久遠実成阿弥陀福祉会ブログ!善導,法然,親鸞,蓮如の南無阿弥陀仏

弱く、愚かで、罪深い者ほど、大事にすべきである。それがまことの親のこころである。南無阿弥陀仏

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南無阿弥陀仏福祉55

願力念仏詩 2011.10.29 釈白道

末期の眼にて

一期を生きる。

全て愛しく

全て厭わしい。

宿善喜び

宿業哀れ。

衆生所以興出世

唯聞弥陀本願海。

無辺極濁悪の

一生造悪誰ぞ。

極重悪人は

我なると弥陀は信知せしめたり。

二百一十億の諸仏国土をば

五劫があいだ思惟なされ

不可思議兆載永劫があいだ六波羅蜜修行なされ

十劫前の正覚は

往生成仏の正因を

南無阿弥陀仏と成就せり。

本願名号のひとりばたらきに、

行者の聞功なく、信功なく、称功なく、説功なく、

弥陀に、われを救いたまえる大手柄ありけり。

摂取不捨をあおぐばかりなり。

唯名、唯聞、唯信、唯称、報仏恩。

阿弥陀仏は、阿弥陀仏のみならずして、わがために、南無をこしらえ、与えたもう。

絶対他力が純他力

願力不思議の仏智不思議。

一切仏が一仏で

一仏の化益するところ、一名号に極まれり。

獲得名号が自然法爾なり。

自力において難中難

名号願力易中の易。

極悪短命のこの機ざまには

難行自力の聖道門入れられず。

このわれにこそ、現当の二利益は授けらるる。

自他不二の大慈悲心は

至心廻向したまえるなり。

往還の二廻向は

六字のうちにこもりたりとこそ、知るべし。

光明と名号は

因縁を顕して

一念発起せしめ

真実信を獲得せしめるのである。

名体不二が名体不離で、能所不二が能所不離なり。

親のつかいに親がきた。

六字になりて六字がきた。

離れていないが、離れている。

離れているが、離れていない。

親が六字で六字が親で

親が子となりゃ子が親となる。

親の名告りで親子なり。

弥陀釈迦諸仏が師なり親なり。

真の仏弟子、真仏子。

おさめたり。もののにぐるをおわえとる。

よりたのませ、よりかからせるなり。

むかえとりて、まもり、たすけたり。

すてず、すくいたり。

われをたのめ、われにまかせよ、

かならずおちるなんじを、

かならずおさめ、たすけ、すくうぞとの、

勅命先手を領受するばかりなり。

南無阿弥陀仏。

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1101.聞き語れ、無常の風に、有り難き、生死出づべき、南無阿弥陀仏。

1102.真信を、決定ののち、報恩が、元祖高祖の、南無阿弥陀仏。

以上は2011.10.29

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●十干 2011.5.13

甲 こう きのえ 木の兄 jiǎ giáp
乙 おつ きのと 木の弟 yǐ ất
丙 へい ひのえ 火の兄 bǐng bính
丁 てい ひのと 火の弟 dīng đinh
戊 ぼ つちのえ 土の兄 wù mậu
己 き つちのと 土の弟 jǐ kỷ
庚 こう かのえ 金の兄 gēng canh
辛 しん かのと 金の弟 xīn tân
壬 じん みずのえ 水の兄 rén nhâm
癸 き みずのと 水の弟 guǐ quý

●岩本月洲 2011.5.15

岩本月洲 という方の作られた詩です。

---------------------------------

常に居(い)ますを仏という

此処(ここ)に居ますを仏という

共に居ますを仏という

この仏を南無阿弥陀仏という

このいわれを聞いて歓ぶを信心という

称(とな)えて喜ぶを念仏という

●学派について 2011.7.16

江戸末期以来、本願寺教学の流れに石泉(せきせん)と空華(くうげ)の二大学派(ほかに豊前、播南、石州、竜華など)があるという。

違いがよくわからない。

南無阿弥陀仏

播南轍の祖は智暹(ちせん)1702-1768年。兵庫県印南郡魚崎の真浄寺(本願寺派)の住職。若霖(「じゃくりん」本願寺派第3代の能化)門下の秀才。明和元年(1764)に『真宗本尊義』を著述してこれを翌年の6月に刊行し、明和4年(1767)に功存率いる学林を相手に争論(明和の法論)を起こしました。

法雷轍(断鎧→瓜生津隆英→桂利劔→稲垣瑞劔)。

陳善院僧樸師は第四代能化・演暢院法霖(日渓法霖)から学びました。
44年間の短い生涯でしたが、僧樸門下からはいろいろな学轍が生れています。

 空華轍祖 明教院僧鎔師
 石州派祖 実成院仰誓師(『妙好人伝』などの作者)
     仰誓師の子が履善師、履善師の弟子が大厳師
 芸州派祖 深諦院慧雲師
  また、慧雲師の弟子が芿園派祖の真実院大瀛師と石泉轍祖の勝解院僧叡師です。
    大瀛師の高弟が、無自性仏性説の道振や、道命、普厳や、龍華派祖の雲龍師
 筑前派祖 大同師1731−1786真宗律とよばれる。
  また、大同師の弟子の遍照院大乗師の弟子が宝雲師と圓成院南渓師です。

 豊前派祖 東陽円月1818−1902(師は筑前派の宝雲)

圓成院南渓1790−1868江戸時代後期の僧。
寛政2年生まれ。文政2年豊後(ぶんご)(大分県)の浄土真宗本願寺派満福寺の住職となる。神道(しんとう)家や儒者の排仏論に反論し,中井積善の「草茅(そうぼう)危言」に対しては「角毛偶語」をあらわした。弟子に七里恒順。

五大学派は

1空華派、明教院僧鎔
2石泉派、勝解院僧叡
3豊前派、東陽円月
4龍華派、雲龍
5芿園派、真実院大瀛

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南無阿弥陀仏福祉54

●白道領解 その81 2011.4.11

なむあみだぶつ。如来様があり、そのお慈悲ありてこそ、本願名号、南無阿弥陀仏はある。その、われにまかせよ、かならずたすけるを受け取って、真実信心となる。その後は、願力の不思議の自然として、仏恩報謝の称名念仏を中心に、お聴聞とお取次ぎはある。報恩の同類善根として、五種正行のうちの前三後一(読誦、礼拝、観察、讃嘆供養)また五念門(礼拝、讃嘆、作願、観察、回向)はある。報恩の異類の善根もある。なむあみだぶつ。

●白道領解 その82 2011.7.17

なむあみだぶつ。浄土真宗においては、信前も、信一念も、信後も、いうまでもないことではあるが、阿弥陀如来の勅命、なむあみだぶつが、中心点である。これをのけては、はじめも、おわりも、極要もない。行信論においても、助正論においても、称名中心でなく、信心中心でなく、誓名中心の、約仏の釈が、もっともありがたいのである。約生の釈は、どうしても、行者の、われをたのみ、われではからう弊害が混入しやすいきらいがある。弘誓においては、如来大悲の勅命が中心点、それが信となり、それが、あくまでも、仏恩報謝の称名、南無阿弥陀仏となるのである。なむあみだぶつ。

●白道領解 その83 2011.7.17

なむあみだぶつ。われらは、六拍子そろった愚か者と言える。その六拍子とは、邪見、憍慢、弊、悪、懈怠、下劣である。大経には憍慢、弊、懈怠とある。如来会には懈怠、邪見、下劣とある。平等覚経には、悪憍慢と弊と懈怠とある。正信偈には、邪見、憍慢、悪衆生とある。とても、自己が、正見で、謙遜で、柔軟で、善で、精進で、上品な生き方をする者とは思えない。しかし、そのような生き方をせしめる働きが六字の中にあることは確かである。なむあみだぶつ。

●白道領解 その84 2011.7.17

なむあみだぶつ。実成院仰誓和上は、すすめよぶ、声を力に、たどるなり、波も炎も、さもあらばあれ、と詠んでおられるそうである。実に力強い歌であるが、その力強さは、名号願力から来るのである。そのためには謙遜でなくてはならない。大智度論には、雨の山頂に止まらずして必ず低き所に帰するが如く、若し人、憍心あって、自ら高うすれば、即ち法水入らず、とあるそうである。よくよく生涯気をつけたいものである。なむあみだぶつ。

●白道領解 その85 2011.7.17

なむあみだぶつ。陳善院僧樸和上は、今日のわれらは行住坐臥に余念もなき牛馬に同じき身なり、心の中に何を思ふぞなれば、唯淫佚を念じ、煩悩胸中に満ち満ち、愛欲交乱して座起安からざるの凡夫、なかなか広大勝解というべき身にあらず、祖師は一念の信を広大無碍の一心とのたまう、凡夫の浅ましき者、如来の弘誓願を聞信したところ、仏のかたよりみたまえば、煩悩即菩提、生死即涅槃の証りを開かせて頂く広大勝解のものなり、と教えて下さっている。なんと、その通りであります。なむあみだぶつ。

●白道領解 その86 2011.7.17

なむあみだぶつ。三世因果の理法を信ぜねば、仏教ではない。自利利他円満の仏を信ぜねば、大乗ではない。その仏は中道実相の悟りを得たまえるが、我らは末代の凡愚なれば、およびがたし。三世因果の理法に合致し、自利利他円満の仏を信ずるに完全なるものは、浄土真宗なり。かるがゆえに、大乗無上の法なり。なむあみだぶつ。

●白道領解 その87 2011.10.29

なむあみだぶつ。無量の光は竪に三世を徹し、無辺の光は遍く十方を照らす。無碍の光は私一人のためであり、無対の光は迷いの因を破す。光炎王は迷いの果を破し、清浄なる光は貪りを無くさしめ、欲生の心を起こさしめる。歓喜の光は瞋りを無くさしめ、信楽せしめる。智慧の光は愚痴を無くさしめ、心をして至らしめる。不断の光は乃至十念であり、難思の光は往生せしめる。無称の光は成仏せしめ、日月に超える光は、諸仏が賛嘆して尽きることがない。なむあみだぶつ。

●白道領解 その88 2011.10.29

なむあみだぶつ。華厳経には、奇なるかな、一切の衆生、如来の智慧徳相を具する。法華経には、草木国土、悉く皆成仏す。…ああ、これらは、阿弥陀の救いのもしなかりせば、いかんして言うことを得ん。成就することを得ん。なむあみだぶつ。

●白道領解 その89 2011.10.29

なむあみだぶつ。般若経には、若し菩薩摩訶薩、布施を行ずる時、三輪清浄ならん。一には我は施者の為れりと執せず。二には彼は受者と為れりと執せず。三には施及び施果に著せず。是を菩薩摩訶薩、布施を行ずる時、三輪清浄なりと為す。…ああ、このことは、末代の凡夫、いかがして為すことを得んや。還相回向の、大菩薩摩訶薩のみ、これをよく行ずることを得ん。またさらに云えば、法蔵菩薩なり。なむあみだぶつ。

●白道領解 その90 2011.10.29

なむあみだぶつ。その昔、曇鸞大師は、苦労して手に入れた仙経、これは衆焦儀の十巻、惜しげも無く焼き、すぐさま浄土の教えに深く帰入せり。これは、難の中の難にして、仏願力によらば、易の中の易なり。かるがゆえに、先哲某曰く、信心難きにあらず、人もってこれを難ず、直下に領会すれば、何の難きことかこれあらん。なむあみだぶつ。

●白道領解 その91 2011.10.29

なむあみだぶつ。大経下巻に五難あり。…’〕茲龍柔い肪佑劼たく、見たてまつること難し。⊇仏の経道、得がたく聞きがたし。J郢Г両) ⊇波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。ち叡亮韻剖ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。イ發靴海侶个鯤垢て信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。…以上であるが、〜い論讃瑤膨未検↓イ肋土教、ことに弘願の信楽である。一切仏の本意、ここにありけり。なむあみだぶつ。

●白道領解 その92 2011.10.29

なむあみだぶつ。機受の全相は願文、機受の極要は成就文、これは18願に限らざるなり。11願しかり、17願しかり。かく心得えつれば、諸仏の本心、論と論註の実意、元祖の相承、高祖の慧眼、誤ることなし。畏るべし、尊むべし、仰ぐべし、信ずべし、有り難きというも、なお愚かなるべし。なむあみだぶつ。

●白道領解 その93 2011.10.29

なむあみだぶつ。一心これなんぞ。〔菊鵑覆襪ゆえに疑いなし∪谿譴覆襪ゆえに二仏ならべずL技┐覆襪ゆえにすなおなりな凡一体なるがゆえに危ぶみなし。法然聖人はこのこころを、身はここに、まだありながら、ごくらくの、聖衆のかずに、入るぞうれしき、と詠まれたり。親鸞聖人、不体失往生、現生入正定之聚、平生業成を高調せられたり。元高通底、明らかなるものなり。なむあみだぶつ。

●白道領解 その94 2011.10.29

なむあみだぶつ。源信和尚曰く、煩悩即菩提といふて魚を食うものはあるけれども、生死即涅槃といふて火の中へ飛び込むものがあるか。…これは造悪無碍を呵責せられたり。善導大師、往生礼讃に曰く、十方諸仏の国は、ことごとくこれ法王(弥陀)の家なり。…さすれば、この世界、この家、この私、弥陀に帰すべし、弥陀に帰すべし。従仏逍遙帰自然なり。いつもであるが、これからは特にである。草も木も、枯れたる野辺に、ただひとり、松のみ残る、弥陀の本願。なむあみだぶつ。

●白道領解 その95 2011.10.29

なむあみだぶつ。老子にこうあり。上士は道を聞いて勤めて之を行う。中士は道を聞いて存するが如く亡ずるが如し。下士は道を聞いて大いに之を笑ふ、笑はざれば以て道と為すに足らず。愚人は自らを賢者とせり。賢者は自らを愚人とせり。ただただ我が道を歩むべし、ただただ汝が道を歩むべし。退転することなかれ、退転せしむることなかれ。なむあみだぶつ。

●白道領解 その96 2011.10.29

なむあみだぶつ。興皇寺の法朗が弟子に、三論宗の大成者である嘉祥寺の吉蔵あり、また明勝法師あり。明勝法師の弟子に善導大師あり。されば、道綽禅師を師とせる善導大師、聖道門にも深く通ぜること明らかなり。これは七祖通じていえり。おぼろげに、あながちに、建てられたる法門にはあらざることなり。大精進の上に、弥陀願力の働きを感得せしめられたることなり。なむあみだぶつ。

●白道領解 その97 2011.10.30

なむあみだぶつ。法然聖人のお言葉に「生けらば念仏の功つもり、死ならば淨土へまいりなん。とてもかくてもこの身には、思いわずうことぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」(常に仰せられける御詞)というのがあります。この大安心のうちに生きさせてもらい、死なせてもらうことこそが、大果報、大福徳、大いなる幸せであろうと思われます。無論、ここでは、18願であり、自力無功と信知せしめられ、自利利他円満の仏にすべてを任せきって、仏恩報謝の人生です。なむあみだぶつ。

●白道領解 その98 2011.10.30

なむあみだぶつ。『選択集』は法然聖人の在世中は門外不出の書で、『私聚百因縁集』によれば、その付属を受けたのは幸西、聖光、隆寛、証空、長西、他一人の六人。他一人が親鸞聖人であろうか。親鸞聖人は生きている時は、一般的に無名にも関わらず、このように浄土真宗が繁盛しているということは、真実が真実と認められてきているからであろう。なむあみだぶつ。

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南無阿弥陀仏福祉53

●あそうぎについて 2011.3.31

あそうぎとは、10の56乗という。

3大あそうぎとは?

100大劫とは?

一劫は四億三千二百万年=432×10の6乗?

一劫は42億3000万年という説もある。

南無阿弥陀仏

ある説では、人の寿命84000歳の時、100年をすぐる毎に、寿1歳づつを減じ、かくのごとく相減じて人寿命10歳にして止まり、また100年をすぐる毎に、1歳づつを増し、かくのごとく相増して84000歳に至る間を1小劫と名付け、20小劫を1中劫と名付け、4中劫を1大劫と名付ける。

この説であると、

1小劫は83990×100×2年=1679万8000年
1中劫は1小劫の20倍=16798000×20=3億3596万年
1大劫は1中劫の4倍=33596万×4=13億4384万年となる。

インドの計算法では、
万の万倍=マダ
マダの万倍=大ナユタ
その万倍=大カウカツラ
その万倍=大アスバ
その万倍=大オンソカ
その万倍=大チチバ
その万倍=大カツラバ
その万倍=大サンマハツタン
その万倍=モチタラ
その万倍=サンニャ
その万倍=バツラサン
その万倍=アソウギ=無数劫(むすうごう)

これによると、あそうぎは、10の52乗となる。



江戸時代の文献『塵劫記』に見る大きな数

10の56乗 恒河沙 ごうがしゃ
10の64乗 阿僧祇 あそうぎ
10の72乗 那由他 なゆた
10の80乗 不可思議 ふかしぎ
10の88乗 無量大数 むりょうたいすう

これによると、あそうぎは10の64乗となる。

一 いち
十 じゅう 1乗
百 ひゃく 2乗
千 せん 3乗
万 まん 4乗
億 おく 8乗
兆 ちょう 12乗
京 けい 16乗
垓 がい 20乗
秭 じょ 24乗  
穣 じょう 28乗
溝 こう 32乗
澗 かん 36乗
正 せい 40乗
載 さい 44乗
極 ごく 48乗      
恒河沙 ごうがしゃ 52乗      
阿僧祗 あそうぎ 56乗      
那由他 なゆた 60乗
不可思議 ふかしぎ 64乗
無量大数 むりょうたいすう 68乗

これによると、あそうぎは10の56乗となる。

一番下の説で計算すると

劫には大劫(mahākalpa)と中劫(antarakalpa。中間劫、もしくは小劫とも訳される)の2種類がある。

大劫がヒンドゥー教の劫に当たり、単に「劫」といえばほとんどは大劫である。ただしヒンドゥー教と違い、具体的な長さは特に決められていない。

中劫とはその大劫を均等に80分割したものである。そのため、実際の長さははっきりしないものの、1大劫 = 80中劫である。

大乗仏教の論書である『大智度論』には「1辺40里(現代中国の換算比で20km。漢訳時も大きくは違わない)の岩を3年に1度(100年に1度という説もある)、天女が舞い降りて羽衣でなで、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話が載っているが、これはあくまで比喩であって定義ではない(他にも芥子粒のたとえなどがある)。

劫(こう)という時間の単位がある。「永劫」の「劫」である。160km四方の巨大な升に芥子粒を満たし、100年に1粒ずつ取り出して、全てなくなる時間を「芥子劫」という。また、160四方の巨大な石を100年に1回ずつ薄い布でさっと拭いた時、摩耗して石がなくなってしまう時間を「盤石劫」という。この芥子劫も盤石劫も、本来の劫よりも短いとされる。

芥子粒は径 0.5mm に満たない微細な種子であるが、芥子粒径0.5mm として、ぎっしりつまっているとすると、

1小劫=388×10の21乗年となり、

1大劫=80×388×10の21乗年

5小劫=5×388×10の21乗年

10小劫=10×388×10の21乗年

100大劫=100×80×388×10の21乗年

1阿僧祇小劫=1×10の56乗×388×10の21乗年

3阿僧祇小劫=3×10の56乗×388×10の21乗年

3阿僧祇100大劫=(3×10の56乗+8000)×388×10の21乗年

不可思議、兆、載、永、小劫とは、10の68乗×10の12乗×10の44乗×∞×388×10の21乗年

南無阿弥陀仏

●ある人によると。2011.4.8

深川倫雄師
加茂仰順師
梯 實圓師
紅楳英顕師
の著書はお薦めだそうです。南無阿弥陀仏。

●雑修の十三失の検討 2011.4.8

善導大師は、未信の行者の欠点を十三に分けて教えておれらます。

親鸞聖人は、十三失の始めの九つを十九願の人の欠点、後の四つを二十願の人の欠点とされます。

…もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百の時に希に一二を得、千の時に希に五三を得。

なにをもつてのゆゑに。

1雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに。
2仏の本願と相応せざるがゆゑに。
3教と相違するがゆゑに。
4仏語に順ぜざるがゆゑに。
5係念相続せざるがゆゑに。
6憶想間断するがゆゑに。
7回願慇重真実ならざるがゆゑに。
8貪・瞋・諸見の煩悩来りて間断するがゆゑに。
9慚愧・悔過あることなきがゆゑに。

10また相続してかの仏の恩を報ぜんと念はざるがゆゑに。
11心に軽慢を生じて、業行をなすといへどもつねに名利と相応するがゆゑに。
12人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに。
13楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。(往生礼讃)

…19願の人は、雑縁により乱れ動かされ、正しい念を失い、仏の本願(18願)と相応せず、教えに相違し、仏語に順ぜず、係念相続せず、憶想が間断し、回願が慇重真実でなく、三毒に間断され、慚愧・悔過がない。

…20願の人は、仏恩を相続して、念じ報ぜんとせず、心に軽い慢心生じ、業行するとも、名利を求めする。人も我もおのずからに邪魔することになり、真の同行、真の善知識に親しみ近づかず、自ら喜んで雑縁に近づいて、往生の正行を自障障他する。

…18願の人は、雑縁により乱され動かされることなく、正念を失わず、仏の本願と相応し、教えに相違せず、仏語に順じ、係念相続し、憶想が間断せず、回願が慇重真実であり、三毒にも間断されず、慚愧・悔過あり、

仏恩を相続して、念じ報ぜんとし、心に軽い慢心を生せず、業行するとも、名利を求めず、人も我もおのずからに邪魔せず、真の同行、真の善知識に親しみ近づき、自ら喜んで雑縁に近づかず、往生の正行を自障障他せず。

南無阿弥陀仏

●浄土真宗における報恩仏学の現場実践 2011.4.10

教学なき現場、現場なき教学という。

教学には、伝統教学、近代教学、現代教学がある。

この推移には、キリスト教世界の、神学、哲学、政治学、社会学、経済学、社会運動からの影響がある。

浄土真宗における報恩仏学の現場実践というものを、私は考える。

ゆるがせにできないものとして、第一原理から、第六原理を置く。

まず、第一原理として、阿弥陀如来の大慈悲がある。
第二原理として、本願名号がある。
第三原理として、真実信心獲得がある。
第四原理として、報恩の称名念仏がある。
第五原理として、報恩の同類の善根がある。
第六原理として、報恩の異類の善根がある。
第一〜第三原理を基盤とし、前提として、第四〜第六原理を開き、実践していくところに、浄土真宗における報恩仏学の現場実践がある。これは、仏願力の不思議、仏願力の自然を離れたものではありえない。

第五原理の、報恩の同類の善根とは、

…以垢任△蝓△取り次ぎである。
五種正行の前三後一(読誦、礼拝、観察、讃嘆供養)である。
8淒位腓蓮⇔蘿辧∋消押∈邊蝓観察、回向である。これは、一心が流出のものである。

 銑は、カテゴライズ(領域分け)の違いに過ぎない。

第六原理の、報恩の異類の善根とは、

報恩の称名念仏、報恩の同類の善根以外のすべての善である。

南無阿弥陀仏

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