っている。自民党と同じである。だからTPPを推進するし、原発再稼働も否定的ではない。そして、経済成長に不可欠だという理由で構造改革と規制緩和を積極的に推進する姿勢を示している。原発の輸出にも武器輸出にも前向きである。では自民党とどこが違いのかというと、富の分配方法(分配論)なのである。
 大資本の利害と一致している企業内組合(=御用組合)の組織である連合を支持母体とする民主党であれば、当然だろうと言われれば頷かざるを得ない。連合の指す労働者とは何を意味するかということを問わないとすれば、労働者により厚く富の分配をしろ、という立ち位置であり、姿勢なのである。
 政治の基本にあるものとは何だろうか。
 人によって政治に求めるものは違うだろう。わたしは政治の基本にあるべきは、人々の生命と財産を守り、社会に自由と平等を息づかせ、より良い暮らしと幸福とを実現する姿勢だと思っている。仮に政治がそうしたものだとするなら、経済成長至上主義と経済成長神話に囚われていたらどうなるだろうか。政治が単なる経済政策と等しくなってしまうのではないだろうか。何となれば、財産と暮らしと幸福の源泉は経済成長だという思い込みがあるからだ。
 経済成長の先に幸福を見出せない人々がいたとしたらどうなるだろうか。
 経済成長こそが生命と暮らしを破壊する元凶だと気付いた人々がいたとしたらどうなるだろうか。そして経済成長至上主義と経済成長神話が社会から自由と平等を奪う元凶だと気付いた人々がいたとしたらどうなるだろうか。
 3・11とはこうした人々を生み出したのだと思う。
 経済成長至上主義に宿る価値観とは異質な価値観に目覚めた、と言ってもいいのかもしれない。

 マルクス主義を掲げる日本共産党が資本主義を否定するのは当然であり、マルクスほど資本主義が抱える内部矛盾に鋭いメスを入れた思想家はいない(A)。
 だから日本共産党は経済成長至上主義と経済成長神話から自由なのであり、だから日本共産党は護憲と反原発と反TPPを一貫して掲げ、3・11の心と沖縄の心とを共有できているのだろうか(B)?
 わたしは「だから」という順接の接続詞でAの文章とBの文章を繋げることはできないと思っている。
 日本共産党はマルクス主義を掲げているが、実際に日本共産党が社会に働きかけている政治的力に宿る精神は、明らかにマルクス主義の精神とは違っていると思っている。
 日本共産党における政治的な精神の象徴を、わたしは高橋千鶴子衆議院議員にみているが、高橋千鶴子に縄文土偶の面影を見出しているのだ。大らかで包容力があり、誰よりも平和を愛し、生きとし生けるものの命を抱きかかえながら大切に守っていく、そんな原初としての母性を感じるのである。そして、しっかりと大地に根を下ろし、冬の陽だまりのように柔らかな温もりと、命を育む土の匂いを感じるのである。
 わたしは多分にマザコンの気があるが、だから高橋千鶴子に原初としての母性を感じるのではない。文学的直観である。
 わたしの愛読書であった『二十四の瞳』と『母のない子と子のない母と』を著した壺井栄がいる。容姿ははるかに高橋千鶴子が勝っているが、どことなく似たような雰囲気を感じる。壺井栄は大好きな作家である。
 壺井栄の作家としての立ち位置は微妙である。夫の壺井繁治は純粋な意味でのプロレタリア文学の詩人であるが、では壺井栄はプロレタリア文学かというと、わたしは違うと思っている。正直に告白すると、プロレタリア文学をわたしはあまり好きではない(笑)。小林多喜二・葉山嘉樹・佐田稲子などの小説を読んだが、印象に残っていない。宮本百合子は『伸子』『風知草』『二つの庭』『道標』などの小説を読んだ記憶があるが、宮本百合子の小説も純粋な意味でのプロレタリア文学だとは、わたしは思っていない。
 何故に唐突にプロレタリア文学などをもってきたかというと、わたしは日本共産党は、小林多喜二ではなく壺井栄の立ち位置にいるのではないのか、と密かに思っているからだ。これも得意の文学的直観である。壺井栄はプロレタリア文学などという狭苦しい範疇になど収まりきらず、竹内好のいう国民文学の作家である。
 日本共産党が本気で政権を奪取するならば、小林多喜二ではなく、壺井栄の立ち位置にすっくと立つべきだと確信している。いや既に壺井栄の立ち位置に立っているのではないだろうか。「だから」、護憲と反原発と反TPPを一貫して掲げ、3・11の心と沖縄の心とを共有できているのではないだろうか。
 
 マルクスは、資本主義の抱える内部矛盾が発展的に止揚される先に社会主義社会の必然性を見ている。資本主義が発展的に深化することによって、内部矛盾も深化していき、矛盾が頂点に達した時に、資本主義を止揚する形で社会主義に移行せざるを得ない歴史的必然性をいっているのであるが、わたしは社会主義に息づく土台としての価値観は、資本主義を貫く土台としての価値観と同じだと思っている。
 科学的社会主義を掲げたマルクスであるから、人間の理性と理性の反映である科学に絶対的な信頼を置いているのは確かだ。ヘーゲルの歴史哲学を批判的に継承したマルクスは、歴史を発展的に動かしていくメカニズムを経済的基盤である下部構造に見出しているが、マルクス理論が経済に偏重している側面は否定できないと思う。経済基盤としての下部構造の変容(次なる歴史的段階としての発展的深化)と上部構造との乖離矛盾が、上部構造を下部構造へと合致させようとする政治的力を生み出し、資本主義体制から社会主義体制への以降(革命)を成し遂げるという政治的理論も優れて経済的要因から導き出されたものだ。
 誤解を恐れずにいえば、マルクスも経済至上主義ではないだろうか。
 マルクスと3・11の心と沖縄の心との間には、思想というか、価値観というか、そんな分水嶺があるように思えてならないのである。
 
 ニーチェは現代思想の源流と位置づけられたりしているが、ニーチェとマルクスの間にも明確な思想的な分水嶺がある。この分水嶺は西欧的精神土壌そのものと断絶する分水嶺だけに決定的である。西欧近代哲学と思想の本質を暴いてしまったのであり、その本質は西欧的精神土壌としてのキリスト教の本質と一体となったものだということを暴いてしまったのだから、事態は深刻である。
 わたしはニーチェの書物の愛読者ではないから直接的な影響は受けていない。影響は受けていないのだが、わたしなりに3・11の心と沖縄の心の方面(近代の超克…戦前の近代の超克ではなく、竹内好のいう近代の超克の意味)から拙い思索を重ねて行く中で、3・11を体験し、また沖縄の心を体験する中で、朧気でしかなかった拙い思索の核心が見えてきたのである。核心が見えてくると不思議なもので、ニーチェの思想の意味も見えてきたのである。そして、ニーチェの思想で謎であった力への意志が、バタイユのエロスと消費に通じていることに気付いたのだ。
 わたしは3・11の心と沖縄の心と西欧近代主義(=西欧的精神土壌)の間に分水嶺を見ているが、だからといって、ニーチェの思想と3・11の心と沖縄の心とは異質だとも思っている。通じていることは確かだが、決定的な違いがあるような気がするのである。ニーチェの思想と3・11の心と沖縄の心とを分かつ分水嶺は何なのか、まだ朧気にしか見えていないのである(笑)。
 ブログで連載(中断)している小説『三月十一日の心』の中で、はっきりとしたものとして、ニーチェの思想と分かつ分水嶺を描き出したいと思っている。

 とりとめもないことを書き綴ってきてしまった。どうもまとまりがない。
 最後に川崎修『ハンナ・アレント』(講談社学術文庫)に関連して、このブログをまとめたい。
 ハンナ・アレントの論には首を傾げるものが多いが、二十世紀が全体主義の時代であり、資本主義自体が全体主義を生み出す構造を持っているという認識については、わたしも同じ考えを共有している。ハンナ・アレントの全体主義の理論については後日ブログで書くつもりだ。
 ハンナ・アレントは全体主義へと至る要因をいろいろと挙げているが、こうした要因とは別に、わたしはグローバル経済下だからこそ、逆接的に国家体制を全体主義へと変える力が働くと考えている。
 経済的には最早国境は存在しない。1%の巨大資本が貪欲なまでに一元化された開かれた市場を求めて社会構造を破壊している。生きる基盤である社会構造をドラスティックに破壊するので、生きる基盤を失った大量の弱者を生み出し、社会的歪みが噴出する。歪みを放置すれば権力基盤が危うくなる。それを防ぐには権力を絶対的なものへと変質する以外にない。1%の巨大資本が傍若無人の利潤追求を保証してくれる全体主義国家が生まれる必然性があるのだ。いわば1%の巨大資本のための国家である。そして1%の巨大資本のための国家は、軍事力が絶対的に欠かせない。
 わたしは現代は資本主義の末期だと思っている。経済成長至上主義が限界に達しているのである。だから新自由主義などという時代錯誤の経済理論が跋扈し、資本主義の祖先帰りを高らかに謳い上げているのだ。要は何でもありの経済活動を意味する。資本主義の末期だから、厖大な浪費=消費を生み出す戦争に頼らざるを得なくなったのである。
 共産主義と社会主義は全体主義だ、という発想を自民党と公明党議員は怪しむことがない。全体主義=共産主義という方程式を信じ切っているのである。安倍晋三の国会答弁をみれば納得するだろう。スターリニズムとポル・ポトの恐怖政治がこそが全体主義であり、それは共産主義が生み出したものだという信仰に毒され切っているといえる。
 しかし、全体主義は共産主義を掲げた社会の専売特許ではない。ナチズムも戦前の日本のファシズム国家も全体主義であり、安倍晋三が夢見ている国家こそが全体主義国家である。
 現代は全体主義という病が蔓延する社会なのである。共産主義も社会主義も、そして資本主義も自由主義もない。ある日突然、全体主義国家になっていた、ということがあり得るのだ。安倍晋三が目論んでいるのは、正しく国民が気付かぬうちに、ある日突然に全体主義になっていた、という謀略を巡らしているのである。
 何をいいたいのかというと、全体主義=共産主義という方程式から自由にならないと、国民は道を誤るということである。
 自民党と公明党も全体主義になり得るし、民主党も社民党も全体主義になり得るのである。共産党だけが全体主義になり得るのではない。むしろ、平和憲法の護持で一貫している共産党と社民党が全体主義になり難いといえるだろう。
 ハンナ・アレントがいうように資本主義はいとも容易く全体主義へと変容し得るのであり、その種を自らの胎内に宿しているといえる。
 社会主義だから全体主義になるのではない。また社会主義だから、全体主義とは無縁だともいえない。
 わたしは資本主義と社会主義とは双子だと思っている。つまり、ハンナ・アレントが指摘するように、現代は全体主義へと変容するおぞましい時代だという認識こそが核にあるべきだ。IS(イスラム国)とはその象徴的なものだろう。
 どうしたらそれを食い止めることができるか。
 わたしは資本主義と社会主義の中にその方策があるとは思えない。どちらも元凶だからだ。
 わたしが日本共産党を支持するのは、護憲・反原発・反TPPで一貫し、3・11の心と沖縄の心を共有している地点に立っているからである。
 この地点は資本主義と社会主義という境界線ではない。全く別の分水嶺に立っていると妄想しているのである。そうでないと日本に、そして人類に未来はないと思うからだ。
 壺井栄は資本主義と社会主義の境界線に立っていたのではないだろう。そんなものを超えた、あるべき日本の未来が切り拓かれる分水嶺にすっくと立っていたはずだ!
 
「企業が世界で一番活躍しやすい国を目指している」と、安倍晋三に対して高橋千鶴子が言った。では高橋千鶴子はどんな国を目指しているのだろう。そんな想いに駆られたときに、稲妻となってやってきた文学的直観を書き綴ってみた。

 民主党の批判めいたことを書いたが、ファシズム前夜の歴史的分岐点にあっては、野党共闘こそが全てである。全国で参議院選挙を見据えた野党共闘統一候補が誕生しつつあるが、北海道で統一候補となった民主党の池田まき候補も熱烈に応援したい。是が非でも当選してほしい!

 経済成長至上主義は信仰に近い。
 この信仰から脱するのは容易ではないだろう。
 が、最近では同志社大学の教授である浜矩子などが、循環型の資本主義社会を提唱している。里山資本主義とはそうしたものなのだろう。
 わたしはアンドリュー・J・サター『経済成長神話の終わり』(講談社現代新書)を読んだが、この本だけでも経済成長神話から脱することはできるのではないだろうか。少なくとも、経済成長神話とは違った道があり得るということに気付くはずである。一読をお勧めする。


※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

転載元転載元: 安曇野賛歌『風よ、安曇野に吹け』

長野で参院統一候補!
共・民協定 選挙区に杉尾秀哉氏!
唐沢ちあき氏は比例に!
201638()しんぶん赤旗
 
  夏の参院選に向けて選挙協力を協議してきた日本共産党長野県委員会と民主党長野県総支部連合会、民主党杉尾秀哉選挙区予定候補の三者「政策協定書」調印式が7日、長野市内で行われ、選挙区候補を杉尾氏に一本化することを発表しました。

  共産党の唐沢ちあき選挙区予定候補は同日夕に会見し、「統一候補実現を歓迎する。しっかりスクラムを組み勝利に全力を挙げる」と述べるとともに、新たに比例候補として力を尽くすと意気高く語りました。
 
  調印式には、日本共産党の鮎沢聡県委員長、石坂千穂県書記長、民主党の北沢俊美県連代表、倉田竜彦県連幹事長が出席しました。

(写真)調印し握手する(左から)鮎沢、北沢、倉田の各氏=7日、長野市
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 政策協定は、

(1)安保法制の廃止、集団的自衛権の行使容認の閣議決定の撤回、立憲主義の回復をめざす
(2)安倍政権の打倒をめざす
(3)安倍政権による憲法改悪を阻止する
(4)格差社会の是正をはかるの4項目です。

 三者は、中央の5野党協議、長野県の3党(共産、民主、社民)協議をふまえ「県民の声を反映するために政策的一致が広げられるように努力する」としています。

 共産党は、TPP(環太平洋連携協定)、消費税増税の課題も提起しています。

 鮎沢県委員長は「政策協定調印は5野党合意を意をふまえた歴史的出来事であり、戦争法廃止、立憲主義回復の第一歩だ。自公を倒すのろしを信州から」と強調し、政策協定と選挙協力で一致した杉尾氏を推薦し当選へ全力を挙げると述べました。
 
  北沢県連代表は「全国にこれが伝わり、政治を変えるきっかけにしたい。反安倍の総力を結集する第一歩に」と期待を込めました。
 20日には、県内3野党が「共闘協定」に調印するとともに、野党、市民団体・組織、個人を結集して、安倍政権の暴走を止める「共同フリーテーブル」の場を持ち、参院選勝利へ大きな動きをつくりだすことにしています。
(写真)杉尾秀哉氏
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(写真)唐沢ちあき氏


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2015年は、国民が蹂躙された年だった!
この怒りを忘れたら強権政権の思う壺
日刊ゲンダイ


中村 公信
さん@a3cfnmjv7rgxqmwよりシエアさせていただきました。

安倍政権これ以上放置すると国が滅びる!
福祉、雇用、経済、税、安全保障etc…
福祉向上した?
...


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破壊されたものを列挙すれば、空恐ろしくなる。
憲法、国民主権、立憲主義、平和国家のブランド、国権の最高機関の地位、言論の自由、国民生活、
社会のモラル、税の公平性、企業への信頼、等々!

2016年は、建設の年、
小澤一郎氏と、志位和夫氏、日本の未来を語る!

壊し屋の異名をとる、小沢一郎氏と、長年共産党アレルギーで疎外されていた志位和夫氏が、日本の未来を語る!「世界別冊」3月23日発売ビッグ対談

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大友 洋樹
 
 消費税増税を進め、原発を推進していくのでは、自民党政治と何ら変わりがありません。野党連携における政策問題のネックは正にここにあるのです。
 しかし、野党が勝利する為には、それを乗り越えて結集してい
かなければなりません。そして、それが出来ないと日本の将来は暗澹たるものになる事だけは間違いありません。...
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野党、高知徳島参院選挙区候補、
大西聡氏(52)で一本化へ、
徳島側了承! 近く、正式協定へ! 
残り23選挙区!
選挙に行こう!  選挙に勝とう!
 
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 野党候補の一本化は、着々と進んでいます。
 昨日、長野の一本化確定が報ぜられ、沖縄、熊本、宮城、長野の4県が確定し、島根鳥取、高知徳島、山梨、山形、岩手の5県が、ほぼ確定し、残り23県になりました。
 殆どの選挙区が、市民連合の橋渡し等をえて、候補一本化が加速しており、3月中に、32選挙区すべての合意を目指しています。

 一方、参院選の前哨戦である、4月24日投票の衆院北海道5区補選の統一候補に決まった池田まきさんは、共産党推薦の予定候補だった橋本美香さん始め、全面的な支援体制が敷かれ、勝手連的動きも活発化し、コールも、「野党は共闘」から、「選挙に行こう」、「選挙に勝とう」と変わり、必勝への取り組みが強まっています。

分裂すれば倒れ、団結すれば立ち上がる!
T−nsSWOL
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野党は共闘!戦争法廃止!―全国革新懇

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転載元転載元: 平和で民主的な地球市民社会の実現を目指して

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