戦争体験談

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

【写真上】彦根市松原内湖のかんたく工事(彦根市立図書館蔵)―下記をクリックして下さい。貴重な画面が現れます。白線の入った学生帽は、紛れもなく当時の彦根中学の帽子です。大洞弁財天の山影に本部があり、私の記事中の敗戦前日の大隊長(校長)訓示もそこで行われました。
”もっこ””じょれん”など、懐かしい道具類も見ることができ、懐かしさでいっぱいです。
http://kids.city.hikone.shiga.jp/watasi/tiiki/kouzi/index.html

【写真下】大阪俘虜(ふりょ)収容所第10分所―(昭和20年10月12日撮影、2004年発刊「捕虜収容所補給作戦」より)―敗戦近く、作業現場は米原町の入り江内湖に移っていました。そのころアメリカ兵、オーストラリア兵の捕虜も近くで働かされていました。その資料をみつけました。
http://hasiru.net/~maekawa/mine/war/furyo3.html

【資料】能登川町の入り江内湖の干拓作業に動員されてきていた石川師範の生徒たちー琵琶湖周辺にあった約40の内湖の内16で干拓作業が行われ、北海道、新潟県、石川県等から、中学生が動員されていました。
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~shiryo/50th/panel/16.html

敗戦前日、その日私は?
連日のB29の来襲、しかし
校長先生は、日本は必ず勝つから、
安心してお盆休みを!と。
琵琶湖・松原内湖干拓場で


当時私は旧制彦根中学の4年生(現在の高校1年生)でした。
すでに、3年生の時から、学校に登校したのは、大雪か大雨の日だけ!
1年間で20日間もあったでしょうか!
連日、学校から数キロ離れた松原内湖に直行して、あるときは、腰まで泥沼に埋まり、
あるときは、近くまで張り出してきている山肌にツルハシを振るい、
内湖(沼)の周りに堤防を作り、溝を掘り、上流からの流れをここに導き入れ、
沼内部の水は、大型のポンプで、琵琶湖にかいだし、内湖を干上がらせて水田にするという、いわゆる琵琶湖干拓作業に駆り出されていました。
当時、日本の植民地だった、朝鮮と、台湾が、日本本土から切り離され、食糧不足に陥っていたのを防ぐ食糧増産のため、中学生が使われたのです。


当時すでに、サイパン島その他の南方諸島は、米軍の手に落ち、飛行場が作られ、朝その飛行場をとびたったB29は、午前11時半頃には琵琶湖上空に達し、そこで進路を見定めて、ある日は大阪に、ある日は北陸方面にと、爆撃に向かって行きました。

始めて空気抵抗の少ない1万メートル上空を飛び、南方諸島から給油することなく往復することのできる飛行機として開発されたのが、ボーイング社のB29でした。
現在の旅客機のB型機は、その改良されたものです。

大根の葉っぱにパラパラと米粒がついた程度の朝食で、8時半から作業を開始した私たちが空腹で目もくらみそうになるころ、午前11時半近くになると、う〜〜んと爆音を響かせて、見事に編隊を組んで、飛行機雲をたなびかせてやってきます。姿は見えませんが、今日はどちらに向かうかと、学校中で一番恐ろしかった配属将校も、先生たちも、後輩に厳しい上級生たちも、このときだけは、全員手を休めて、上空を眺めることができました。

しかも、30分後の12時には玄米の大きなおむすび2個と、たくあんふた切れ、炊事当番の作った具のない味噌汁の昼食の時間になります。

どんなに毎日、11時半が待ち遠しかったことか!
8月の6日、9日には、広島、長崎に新型爆弾が落とされたとかすかに聞いた気もしますが、すでに私の記事で紹介した、中村悦男さん、後神尊子さん、山口仙二さん、谷口すみてるさんたちがそんなひどい目にあっていたとは露しりませんでした。


後でわかったことですが、安土近くの沼には、北海道の中学生たちも動員されてきていたというのです。

私たちの全校生徒は、彦根中学大隊と呼ばれ、校長先生は大隊長、以下、中隊長、小隊長は先生たちで、班長には、最上級生の5年生(現在の高校2年生)があてられる等すべて軍隊式だった謎が後で解けました。

琵琶湖周辺の沼には、全国から、多くの○○中学校大隊が動員されて来ていたのです。

なお、私たちの隣の作業現場には、米原にあった捕虜収容所の米兵たちもいて、毎朝私たちの隣を通って作業現場に向かいました。


こうして、敗戦の前日、1945(昭和20)年8月14日の作業も終わり、全校生徒が、山影の広場に集められました。
そこで,大隊長、つまり校長先生が訓示をしました。

『君たちも見ている通り、毎日敵機はやってきている。しかし心配することはない!私が天皇さんの側近の4人の内の一人にあたる軍人さんから直接聞いた話によると、敵の航空母艦は、日本の特攻隊にやられてあと四隻しか残っていない!

それにくらべて、我が方は、瀬戸内海その他あちらこちらに、本土決戦に備えて飛行機や軍艦が隠してある。しかも日本は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が見守ってくださる神の国だから、いざとなれば神風(かみかぜ)が吹いて、日本を守ってくださる。

明日はお盆だ。明日から4日間お盆休みを与えるから、安心してお墓参りなどしてくると良い。ただしこの情報は、極秘情報なので、両親にも黙っているように!」と。


家に帰った私たちは、こんな嬉しい情報は、せめて母親には伝えられなければならないと、先ず母親に伝えます。

しばらくたつと、こんなすばらしいニュースを母親にだけは伝えて、父親に黙っている手はない!と、父親に伝えます。「父(母)さんや、隣近所にも内緒だよ」と。

かくて、父親は、左(ひだり)隣へ、母親は右隣へ。その日の内に全県下に・・・

後で考えてみると、こんなに簡単に、デマを流す方法はない!
敗戦公表を明日に控えたデマ作戦の一環だったのでしょうか?

私たちの校長さん独自のデマ作戦だったのか、何らかの上部からの意図をもったデマだったのか・・・。
今となっては、出所を確かめる術(すべ)もありません!

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

【写真】中河美芳1塁守備のポーズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%B3%E7%BE%8E%E8%8A%B3
【レリーフ】野球殿堂に飾られた中河美芳
http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_058.html
【動画】中河美芳の美技
http://www.youtube.com/watch?v=C2uVx18P4XM

野球殿堂入り、
名1塁手、中河美芳(なかがわみよし)氏、
フイリピン沖で戦死!
わずかに24歳!


★「タコ足人気」
三塁手や遊撃手がワンバウンドや山なりの悪送球で、観客が思わずため息をついた瞬間、細身の1塁手は、まるで軟体動物のように両足を広げ、フアーストミットを目いっぱい伸ばし、尻を地面にピタリと付けて、ボールをハエ取り紙のようにすくい上げる・・・。

フアンは、その美技を見たさに、他の内野手が、普通の送球をすると、ブーイングがわく!
放送記者は、その名人芸に「タコ足」の異名をたてまつりました。

現鳥取西高(当時の鳥取一中)時代、左腕投手として、二度甲子園に出場した、中河美芳のイーグルス時代の姿です。

★父の死―関西大学中退―イーグルス入団―夜間部再入学
鳥取一中から、関西大学に進学した中河は、父の死に会い、家計を助けるため、37(昭和12)年7月大学を中退して、その年誕生したばかりの新球団イーグルスに入団します。

ちょうどその年の7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)事件が起こり、中国との全面戦争に入ってゆく年です。

その後夜間部に再入学して、球団での活躍を両立させますが、次第に疲れがたまり講義も欠席がちになります。

★憲兵隊に付きまとわれ、軍隊に入隊、戦死!
当時、医学部、農学部、工学部、理学部の理科系の学生は、「イノコリ」と称されて、普通20歳になれば軍隊に入らなければならないのが猶予されていました。

ところが、中川は、有名人だったため、憲兵ににらまれ、彼は、兵役猶予のために夜間部に在学しているのだとして、監視や尾行、挙句の果てに下宿に踏み込まれ、書棚をあらいざらい調べられ、再三にわたって憲兵隊の取り調べを受けました。

当時のチーム仲間も「憲兵隊の影におびえていた」と証言しています。

恐怖の日々に耐えられなくなった彼は、自ら志願して兵役につきましたが、入隊後も、「兵役を忌避していた非国民」として、上官による暴力など執拗(しつよう)な迫害を受け続けました。

そして、1944(昭和19)年7月12日、輸送船で、フイリピンに送られる途中、ルソン島沖で米軍の魚雷攻撃で、船と運命をともにしたのです。

★葬儀にも、憲兵が!戦後野球殿堂入り
鳥取で葬儀が行われた時も憲兵隊が現れ、戦没地を祭壇に張り出していたところ、「日本の部隊が今どこにいるか分かる」と破り捨てられました。

「戦場に消えてもなお、憲兵の目に追われた」と後にスポーツ記者はかきました。
プロ野球生活はわずか5年間(6シーズン)。

その天才的な才能をたたえ、1986(昭和61)年、特別表彰枠で、野球殿堂入りをはたしましたが、晴れの表彰式には、彼の姿はありませんでした。


●●●琵琶の独り言
今年も、甲子園では、高校生たちの清々しいプレーが、日本中を沸き立たせています。

8月15日正午、サイレンの音とともに捧げられる黙祷(もくとう)には、その強い野球への思いを持ったまま、戦場で命を落とした多くの選手への思いが込められていることを知ってほしいと思います。

★この記事は、しんぶん赤旗2009年8月7日号11面「ベースボールと戦争」シリーズ記事(執筆―上田龍氏―ライター・野球史研究家)より、琵琶の責任でまとめさせていただきました。

イメージ 1

【地図】シベリア抑留の主な収容所所在地
http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
★異国の丘 竹山逸郎・中村耕造
http://www.youtube.com/watch?v=hWm_kP922_8

シベリア抑留は、
天皇制を守るための生贄(いけにえ)
政府の秘密文書見つかる!
林明治さん(84歳)の場合!


林明治さんは、今84歳、京都府向日市在住です。
敗戦(1945年―昭和20年)を、満州(現在の中国東北部)で迎えました。
軍隊で、暗号解読の任務についていた林さんは、敗戦後、東シベリアに抑留されました。

マイナス30度〜40度という極寒。金属に素手で触れば、皮膚がはがれてやけどのようになる」という環境のもとで、樹木の伐採や、道路工事なぢも従事させられました。

衛生状態が悪く、身体にノミやシラミがたかっているのが当たり前。食事もマッチ箱ほどの大きさの黒パンに、スープ一杯という粗末なものでした。

気がつくと仲間が死んでいたことも。
「身体がかゆいと思って目覚めたら、隣で仲間が死んでいました。人が死ぬと、その人についていたノミやシラミが生きている人にさーっと移るのです。すると急に体がかゆくなる。もともと自分にたかっていた虫はかゆくないんです。これを『虫の知らせ』というのでしょうか」と。


★「シベリア抑留」と呼ばれているが・・・。
収容所の数は実に2000か所にも及びます。
存在した場所も首都モスクワに及ぶ広範なものでした。
元日本兵らは、まさにソ連の“インフラ整備”のために日本政府から差しだされた生贄(いけにえ)でした。

★ツルハシもささらぬ「永久凍土」
「永久凍土」シベリアでは大地が凍る。冬はツルハシでも歯が立たない。
仲間が死んでも埋められず、「谷底に放り投げた」「雪に埋めた死体の顔が春になると浮かび上がってきた」との証言も!

★抑留体験者には朝鮮の人もいた。
敗戦時、日本の軍隊には、日本人にさせられた朝鮮の人々もいました。
かれらもまたソ連軍に抑留され、後に韓国に帰りついた人たちは「日本の協力者」とさげすまれ、二重の差別を受けました。


●ところが、この過酷なシベリア抑留が、実は、日本の天皇制をまもるため、日本の方から要請したものであることを示す文書が発見されました。

★そのまま残ることをソ連に依頼!
敗戦の年の8月26日付けの、政府の出した文書には、武装解除後の軍人と、一般人は、そのまま、現地に土着することをソ連側に依頼することと、その場合日本国籍を離れることも認めると明記されていたのです。

ソ連軍から「日本人であることを忘れろ」といわれたのには、この日本側からの依頼の文書がありました。−1993年8月共同通信配信記事。

★天皇制を守るため、労務提供を、日本側から申し出る!
2007年12月に、林さんたちの起こした裁判で、更に驚くべき事実が明らかになります。何と、日本政府は、国体護持(天皇制を守る)ため、「極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います」とまで言い切っているのです。−【注】関東軍総司令部「ワシレンスキー元帥に関する報告」(1945年8月29日)。


●●●琵琶の独り言
これを読んで、私も本当に驚きました。
ソ連軍の抑留は、ソ連の不当な扱いであったと信じていました。

しかし、その裏に、天皇制を守るため、日本政府からの申し出でー依頼があったとは・・・。
勿論、当時のソ連と、日本の力関係もあったでしょう!

しかし、なにをさておいても、日本の国民を保護するのが日本政府の役目ではありませんか?
敗戦になればさっさと日本に逃げ帰った日本政府高官たちは、一般軍人や、一般国民は、どうぞ自由にお使い下さいと申し出ていたのです。

戦時中の政治に、濃淡はあれ、一定の責任を負うべき岸信介(安倍元総理の祖父)、吉田茂(麻生総理の祖父)、鳩山一郎(鳩山民主党代表の祖父)の各氏の政治的影響力を断ち切り、本当の庶民本位の政治の実現が、今求められています。

【注】
★以上の記事は、全日本民医連編集の「いつでも元気」2009年8月号所載の「シベリア抑留国賠訴訟『現代につづく棄民政策を問う』」(p.8〜p.11)の記事を参考にさせていただきました。文責―琵琶。

★なお、引用されている二つの文書は、日本側が、すべて焼却したため、ソ連側の保存文書から発見されたとのことです。

開く トラックバック(2)


終戦後も、数カ月間ミンダナオ島の山中をさまよい、
泥水を啜り、皮靴をかじり、
生き延びたTさんのお話。
親孝行は、早く戦死すること!


樺太生まれの、Tさんは、16歳になると早速飛行機整備隊を受験し、合格します。

家が貧しく、たくさんの兄弟姉妹の長男だったTさんは、苦労している母親に親孝行するには、早く軍隊に入って、名誉の戦死を遂げることだと考えたといいます。

名誉の戦死をすれば、軍人遺族年金が出て、母さんは、一生苦労しないで生きてゆけると言うわけです。


念願かなって、晴れて合格し、入隊すると、猛烈に勉強しました。
やがて整備士になると、南太平洋の飛行場に配属されました。

しかし、整備士の仕事が出来たのは、ほんのしばらくの間で、ミッドウエー会戦後、飛行機の補充は殆どなく、米兵の上陸に備えてタコつぼを掘ったりと、他の地上部隊と変わりない生活をしながら、移動に次ぐ移動で、遂にフイリピンのミンダナオ島に配属されます。

しかし、そのミンダナオ島にも、猛烈な艦砲射撃ののち米軍が上陸してきました。
正規の陸上部隊でないTさんたちは、本隊にはぐれ、十数名で、山中をさまよい歩きます。次第に食糧は尽き、体力のない人から順番に死んでゆきます。

腹ペコの時に、目の前に死体があったら、人間どうするか?と言って、口をつぐみました。

それ以上の恐ろしいことを想像するより仕方ありません。

およそ食べられるものはすべて食べ、皮靴も食べつくして、ふんどし一つで、残った数人が、さまよい続けました。降伏は、絶対してはいけないと教えられていたからです。

喉が渇いて、山中から流れ出ている、泥水を啜りました。
ところが、その泥水の流れだしている元をたどって行くと、半ば腐った日本兵の死体が折り重なっていたといいます。

もはやこれまでと言う時に、元の上官が訪ねてきて、戦争はとっくに終わっている、早く降伏するようにと勧められ、半信半疑で、その言葉に従い、捕虜収容所に収容されます。


聞くと見るとは大違いで、元々丈夫だったTさんは、忽ち体力を回復して、やがて内地に到着しますが、家族は樺太で既にソ連領になっていたため帰る所がありません。

止むをえず、四国の徳島県に遠い親戚のいるのを思い出し、そこでお世話になり、闇屋をやりながら、生き延びます。

闇屋というのは、当時はお米は勿論のこと、食料品は、殆ど配給制になっていたのを、田舎から、政府機関を通さず、「闇」で買ってきて、横流し専門を商売にすることです。

そうこうしているうちに、家族が北海道の知り合いを頼って開拓地に入植していることを知り、そこに合流して開拓農家となりますが、冷害に次ぐ冷害で、借金のみかさみますので、10年ほどで農家を止め、土木建築業につき、建物の基礎を掘る仕事につきます。

あの温泉ホテルも、こちらの学校も、あの役所も、みんな基礎は俺が掘ったんだと自慢します。

しかし、私が知り合ったころ、すでに70歳を過ぎておられたTさんは、その後基礎を掘るために、穴に入っていた時、それに気づかなかった若い建設機械の運転手が、ショベルカーを入れてきて、危うく命を落とすところでした。

若いものにはまだまだ負けないという自信を持っておられたTさんも、これを契機に仕事を止めました。


しかし、正規の仕事についていた期間が短かったため、受け取る年金は少なく、どうやって生活を食いつないでゆこうかと、四苦八苦です。

先日も、石原知事の長男の石原伸晃氏(自民党副幹事長)は、高齢者は資産を持っているからと、後期高齢者医療制度を合理化していましたが、Tさんの爪の垢を煎じて飲んでほしいものです。

戦後、日本人みんなが貧乏だったころと違い、トヨタ、キャノン、パナソニックなどの巨大企業は、赤字宣伝の傍ら、十年以上無収入でも、破産しないだけの内部留保を持っています。

久し振りに、トヨタ家の創業者一族から出た新社長と、その父親の名誉会長の半期の配当金は22億円を超えます。

すでに、総合力では、実質的に世界2位に達している日本の軍事力を支える防衛費、わけても思いやり予算は、最大の無駄です。

この軍事費の無駄遣いと、企業・高額所得者の優遇税制を元に戻せば、若い人に負担をかけることなく、高齢者の医療を無料にすることは、十二分に可能です。


最後に確認しておきたいのは、食糧などの補給計画を持たない、軍事力の行使は、秀吉の朝鮮出兵以来の悪しき伝統です。

千歩譲って、日本のアジア侵略が、正義の戦争であり、そこで一人たりとも一般人を殺していなかったとしても、補給路を持たなければ、現地での略奪は避けられません。
それこそ「侵略戦争」そのものです。

このTさんの体験から、多くの事を学びとってほしいと思います。


なお、明日は、戦後不当にシベリアに抑留された、林明治さんたちの運命が、実は日本政府の要請に基づいていたというお話。

また、明後日は、名1塁手とうたわれながら、それが結果的に軍部ににらまれ、24歳の若さで命を閉じた中河美芳さんのお話を伝えたいと思います。

イメージ 1

イメージ 2

Kamikaze 神風特攻隊に主観を置きました YouTube 動画 ...
© All Rights Reserved.image from Flickr掲載ページ
: http://paranoids.sakura.ne.jp/youtube/search/Kamikaze/

【画像】1944年11月25日12時56分、空母エセックスに突入直前の山口大尉機(艦上爆撃機・彗星三三型)

学徒兵 許されざる帰還
〜陸軍特攻隊の悲劇〜
http://www.nhk.or.jp/special/onair/071021.html

http://image-search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=slv1-tbtop&p=%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A
 
特攻隊志願者はこうして造られた!
親友、Y君の場合!


今の若い方には、後長く生きられて数年という特攻隊に、どうして次々死を覚悟し当時の若者たちが志願して行ったのか不思議に思われると思います。

そこで、今日は、当時中学4年生(今の高校1年生)だった私の親友、Y君が、どうして特攻隊を志願したかのいきさつをお知らせしたいと思います。

Y君は、私の親友でした。
放課後、あるいは勤労動員の作業を終わってから、いつも、彦根からの琵琶湖岸の1本道を、一緒に自転車で家に帰りました。

私の家は、今は彦根市に吸収合併された、市の中心部から、自転車で約40分の純農村でした。
Y君の家は、私の住んでいる集落から、さらに、自転車で約20分のところにありました。

その頃は、中学3年生になると、陸軍、海軍の予科練習生(いわゆる予科連)の募集が始まります。
身体の柔軟な、中学3年生から仕込んで、戦闘機乗りに仕立てあげるためです。

当時、皆,腹ペコで、次はぎだらけの制服をきていた私たちにとっては、腹一杯ご飯が食べられて、金ピカの七つボタンに、桜に、碇(いかり)の制服制帽に身をかため、腰に短剣を吊るした予科連生はあこがれの的でした。


しかし、厳格な身体検査に合格しなければ、予科練生になれません。
担任の先生は、毎月1回、クラスの生徒を身長の順番に並べ替えます。
そして背の高い順番に、「ハイ、今月は、先頭からここまで」と、毎月数人ずつ予科連を志願させます。
彼らは、当初は約2年で一人前の飛行機乗りに仕立て上げられ、やがて特攻隊員として死んでゆくのです。

私は、クラスで小さい方から5〜6番で身長が足りず、飛行機の操縦棹に足が届かないため番外です。
Y君は、背の高い方から数番目でしたが、母一人、子一人の家庭だったため受験を免除されていました。

しかし、中学4年生になるとそうもゆかなくなりました。
毎月、毎日、特攻隊で死んでゆくのですから補充が大変です。


 
軍隊は、各中学校長に、学校ごとに、今月は○○名受験させろと割り当てがきます。
校長先生は、各担任の先生に、何名受験させろと割り当てます。

割り当て人数を消化できない担任の先生は、今まで免除していたY君に目をつけ、勤労動員の後で疲れているY君を、校舎に呼び出して、連日受検を強制します。
私は、暗くなっても、校門のところで待っていて一緒にかえります。
そんなある日、特別遅くなっても帰ってきません!

やっと帰ってきたので、どうしたと聞くと、もうどうしようもなくなって、断りきれずに、受検することを承諾してきたというのです。
お母さんの反対をどう説得すると聞くと、黙ってハンコを盗み出して願書を提出するというのです。


どうして、反対しきれなかったんだと聞くと、とても断れる雰囲気じゃなかったというのです。

当時の化学実験室は、座席が階段状になっていて、先生は一番低いところで実験をします。
各自が実験するほどの設備がないため、生徒は階段状の椅子に座って、高いところから見守る仕組みになっていました。

その一番低いところに、担任の先生と、相対して座り、担任の先生が、説得するのを、校長先生や、配属将校ど、全校の先生方が見守っているのです。
もう、最後は、担任の先生が気の毒になって、承諾してしまったとのことでした。


それから数日後、彼ともう一人の受験生の送別会をY君の家で開きました。
はじめは、大人しくしていた二人は、かき集めてきたどぶろくの力を借りて「何が目出たいんだ、あと2年足らずで、俺達は必ず特攻隊で死ななければならないんだぞ!そんな気持ちがお前らに分かるか」と暴れだし、襖や,障子などを打ち破り、やっとのことで皆で抑えつけました。

こうして、昭和20年の7月、彼らは入隊してゆきましたが、8月には敗戦を迎え、幸い特攻隊で、死ぬこともなく帰ってきました。
 
卒業後、大阪の呉服屋さんに勤め、十数年経って、仕事で北海道にやってきて、しばらくぶりに当時の話になりました。

実際に、そのようにしてわずか18〜19歳で死んで行った人々の多かったことか!

戦争賛成!日本の自衛隊も、もっと海外へ、核武装、敵地攻撃論容認などと勇ましいことを言う人は、真っ先に、自分や、自分の子供が、20歳前後には、ほぼ確実に戦死するよな状態を、望んでおられるのかどうか、しっかり、胸に手を当てて、考えてもらいたいものだと思います。


明治時代のジャーナリスト長谷川如是閑氏は、「戦争絶滅請合法案(せんそうぜつめつうけあい法案)」を発表し、政府の高官、その家族が、真っ先に戦場に赴くべきことをのべました。

さしずめ、小泉2世や対馬2世、麻生氏、安倍氏、中川昭一氏や、久間、小池百合子、石破、浜田氏など歴代防衛相や、ついでに元民主党の影の防衛相浅尾氏と、その家族が先ず敵地攻撃とやらに身を挺してもらいましょう!

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
琵琶
琵琶
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事