久遠実成阿弥陀福祉会ブログ!善導,法然,親鸞,蓮如の南無阿弥陀仏

弱く、愚かで、罪深い者ほど、大事にすべきである。それがまことの親のこころである。南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏について。

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●十干 2011.5.13

甲 こう きのえ 木の兄 jiǎ giáp
乙 おつ きのと 木の弟 yǐ ất
丙 へい ひのえ 火の兄 bǐng bính
丁 てい ひのと 火の弟 dīng đinh
戊 ぼ つちのえ 土の兄 wù mậu
己 き つちのと 土の弟 jǐ kỷ
庚 こう かのえ 金の兄 gēng canh
辛 しん かのと 金の弟 xīn tân
壬 じん みずのえ 水の兄 rén nhâm
癸 き みずのと 水の弟 guǐ quý

●岩本月洲 2011.5.15

岩本月洲 という方の作られた詩です。

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常に居(い)ますを仏という

此処(ここ)に居ますを仏という

共に居ますを仏という

この仏を南無阿弥陀仏という

このいわれを聞いて歓ぶを信心という

称(とな)えて喜ぶを念仏という

●学派について 2011.7.16

江戸末期以来、本願寺教学の流れに石泉(せきせん)と空華(くうげ)の二大学派(ほかに豊前、播南、石州、竜華など)があるという。

違いがよくわからない。

南無阿弥陀仏

播南轍の祖は智暹(ちせん)1702-1768年。兵庫県印南郡魚崎の真浄寺(本願寺派)の住職。若霖(「じゃくりん」本願寺派第3代の能化)門下の秀才。明和元年(1764)に『真宗本尊義』を著述してこれを翌年の6月に刊行し、明和4年(1767)に功存率いる学林を相手に争論(明和の法論)を起こしました。

法雷轍(断鎧→瓜生津隆英→桂利劔→稲垣瑞劔)。

陳善院僧樸師は第四代能化・演暢院法霖(日渓法霖)から学びました。
44年間の短い生涯でしたが、僧樸門下からはいろいろな学轍が生れています。

 空華轍祖 明教院僧鎔師
 石州派祖 実成院仰誓師(『妙好人伝』などの作者)
     仰誓師の子が履善師、履善師の弟子が大厳師
 芸州派祖 深諦院慧雲師
  また、慧雲師の弟子が芿園派祖の真実院大瀛師と石泉轍祖の勝解院僧叡師です。
    大瀛師の高弟が、無自性仏性説の道振や、道命、普厳や、龍華派祖の雲龍師
 筑前派祖 大同師1731−1786真宗律とよばれる。
  また、大同師の弟子の遍照院大乗師の弟子が宝雲師と圓成院南渓師です。

 豊前派祖 東陽円月1818−1902(師は筑前派の宝雲)

圓成院南渓1790−1868江戸時代後期の僧。
寛政2年生まれ。文政2年豊後(ぶんご)(大分県)の浄土真宗本願寺派満福寺の住職となる。神道(しんとう)家や儒者の排仏論に反論し,中井積善の「草茅(そうぼう)危言」に対しては「角毛偶語」をあらわした。弟子に七里恒順。

五大学派は

1空華派、明教院僧鎔
2石泉派、勝解院僧叡
3豊前派、東陽円月
4龍華派、雲龍
5芿園派、真実院大瀛

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●愚禿抄についての疑問 2011.2.24

浄土真宗聖典(第二版)

P501、P516

賢者 よきひと。総じては七高僧に通じ、別しては法然上人を指す。

賢者とは、明恵上人、あるいは、聖道門、あるいは19願門、20願門では?

P540、P541

内外対 内心と外相とが相応しない不真実のありさま。

内発と外発ではないか。内から発するものは自力、外から発するものは他力ではないか?

難=三業修善不真実の心=毒=善悪雑心=内=自力=自利の三心

易=如来願力回向の心=薬=純一専心=外=他力=利他の三信

内は退… 内心はたじろいていながら、外相には白道を進むふりをしている。

内より発する自力の信は退くものであり、外より発する他力の信は進むものである、ではないか?

内は遠… 内心は阿弥陀仏から遠ざかりながら、外相には近づいているような姿を示している。

内より発する自力の信は遠ざかるものであり、外より発する他力の信は近づくものである、ではないか?

内は違… 内心は教えに違いながら、外相では随順しているふりをする。

内より発する自力の信は教えに違い、外より発する他力の信は教えに随順するものである、ではないか?

内は間断… 内心では信心が持続していないのに、外には持続の姿を示す。

内より発する自力の信は間断し、外より発する他力の信は無間である、ではないか?

存覚上人の愚禿抄に対するご理解は、嘆徳文にうかがえる。

愚禿が心→愚禿が信となっている。

賢者の信は、碩才道人ということにならないか?

…聞きに衒わんことを痛み、

うーん、よくわからん…。

●横川法語 2011.2.24

今の浄土真宗採用のものは、『真宗教典誌』巻一には、宇治平等院に蔵する所の僧都の親畫自像の讃文であるといっている。361字。

まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。

 信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。

 またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。



別のものは、山本仏骨先生がご著書の中で採用しておられた。天台宗採用。ちょっと違う、なぜ?438字。

それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。

 信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。

 また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

平安時代の法語集。源信著。全491字。妄念をいとわず念仏することを勧め、凡夫の往生を強調したもの。念仏法語。上か下か?おそらくは下。

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2006.3.1(水)一味702号を読む。南無阿弥陀仏。安心決定抄を読む。南無阿弥陀仏。

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以下コピー。南無阿弥陀仏。
六、真実なき者をどう救うのか  
 さて、「真実なき人間をどうして真実なるもの(仏)にするか」これが大問題であります。 
 真実なき者に「真実たれ」と要求しても無理です。無一文どころか大きな借金を抱えている者に大金を用意せよと求めるようなものです。 
 人間を真実なき者と見た法蔵菩薩は、何一つ「真実なれ」と我々に要求せず、しかもその真実に背く我らの心、穢悪汚染の心を受け取って、これを浄化すべく永劫の修行に立ち上がられたのです。真っ黒によごれた洗濯物を受け取って、汚れを完全に落として真っ白にするように、私どもの濁悪を受け取ってこれを全く浄化しようとして、法蔵菩薩は永劫の御修行をされたのであります。この法蔵菩薩のご苦労こそ、仏因なき私どもに仏因を与えんがためでありました。 
 そして一切衆生を仏に成す徳を実現し、これを私にどもに南無阿弥陀仏として与えようとしておられるのであります。そこのところを先ほどの至心釈の続きに
「一切の群生海ーーー虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫(ひみん)して、不可思議兆載(ちょうさい)永劫において、菩薩の行を行じたまいしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまえり」と述べられています。
大意(我らは仏になれるような清浄な心も行いも真実の心も行いもできずに苦悩の世界にいつまでも沈み込んでいる。それを法蔵菩薩はあわれんで、我らを仏にするために清浄で真実な菩薩の行を永劫にわたって励まれ、一切衆生を浄土に生まれしめて仏に成す功徳を成就された)といわれています。そしてこの功徳を、至心釈の続きに「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施(えせ)したまへり」 と述べられています。我らを仏にする功徳を私どもに与えてくださるのであります。 
 どのように与えてくださるかというと「これ至徳の尊号をその体とせるなり」と。南無阿弥陀仏の名号として与えてくださるのであります。 この至心釈が表そうとする真実は、私の凡智では容易にうかがえない、極めて驚くべきまことであります。 松並さんの歌に  
 親は子に 身も世もかけし 賜を あらしの夜半に ねながらに聞く
とあります。名号は如来の「身も世もかけし賜」であります。すなわち恩徳であります。この恩徳を私に与えて下さるのです。嵐の夜半のような動乱の人生のただ中に聞くのです。名号を聞くままがいただくことになります。念仏を聞くばかりでとは、まことに安くしあげてくださった名号です。行住坐臥いつでもここで手ぶらで賜るご恩であす。まことに「寝ながらに聞く」のであります。 
七、我が名を称えよの勅命  
 法蔵菩薩は、
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」
と誓われました。(もし私が仏になるときに、あらゆる方角の生きとし生けるものが、私の名南無阿弥陀仏を、たった十辺でも称えるものを、もし浄土に生まれさせることができないようなら、私は仏の悟りを完成しない)。 
 ここに、一切衆生を浄土に生まれさせる道として、「称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(我が名号を称えること、下十声に至るまで、もし生まれずば正覚を取らじ)と誓われたのでした。いわば「ただ念仏申す者を必ず浄土に生まれさせる、もしそれができないようならこの法蔵自身が仏にはならない」とのお誓いです。「我が名を称えよ、必ず救う」の誓いなのです。 
 この誓いの言葉の中に、さきほどの至心釈の真実が凝縮されています。「我が名を称えよ」とは、私ども凡夫にチリばかりの清浄真実を求められないのです。なぜなら私どもに清浄真実はないからです。私に真実の慈悲心も慈悲行も要求されません。偽りなき言葉も行いも求められないのです。貪欲を捨てることも怒りを離れることも、ねたみ心を取ることも、惜しみ心を離れることも私の救いのために課せられないのです。また真実の信心を起こすことも、純粋な求道の心を持つことも、真剣でまじめな祈りの心も、深い道理を理解することも、難しい経文を理解することも、求められないのです。 
 私が浄土に生まれるための行は法蔵菩薩の肩に担いたまいました。なぜなら私には真実の心も行いもなしえないのです。少しはできたとしても「仮」であって、一時的な不純なものでしかありません。 
 凡夫を仏にする仕事はすべて法蔵菩薩の仕事としたまいました。その上で「我が名を称えよ」によって、無条件でまるまる救うというお心を表されたのです。ですから「我が名を称えよ必ず救う」は「我にまかせよ、必ず救う」と同意であります。法然聖人が親鸞聖人に「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と仰せられたのは、この若我の本願の思し召しを申されたのであります。「我が名を称えよ」の阿弥陀仏の仰せは「いずれの行もおよびがたき無知無能の罪悪の衆生ゆえ、ただ念仏のほかに救いなし」を知らしめるものであります。この本願の思し召しの中に、仏に見られた人間の本質、その人間を救う大悲の救いが込められています。「我が名を称えよ」との弥陀の仰せは「それほどまでに無条件に助けられねば助からぬ我が身である」といよいよ自分の無知無能・虚仮不実を知らせて下さるのであり、また知らされればこそ私の全分を受け取りたもう「我が名を称えよ」の仰せが無上に有り難いのであります。(了)

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以下はコピー。南無阿弥陀仏。「真宗聖典講座」
『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり』(歎異鈔第二章)〈 第二講 〉  
一、若我の本願  
 前回には、よき人の仰せとは阿弥陀仏の本願の内容であり、この場合の本願とは弥陀の四十八願の中の第十八願であることをもうしました。   この第十八願を、観無量寿経の教説と真摯なる念仏生活において身読して、「若我の本願」として表したのが、他ならぬ善導大師だったのです。 大師の著『往生礼讃』には第十八願の思し召しを
「若し我れ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(若我の本願)とし、続けて「かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得」と表されました。  
 この文は「よき人」法然聖人に甚大な影響を与えました。法然聖人の一生はこのご文を了解し、この文の心を説かれた一生であったともいえましょう。ここで親鸞聖人が「よき人の仰せ」の内容とは、まさにこの善導大師のご文の思し召しにほかなりません。余談になりますが、この若我の本願は法然聖人の主著「選択集」の根幹でありますし、また親鸞聖人の主著「教行証文類」の総しめくくりの後序に、若我の本願が法然聖人からたまわった浄土(真)宗の眼目の言葉として置かれています。こうした伝統を受け継いでいる歎異鈔はこの本願を核としているように思います。 
 なお法然聖人は、若我の本願文について「この文を常に口にもとなえ、心にもうかべ、眼にもあてよ。ーーーこの文は四十八願の眼なり、肝なり、神なり」(ある人に示しての詞)と仰せられています。 
二、本願の起こってきたいわれ  
 では若我の本願がどうしてそれほど重大な言葉なのでしょうか。この文の深きほどを探ることは愚鈍な私の及ぶところではありませんが、先人の導きによってできるだけうかがってみたいと思います。 
 無量寿経によりますと、阿弥陀仏は因位の時、法蔵菩薩として現れ、極めて弘い誓いを起こされました。それは生きとし生けるものを救済して仏陀たらしめたいという願いであります。それを本願といいます。本とはもとということです。阿弥陀仏はもと法蔵菩薩の時に願いを起こされたから本願というのです。さて、すべてのものを仏たらしめる道をどう実現するかを五劫という長い間お考えになり、衆生を浄土に往生せしめて仏陀たらしめようとされました。そして、どのようにして万人を浄土に生まれさせることができるかを思案されたのです。そしてその道が見つかり、それを四十八願として表現され、なかんづく第十八番目の願に、まさに一切衆生の浄土往生を実現する道を示されました。それが第十八願であります。なお第十八願を四十八願の根本の願という意味で本願というのだともいわれます。 
 「いかにしてすべての人を救うか」これは人類永遠の課題であります。多くの聖者や賢人や宗教家や思想家などがこの問題に思案を巡らしたことでしょう。しかし、そのすべては人の頭の中で考えただけの単なる理想でしかなかったのです。 それが単なる願望にとどまらず、実際に万人救済を実現する力としてはたらく、それを法蔵菩薩は思案し、その道を見いだし、現実の力とされました。それが阿弥陀仏の「本願力」なのです。 
三、人間の本質  
 さて、人を救うには「人の本質」を法蔵菩薩は知り尽くさなければなりません。 
 法蔵菩薩の人間観察については、「教行証文類」の「信の巻」(三一問答)に示されているといえましょう。「信の巻」の至心釈には
「一切群生海、無始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪(えあく)汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」
と述べられています。すなわち、
大意(いつの時も、人の心は悪に汚れきって清らかな心はなく、むなしく、かりそめであり、へつらいやいつわりばかりでまことの心はさらにないのである)
と言われています。つぎに信楽釈(しんぎょうしゃく)には
「一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾(ほうに)として真実の信楽なし」
と言われます。すなわち、大意(一切の凡夫は、ながながと迷いの海に沈みきり、苦しみの世界につながれていて、まことの信心がなく、また真の信心があるはずもないものである)と。
欲生釈には「微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし」 と説かれています。すなわち、
大意(一切の衆生は、煩悩の海の中で、いつまでも生まれ変わり死に変わりしていて、真実の世界に至りたいと純粋に願い求める心がない)と。  
 人間の心には真実の心はなく真実の信心はなく、真実を願い求める純粋な心がない、ということになるのでしょう。これほどまでに徹底的に人間を否定した言葉はないと思います。 
如来のおん眼に浮かんだ人間を、善導大師は「曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなき身」である、ともうされてます。宗祖はご自身を「底下の凡愚となれる身」ともうされ、我ら凡夫は真っ暗な深い海の底に沈んでいる石のような存在であると教えられます。 
四、人間の底の底まで降りて救う大悲あり  
 このような徹底した人間の否定の思想は近世にも現代にもないのではないでしょうか。それゆえ、こうした言葉を聞いて疑いを感じる人もあるでしょうし。あるいは反発を抱く人があるかもしれません。 
 しかし、このような人間観察を底の底まで徹底した上で、そうした一切の衆生を救おうと大悲し、立ち上がってくださった法蔵菩薩。そして一切衆生を救う能力を完成された阿弥陀仏なればこそ、私がたとえ地獄の底に落ちてもなお救いのましますこと。どんなに私が堕落し、落ちるところまで落ちても阿弥陀仏の救いは、なお私の即下に用意されていることを感じないわけにはいかないのです。ここに無窮の大悲を感じるのです。 
五、宗教の違いは人間観の違いに表れる  
 世界にはいろいろな宗教があり、それぞれに「救済」が説かれています。そうした宗教の違い、救済の違いはどこからくるかと言えば、それぞれの宗教が「人間というものをどう見ているか」の違いからくるともいえましょう。 
 法蔵菩薩は「人間に真実はない」「虚仮不実の存在」と見通したのです。真宗の教えの基礎にあるこの人間観は、人間の反省によって知られるものではないでしょう。それは仏のさとりの智慧の眼によって洞察せられたものであります。それゆえ「私はいったいどんな者か」を知ろうと思えば、自分の心を自分で眺めて知られるものではなく、仏の智慧によって教えられる仏の言葉を聞くことによって自分の本質が知られてくるのでありましょう。 

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