琵琶の自叙伝

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開戦当日朝起きると、父は居間の神棚の側に置いてあるラジオの前に座って、開戦を告げる放送に「いよいよ始まったか」と深刻な顔をして呟いていました。

当日は彦根では珍しく10数センチの雪が積もっていたような記憶があります。当時小学校6年生だった私たちはいつものように2年年上の高等科2年(現在の中2生)に引率されて、2列縦隊の隊列を組み、子供の足で約40分ほどかかる学校に向かいました。興奮して「アメリカ兵が来たらやつけてやるぞと」口々に叫びながら登校途した時の記憶が今も鮮明に蘇ってきます。

当時「鬼畜米英」と教え込まれていた私達の脳裏には、「頭には角が生え、お尻には尻尾のある」米兵の映像が刻み込まれていました。

 

★翌年彦根中学(現彦根東高校)を受験します。受験日の前日、担任の先生に連れられて近くの荒神山の中腹にある氏神神社に合格祈願にお参りしました。

一応難関中学ということになっていましたが、戦時中と言うことで学科試験はなく面接のみでした。3人の面接教官の前には太平洋の地図が広げられ、ハワイや、マレー沖には日の丸が描かれてあり、「それぞれの所で日本軍の上げた戦果を述べよ」と言うのが試問でした。軍国少年だった私は得々と答え、見事に合格しました。

(なお、ハワイ攻撃の前に、マレーのコタバルに上陸作戦が行われていたことは、数十年たって帯広の「憲法を読む会」で山本政俊さんに教えていただいて初めて知りました。」

 

★小学校5年生と6年生の国史の時間には、神武天皇に始まる歴代天皇の名前と、教育勅語を暗記させられましたが、中学校に入ると今度は「軍人勅諭」の丸暗記を2年生までにやり終えねばなりません。時間があるとグランドをぐるぐる歩きながら暗記しました。

 

体育の時間は、殆ど軍事教練に当てられ、敵の弾に当てられないように銃を持って、地面を這って歩く匍匐(ほふく)前進、城壁のぼり、グランドの端に立ててある人型のわら人形に対する銃剣による刺突訓練等が繰り返され、運動神経の特別鈍かった私にとって最も辛い時間でした。

退役軍人や現役軍人の教官が3人も配置され、「そんな腰つきでは人は殺せないぞ、心臓はここだ、ここを突け」と叱咤された日々を思いだし、今度中学校に銃剣術が復活されると聞いて身震いしています。

秋には10数㌔離れた安土城址まで全校強行徒歩訓練が行われ、1年生の私達はわざと重石を入れた背嚢(はいのうー今のランドセル)を背負い、3年生以上はさらに加えて銃を担ぎ、時間内に帰って来なければなりません。中国での軍隊移動に備えた訓練です。

こうして、やがて黙って特攻隊に志願する「軍人精神」が叩き込まれていったのです。

 

★それでも1〜2年生の間は、秋の収穫期などに主人が出征して人手の足りない農家に、1週間か2週間程度援農に駆り出される以外はほぼ正常に授業が行われましたが、3年生からは連日彦根城の地先にあった松原内湖の干拓作業に狩り出された事は、すでに8月15日の終戦記念日の記事としてお届けしました。今後も引き続き、折に触れ、戦時中の記憶を手繰り寄せながらお伝えして行きますので、ご意見、ご感想をお寄せください。

 

2017(平成29)年12月8日(金)a..10記 琵琶玲玖

 

追伸、

1.今晩6時前後より、TBS系で、「日米開戦日に考える札幌のスパイ冤罪事件語り継ぐ人々」が放映予定です。視聴されることをお勧めします。

※2.我々の時代は、我われの知らない内に戦争が始まり、我われに相談なく戦争がおわりました。

今米朝間の緊張が高まり、偶発戦争の危険性が存在し、一旦始まれば日本は真っ先に壊滅します。しかし今ならまだ間に合います。

「戦争反対、安倍総理は、米朝話し合いの先頭に立て」の声を上げましょう。

 

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今日は、太平洋戦争、開戦74周年記念日
孫や、子に伝える、その日の思い出(再々掲)
 
(琵琶の自叙伝1)
 
 これは6年前の2009年12月8日に投稿した記事の再々掲です。

1941(昭和16)年、12月8日、朝、起きると、父親が、神だなの隣においてあるラジオから流れてくる声に耳を傾けていました。
 
●第一回の大本営発表は、1941昭和16年)12月86時に行われたものであり、内容は開戦の第一報で、午前7時にNHKラジオより報道された。以下はチャイム[3]の後にアナウンサーが読み上げたその発表文である[4]
 
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部128日午前6時発表、帝国陸海軍は、今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と。

 当時、小学校6年生であった私は、何度も繰り返されるこの言葉が、耳に残っていることと、父や母が、なんとなく興奮していたこと以外に記憶にありません。

 ただ、当時17歳だったという野依一郎氏(84歳)は、「聞いていた父が『えらいことになった!』と暗い顔でつぶやきました」と伝えています。(2008年128日しんぶん赤旗12面「読者の声」欄)

 1929(昭和4)年の米国発金融恐慌から始まった世界恐慌、1931(昭和6)年918日の柳条湖事件から始まったいわゆる満州事変、さらに1937(昭和12)年77日に起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件に続く、中国全土への侵入と、戦争に次ぐ、戦争の時代のただ中にいた日本の国民にとっても、それは、「えらいことになった」と言うのが実感でしたが、それを口に出して言える時代ではありませんでした。

 口にだせば、憲兵・警察に捕まる時代でしたから・・・。

 朝食を済ませた私は、いつものように、集落の出口のところに集まり、最上級生の高等科2年生(現在の中学2年生にあたる)の指導のもとに、隊列をくんで、徒歩で約30分かかる学校にむけて出発しました。
 学校までの途中、また、学校についてからの記憶もそれほどありませんが、「鬼畜(きちく)米英をやっつけろ」と口ぐちに叫んでいたのが、記憶に残っています。

 そうです、アメリカ人や、イギリス人は、鬼、畜生で、人間ではないと教えられていたのです。
 私たち、子供の頭のなかには、アメリカ人、イギリス人は、鬼が島の鬼退治の絵本にでてくる青鬼、赤鬼が、イメージとしてしっかり植えつけられていたのです。

 野球も、これはアメリカから渡ってきたスポーツだからと、すでに、アメリカとの戦争の始まる2年前の、小学校4年生から、全面禁止になりました。
 野球は、私たち当時の子供の中でも、大変人気のあるスポーツでしたが、担任の先生が、今日が、野球のできる最後の日だからとやらせてくれた時、運動神経の発達した方ではなかった私が、珍しく1塁ベースを踏んだ日のことを、今も覚えています。

 翌年の3月の旧制中学の入学試験は、机の上に大きな太平洋の地図があり、ハワイはじめあちらこちらに日の丸の旗が書き込まれています。
 それは、日本軍が、開戦当初、戦果をあげた所の地図で、それぞれのところで、アメリカの軍艦を何隻沈めたかなど答える問題でした。
 当時、軍国少年だった私は、得々とそれに答え合格しました。

 しかし、合格したあと、まともに勉強したのは、1年生の間だけ。2年生からは、すでに農家への、勤労動員が始まり、3年生からは、琵琶湖周辺の沼地を干し上げて水田にする、いわゆる琵琶湖干拓作業にかりだされ、連日、山を削り、沼地に腰までつかる重労働で、学校に登校したのは、大雨か、大雪の日だけで、1年に20日もあったでしょうか。

 それが、敗戦の前日、中学4年生(当時の旧制中学は5年生までありました)の814日まで続いたのです。

 この続きは、また、後日。時折、触れて行きたいと思います。
 中学生、高校生のブロガーの皆さん。皆さんのおじいちゃん、おばあちゃんは、こんな苦労をしてきたのだと、読み取ってください。

 学生や、青年、お父さん、お母さん、壮年の皆さんは、あの一連の戦争は、正しかったのだ、いや間違いだったのだと、様々な議論がなされていますが、当時を生き抜いてきた人間の生きざまから、真実を受け止めてください。

 私と、ほぼ同年配か、数年、年下の皆さん、どうか、私とともに、当時の記憶を呼び起こし、後世に伝えるべきは伝えましょう。

 1929年に匹敵する、もしくは、それを上回る金融恐慌の波が、世界を駆け巡っています。
 このあと、本格的な、世界大恐慌に発展するのか、暗い谷間の時代が再現するのか・・・。

 そうさせないための努力を、我々の残存能力で可能な限りつづけましょう!

 子や、孫や、ひ孫のために、人類の進歩のために!!!
彦根城の敷地内に埋められた筈の、
軍事教練用の三八(サンパチ)銃は、
今、いずこ?(琵琶の自叙伝)
昭和25[1945]年8月14日、当時旧制彦根中学3年生だった私たちは、勤労動員で、連日彦根郊外の入り江内湖を水田に変える干拓作業に従事していました。
この日、作業が終わると、全員山陰に集められ、学校長(軍隊式に、彦根中学大隊長と呼ばれていました。)の訓示がありました。
 
「連日敵のB29が琵琶湖上空に飛来して、大阪その他が爆撃されている。しかし案ずるな!おそれおおくも、(ここで全員気を付けの姿勢をとる)天皇陛下側近の4人の参謀の一人より聞いた話だが、敵の航空母艦は日本の特攻隊に次々と沈められ、あと4隻しか残っていない。それに引き替え我が方は敵を引き付け、肉を切らして骨を切る方針で、瀬戸内海その他に多数の軍艦が隠してある。
それに万一の事があれば、”神風“が吹く!
厳しい戦況ではるが、明日より4日間だけお盆休暇を与える。安心してお墓参りをしてくるように。
ただしこのことは、軍の最高機密であるから、両親にも黙っているように」と。
 
翌日、2歳年下の従弟と、数キロはなれた多賀町の母の実家の墓参りにゆき、そこで“終戦”を知ります。
(詳しくは、琵琶の自叙伝「聞きそびれた玉音放送」をお読みください。)
 
その時点から8月末までの記憶はありません。
記憶が甦るのは、8月上旬、18歳で伏見連隊に繰り上げ入隊させられた兄が、8月下旬に帰宅してからです。正確な日にちは記憶していませんが、多分、8月27日頃だったと思います。
そして、4日間であった筈の休みが、16日間に伸び、9月1日、明日学校に登校するようにとの連絡がやってきます。
当時電話も、村役場か、学校くらいにしかなかった時代に、どうやって連絡したのか、未だに不思議です。
 
久しぶりに友人たちと会い、はしやいでいる私たちが教室で待っていると、担任の英語の先生ではなく、軍事教練を担当していた准尉殿がやってきます。
そして、生徒たちを教室の前の方に集め、窓から顔を突き出して、誰か不審者が聞いていないか確認したうえで次のように話しました。
 
「明日、米占領軍が、正式に日本にやってくる。始めは、ニコニコしているだろうが、いずれ占領軍として日本人にかかってくる。私は軍人なので追放され、明日から学校にはこれない。そこで最後の訓示をしておく。軍事教練用に使った、三八銃(明治38年の日露戦争の時使われたので、そう呼ばれていました。)が、彦根城の敷地内に堀をほって埋めてある。いざという時は、その銃を持って、立て!」と。
 
私たちは身震いして、「その時にはきっと憎い米軍をやっつけるぞ」と奮いたちました。
 
それから70年がたちました。
卒業後、20数年経ち、久しぶりに参加した同窓会で、准尉殿の郷里の醒ヶ井から来ていた親友に消息を聞くと、戦後すっかり好好爺となり、農業にいそしんでいた元准尉殿も、土に還られたとのことでした。
今も、あのとき、真剣な面持ちで、スパイが聞いていないか確認された准尉殿の姿が鮮明です。
しかし、今となっては、幻の三八銃の行くへは、遥としわかりません。

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特攻隊(予科練)に強制志願させられた親友Y君
琵琶の自叙伝(その2)

親友Y君と私は、敗戦当時、旧制彦根中学の4年生(現在の高校1年生)でした。
小学校6年生の年末に近い12月8日に、突然アメリカとの戦争が始まりました。
当時は、義務教育は小学校6年生までで、翌年4月、彦根中学に入学しますが、まともに勉強したのは1年生までで、2年生になると、働き手が戦争に駆り出されて人手の足りなくなった農家に、春と秋の2回、「援農」と呼ばれた作業に参加しました。
3年生になると、学校から歩いて30分ほどの、入江内湖(いりえないこ)へ、土木作業に通うことになりました。
琵琶湖の周辺にある内湖の外側に溝を作り、上流からの水を受け止め、内湖の水は大型のポンプで琵琶湖にかいだし、干上がらして水田を作るという、いわゆる干拓作業です。
私たちは、毎日、毎日、泥土につかったり、鶴嘴(つるはし)で山を砕いたりして、溝を作って行きました。
 
ところが、一方では戦争が次第に激しくなり、飛行機乗りが足らなくなってきたので、俗にいう予科練(よかれん)という制度ができ、中学3年生になると、背の高い生徒から順番に入隊させられ、2年間の訓練が終わると、特攻隊要員となって、アメリカの軍艦に体当たりすることになります。
私は背が低くて操縦桿に足が届かないため、入隊を免れていました。
しかし、特攻隊員はいはば消耗品ですから、絶えず補給しなければなりません。
校長先生は、各クラスの担任に、毎月入隊要員の人数を割り当てます。
担任の先生は、毎月背の高い順番に並ばせて、今月は「ハイここまで」と志願させます。
Y君は背は高かったのですが、母一人、子一人の家庭であったため、最初の頃は入隊を免れていました。
 
然し4年生になると、そんな余裕が無くなり、Y君にも志願するようにとの声がかかりました。
   最初の頃は、母親が反対しているからと言うことで、何とか断っていたようです。
5月に入ると、作業の終わったあと学校に呼びされ、説得されるようになりました。
同じ方向への自転車通学生だった私は、じっと校門のそばで待っていて、一緒に帰りました。
所が、5月も半ばを過ぎたころ、日がとっぷりと暮れてもY君が帰ってきません。
やっと疲れ切って学校から出てきたY君は、断りきれずに承諾したとのことです。
私自身は、身長が足りない不甲斐なさを嘆いている軍国少年でしたが、意思に反して強制的に志願させられる不当性をなじり、なぜ、キッパリと断らなかったのかと、Y君を責めました!
Y君は、いや、あの雰囲気では、担任が気の毒になって、断りきれなかったと言います。
理科の階段教室の最上段に校長先生と、配属将校(各学校に軍事教練のために配置されている現役将校)を始め、全校の教員が坐り、一番低いところにある実験台を挟んで、一人一人生徒を呼び出し、担任の先生の説得を見守っているのだそうです。説得できないと、担任の先生が責められることになり、それが見ていられなかったというのです。
 
母親に内緒で印鑑を持ち出し、予科練入隊願書を提出したY君の自宅で、友人たちと壮行会を開いたところ、初めはおとなしくしていたY君は暴れ出し、「何がめでたいんだ!あと2年たらずに、確実に死ぬ者の気持ちがお前たちにわかるか」と、ガラス窓を割り、障子を蹴りだす彼を抑え込むのに大変でした。
 
7月に入隊した彼は、8月の敗戦で無事帰ってきました。
 
帰郷して郷里の伊吹山を車窓から眺めると、人生最後の思い出にしたいという彼と二人で中腹までのぼり、天候悪化で引き返した彼の当時の心境を思いやります。
 
その後、大阪の老舗の呉服店の番頭になったY君もすでに亡く、今の政治状況への気持ちを問いたいとの思いが募ります。[2015年8月7日記す]

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『聞きそびれた玉音放送』
琵琶の自叙伝(再掲)
 
この記事は、2010年の8月15日投稿した記事を手直しして再掲したものです。
 
70年前の8月14日の夕刻
 
 夏休みもなく、連日腰まで泥水につかり、山の岩肌にツルハシをふるい、空腹に目もくらみそうになりながら、琵琶湖の周辺、彦根市郊外の、入江内湖、松原内湖の干拓作業に駆り出されていた、滋賀県立彦根中学校の4年生(今の高1)、5年生(今の高2)と、すでに3月に卒業したけれど、そのまま、元の中学に残留させられていた生徒全員が、作業終了後、弁天さんの祭られている山影に集められました。
 
 近くの米原には、米兵、オーストラリア兵などの捕虜収容所があり、同じく、近くの作業現場の干拓作業に従事しており、朝夕行き交う際に、わざと泥を浴びせる友人もいました。
 
★さて、生徒全員が、山影に集まると、学校長は、おもむろに訓示を始めました。
「明日より4日間、お盆休みを与える。日本古来の風習に従って、先祖の墓参りをしてくるように。
 
連日敵機B29の編隊が琵琶湖上空に飛来し、その後大阪、金沢などに進路を変え、各地を爆撃しているが、案ずる事はない!
 
恐れ多くも
 
(ここで校長以下教師、生徒全員が、“気をつけ”の姿勢を取る)
天皇陛下の、極くお傍に仕える4人の軍事参謀の一人から聞いた事であるが、アメリカの軍艦は、あらかた沈められて、あと4隻しか残っていない。
 
 それに引き換え我が方は、本土決戦に備え、瀬戸内海その他各地に軍艦、飛行機を隠してある。
 
敵をひきつけ、肉を切らして骨を切る作戦である。
 
日本は必ず勝つ!
 
さらに、いざとなれば、神風が吹く!
ただし、これは、極秘情報であるから、父母にも漏らしてはいけない」と!
 
★我々は、武者震いをして帰宅し、こんな素晴らしい情報を母親に隠しておけるわけがない!
 
 大根の葉っぱと、オオバコその他の道端の草に、糠をまぜて、少しでも腹もちのする夕飯の支度に余念のない、母親に耳うちをする。
 
 しばらくすると、こんな素晴らしいニュースを、父親に知らせないわけにはゆかない!
 
 これまた、オオバコの葉を乾かして作った煙草モドキを吸っている父親に耳打ちをする。
 
両親は両となりに伝え、
 
かくて一夜のうちに
 
全県下に、人心の混乱を抑えるデマが行き届く!
 
明けて15日
 
 校長の云いつけ通り、2歳年下の従弟とともに、多賀町の母の実家の墓参りに!
 
 ところが、祖母は、「折角来てくれたが砂糖もなく、牡丹餅も作ってやれない!」
それどころか、「これまで大きな空襲を受けてこなかった彦根の街が近く、空襲を受けることは間違いない!
 
 ということで、家財道具を田舎に持ち出す疎開の日だ。
 親戚が男手がなくて困っているだろうから手伝いに行ってやってくれないか」と。
 
★「分かった」と彦根の街に、リヤカー引っ張って入ってゆくと、どの家も荷物を荷車などに積み、更に屋根瓦まで、手渡しではがして積み込んでいる。
愈々彦根の街も終わりかと語り合いながら、街の中心部にある親戚の家についたのは、
 
正午過ぎか?
 
 つくと早々、「折角来てくれたけれど荷物は積み終わった、道の混まないうちに出かけるので、すまないがお茶もあげられない」と。
 
 「いいよ、いいよ、気にしない、気にしない」と、腰も下ろさずトンボ返り!
 
 すると不思議な事に、人々は、黙々と、一旦はがした瓦を、屋根にもどしているではないか!
 
 中4と、中2の二人の頭で考えた!
 
 「ああ、分かった、一旦運び出そうとしたが、重すぎるのであきらめたのだ」と。
 
 
★「でも、待てよ、もしそうなら、人手のありそうな家は運び出してもいいではないか?」
 
「全部の家が、瓦を元にもどしているのはどういうことだ!」
 
今一度、聞いて見ようと、町はずれの農家のおじさんに聞いてみると、
 
『戦争は終わったらしい』と。
 
『どうやら、日本は戦争に負けたらしい』と。
 
 そんな筈はない、「日本は必ず勝つ」と、昨日校長先生から聞いたばかりだ!
かと言って、日本が勝ったとも思われない!
 
 いくら、洗脳されているとは言え、連日爆撃を受けながら、手も足もでない日本が、今日、明日のうちに勝てるとは思えない!
 
★「分かった、あのおじさんは、アメリカのスパイだ!日本の国民を惑わすデマを流しているのだ」
 
「二人では、かなわないので、あとで友達をつれてやっつけにこよう」と。
 
そこで、私の記憶はプッツリと切れる。
 
 どこを、どうして、祖母の家に帰り、そこから再び実家に帰ったのか?
 瓦の手渡しの風景は、しっかり脳裏に焼き付いているのに、・・・。
 
 記憶の蘇るのは、8月も数日を残すところからだ!
 
《85歳になった今も、あの瓦の手渡し風景は、鮮明に、脳裡に残っています。》

転載元転載元: 軍事費削って!5秒に一人、飢餓で命を落とす子ら

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