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			<title>久遠実成阿弥陀福祉会ブログ！善導,法然,親鸞,蓮如の南無阿弥陀仏</title>
			<description>久遠実成阿弥陀福祉会公式ブログです。浄土真宗の南無阿弥陀仏を中心にした会です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>久遠実成阿弥陀福祉会ブログ！善導,法然,親鸞,蓮如の南無阿弥陀仏</title>
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			<description>久遠実成阿弥陀福祉会公式ブログです。浄土真宗の南無阿弥陀仏を中心にした会です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450</link>
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		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉５５</title>
			<description>願力念仏詩　２０１１．１０．２９　釈白道&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
末期の眼にて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一期を生きる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全て愛しく&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全て厭わしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宿善喜び&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宿業哀れ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
衆生所以興出世&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唯聞弥陀本願海。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無辺極濁悪の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一生造悪誰ぞ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極重悪人は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我なると弥陀は信知せしめたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二百一十億の諸仏国土をば&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五劫があいだ思惟なされ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不可思議兆載永劫があいだ六波羅蜜修行なされ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
十劫前の正覚は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
往生成仏の正因を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏と成就せり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本願名号のひとりばたらきに、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
行者の聞功なく、信功なく、称功なく、説功なく、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弥陀に、われを救いたまえる大手柄ありけり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
摂取不捨をあおぐばかりなり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唯名、唯聞、唯信、唯称、報仏恩。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿弥陀仏は、阿弥陀仏のみならずして、わがために、南無をこしらえ、与えたもう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絶対他力が純他力&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
願力不思議の仏智不思議。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一切仏が一仏で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一仏の化益するところ、一名号に極まれり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
獲得名号が自然法爾なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自力において難中難&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名号願力易中の易。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極悪短命のこの機ざまには&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
難行自力の聖道門入れられず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このわれにこそ、現当の二利益は授けらるる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自他不二の大慈悲心は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
至心廻向したまえるなり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
往還の二廻向は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六字のうちにこもりたりとこそ、知るべし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光明と名号は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
因縁を顕して&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一念発起せしめ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真実信を獲得せしめるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名体不二が名体不離で、能所不二が能所不離なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親のつかいに親がきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六字になりて六字がきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
離れていないが、離れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
離れているが、離れていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親が六字で六字が親で&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親が子となりゃ子が親となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親の名告りで親子なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
弥陀釈迦諸仏が師なり親なり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
真の仏弟子、真仏子。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おさめたり。もののにぐるをおわえとる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よりたのませ、よりかからせるなり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
むかえとりて、まもり、たすけたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すてず、すくいたり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
われをたのめ、われにまかせよ、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かならずおちるなんじを、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かならずおさめ、たすけ、すくうぞとの、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
勅命先手を領受するばかりなり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62926517.html</link>
			<pubDate>Sat, 29 Oct 2011 23:55:18 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>（PART１２）白道歌１１０１．～１１０２．</title>
			<description>１１０１．聞き語れ、無常の風に、有り難き、生死出づべき、南無阿弥陀仏。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１１０２．真信を、決定ののち、報恩が、元祖高祖の、南無阿弥陀仏。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上は２０１１．１０．２９</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62925949.html</link>
			<pubDate>Sat, 29 Oct 2011 21:48:08 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏について２９</title>
			<description>●十干　２０１１．５．１３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
甲 こう きのえ 木の兄 ji&amp;#462; gi&amp;aacute;p &lt;br /&gt;
乙 おつ きのと 木の弟 y&amp;#464; &amp;#7845;t &lt;br /&gt;
丙 へい ひのえ 火の兄 b&amp;#464;ng b&amp;iacute;nh &lt;br /&gt;
丁 てい ひのと 火の弟 d&amp;#299;ng &amp;#273;inh &lt;br /&gt;
戊 ぼ つちのえ 土の兄 w&amp;ugrave; m&amp;#7853;u &lt;br /&gt;
己 き つちのと 土の弟 j&amp;#464; k&amp;#7927; &lt;br /&gt;
庚 こう かのえ 金の兄 g&amp;#275;ng canh &lt;br /&gt;
辛 しん かのと 金の弟 x&amp;#299;n t&amp;acirc;n &lt;br /&gt;
壬 じん みずのえ 水の兄 r&amp;eacute;n nh&amp;acirc;m &lt;br /&gt;
癸 き みずのと 水の弟 gu&amp;#464; qu&amp;yacute;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●岩本月洲　２０１１．５．１５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩本月洲　という方の作られた詩です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
---------------------------------&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
常に居（い）ますを仏という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
此処（ここ）に居ますを仏という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
共に居ますを仏という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この仏を南無阿弥陀仏という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このいわれを聞いて歓ぶを信心という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
称（とな）えて喜ぶを念仏という&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●学派について　２０１１．７．１６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸末期以来、本願寺教学の流れに石泉（せきせん）と空華（くうげ）の二大学派（ほかに豊前、播南、石州、竜華など）があるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
違いがよくわからない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
播南轍の祖は智暹（ちせん）1702-1768年。兵庫県印南郡魚崎の真浄寺（本願寺派）の住職。若霖（「じゃくりん」本願寺派第３代の能化）門下の秀才。明和元年（1764）に『真宗本尊義』を著述してこれを翌年の６月に刊行し、明和４年（1767）に功存率いる学林を相手に争論（明和の法論）を起こしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法雷轍（断鎧→瓜生津隆英→桂利劔→稲垣瑞劔）。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陳善院僧樸師は第四代能化・演暢院法霖（日渓法霖）から学びました。&lt;br /&gt;
４４年間の短い生涯でしたが、僧樸門下からはいろいろな学轍が生れています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　空華轍祖　明教院僧鎔師&lt;br /&gt;
　石州派祖　実成院仰誓師（『妙好人伝』などの作者）&lt;br /&gt;
　　　　　仰誓師の子が履善師、履善師の弟子が大厳師&lt;br /&gt;
　芸州派祖　深諦院慧雲師&lt;br /&gt;
　　また、慧雲師の弟子が&amp;#33471;園派祖の真実院大瀛師と石泉轍祖の勝解院僧叡師です。&lt;br /&gt;
　　　　大瀛師の高弟が、無自性仏性説の道振や、道命、普厳や、龍華派祖の雲龍師&lt;br /&gt;
　筑前派祖　大同師1731－1786真宗律とよばれる。&lt;br /&gt;
　　また、大同師の弟子の遍照院大乗師の弟子が宝雲師と圓成院南渓師です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　豊前派祖　東陽円月1818－1902（師は筑前派の宝雲）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
圓成院南渓1790－1868江戸時代後期の僧。&lt;br /&gt;
寛政2年生まれ。文政2年豊後(ぶんご)(大分県)の浄土真宗本願寺派満福寺の住職となる。神道(しんとう)家や儒者の排仏論に反論し,中井積善の「草茅(そうぼう)危言」に対しては「角毛偶語」をあらわした。弟子に七里恒順。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五大学派は&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１空華派、明教院僧鎔&lt;br /&gt;
２石泉派、勝解院僧叡&lt;br /&gt;
３豊前派、東陽円月&lt;br /&gt;
４龍華派、雲龍&lt;br /&gt;
５&amp;#33471;園派、真実院大瀛&lt;br /&gt;
？</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62448410.html</link>
			<pubDate>Fri, 13 May 2011 23:52:52 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉５４</title>
			<description>●白道領解　その８１　２０１１．４．１１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。如来様があり、そのお慈悲ありてこそ、本願名号、南無阿弥陀仏はある。その、われにまかせよ、かならずたすけるを受け取って、真実信心となる。その後は、願力の不思議の自然として、仏恩報謝の称名念仏を中心に、お聴聞とお取次ぎはある。報恩の同類善根として、五種正行のうちの前三後一（読誦、礼拝、観察、讃嘆供養）また五念門（礼拝、讃嘆、作願、観察、回向）はある。報恩の異類の善根もある。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８２　２０１１．７．１７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗においては、信前も、信一念も、信後も、いうまでもないことではあるが、阿弥陀如来の勅命、なむあみだぶつが、中心点である。これをのけては、はじめも、おわりも、極要もない。行信論においても、助正論においても、称名中心でなく、信心中心でなく、誓名中心の、約仏の釈が、もっともありがたいのである。約生の釈は、どうしても、行者の、われをたのみ、われではからう弊害が混入しやすいきらいがある。弘誓においては、如来大悲の勅命が中心点、それが信となり、それが、あくまでも、仏恩報謝の称名、南無阿弥陀仏となるのである。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８３　２０１１．７．１７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。われらは、六拍子そろった愚か者と言える。その六拍子とは、邪見、&amp;#24973;慢、弊、悪、懈怠、下劣である。大経には&amp;#24973;慢、弊、懈怠とある。如来会には懈怠、邪見、下劣とある。平等覚経には、悪&amp;#24973;慢と弊と懈怠とある。正信偈には、邪見、&amp;#24973;慢、悪衆生とある。とても、自己が、正見で、謙遜で、柔軟で、善で、精進で、上品な生き方をする者とは思えない。しかし、そのような生き方をせしめる働きが六字の中にあることは確かである。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８４　２０１１．７．１７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。実成院仰誓和上は、すすめよぶ、声を力に、たどるなり、波も炎も、さもあらばあれ、と詠んでおられるそうである。実に力強い歌であるが、その力強さは、名号願力から来るのである。そのためには謙遜でなくてはならない。大智度論には、雨の山頂に止まらずして必ず低き所に帰するが如く、若し人、&amp;#24973;心あって、自ら高うすれば、即ち法水入らず、とあるそうである。よくよく生涯気をつけたいものである。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８５　２０１１．７．１７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。陳善院僧樸和上は、今日のわれらは行住坐臥に余念もなき牛馬に同じき身なり、心の中に何を思ふぞなれば、唯淫佚を念じ、煩悩胸中に満ち満ち、愛欲交乱して座起安からざるの凡夫、なかなか広大勝解というべき身にあらず、祖師は一念の信を広大無碍の一心とのたまう、凡夫の浅ましき者、如来の弘誓願を聞信したところ、仏のかたよりみたまえば、煩悩即菩提、生死即涅槃の証りを開かせて頂く広大勝解のものなり、と教えて下さっている。なんと、その通りであります。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８６　２０１１．７．１７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。三世因果の理法を信ぜねば、仏教ではない。自利利他円満の仏を信ぜねば、大乗ではない。その仏は中道実相の悟りを得たまえるが、我らは末代の凡愚なれば、およびがたし。三世因果の理法に合致し、自利利他円満の仏を信ずるに完全なるものは、浄土真宗なり。かるがゆえに、大乗無上の法なり。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８７　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。無量の光は竪に三世を徹し、無辺の光は遍く十方を照らす。無碍の光は私一人のためであり、無対の光は迷いの因を破す。光炎王は迷いの果を破し、清浄なる光は貪りを無くさしめ、欲生の心を起こさしめる。歓喜の光は瞋りを無くさしめ、信楽せしめる。智慧の光は愚痴を無くさしめ、心をして至らしめる。不断の光は乃至十念であり、難思の光は往生せしめる。無称の光は成仏せしめ、日月に超える光は、諸仏が賛嘆して尽きることがない。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８８　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。華厳経には、奇なるかな、一切の衆生、如来の智慧徳相を具する。法華経には、草木国土、悉く皆成仏す。…ああ、これらは、阿弥陀の救いのもしなかりせば、いかんして言うことを得ん。成就することを得ん。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８９　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。般若経には、若し菩薩摩訶薩、布施を行ずる時、三輪清浄ならん。一には我は施者の為れりと執せず。二には彼は受者と為れりと執せず。三には施及び施果に著せず。是を菩薩摩訶薩、布施を行ずる時、三輪清浄なりと為す。…ああ、このことは、末代の凡夫、いかがして為すことを得んや。還相回向の、大菩薩摩訶薩のみ、これをよく行ずることを得ん。またさらに云えば、法蔵菩薩なり。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９０　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。その昔、曇鸞大師は、苦労して手に入れた仙経、これは衆焦儀の十巻、惜しげも無く焼き、すぐさま浄土の教えに深く帰入せり。これは、難の中の難にして、仏願力によらば、易の中の易なり。かるがゆえに、先哲某曰く、信心難きにあらず、人もってこれを難ず、直下に領会すれば、何の難きことかこれあらん。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９１　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。大経下巻に五難あり。…’〕茲龍柔い肪佑劼たく、見たてまつること難し。⊇仏の経道、得がたく聞きがたし。Ｊ郢Г両）　⊇波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。ち叡亮韻剖辧∨，鯤垢、よく行ずること、これまた難しとす。イ發靴海侶个鯤垢て信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。…以上であるが、&amp;#12316;い論讃瑤膨未検↓イ肋土教、ことに弘願の信楽である。一切仏の本意、ここにありけり。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９２　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。機受の全相は願文、機受の極要は成就文、これは１８願に限らざるなり。１１願しかり、１７願しかり。かく心得えつれば、諸仏の本心、論と論註の実意、元祖の相承、高祖の慧眼、誤ることなし。畏るべし、尊むべし、仰ぐべし、信ずべし、有り難きというも、なお愚かなるべし。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９３　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。一心これなんぞ。〔菊鵑覆襪ゆえに疑いなし∪谿譴覆襪ゆえに二仏ならべずＬ技┐覆襪ゆえにすなおなりな凡一体なるがゆえに危ぶみなし。法然聖人はこのこころを、身はここに、まだありながら、ごくらくの、聖衆のかずに、入るぞうれしき、と詠まれたり。親鸞聖人、不体失往生、現生入正定之聚、平生業成を高調せられたり。元高通底、明らかなるものなり。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９４　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。源信和尚曰く、煩悩即菩提といふて魚を食うものはあるけれども、生死即涅槃といふて火の中へ飛び込むものがあるか。…これは造悪無碍を呵責せられたり。善導大師、往生礼讃に曰く、十方諸仏の国は、ことごとくこれ法王（弥陀）の家なり。…さすれば、この世界、この家、この私、弥陀に帰すべし、弥陀に帰すべし。従仏逍遙帰自然なり。いつもであるが、これからは特にである。草も木も、枯れたる野辺に、ただひとり、松のみ残る、弥陀の本願。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９５　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。老子にこうあり。上士は道を聞いて勤めて之を行う。中士は道を聞いて存するが如く亡ずるが如し。下士は道を聞いて大いに之を笑ふ、笑はざれば以て道と為すに足らず。愚人は自らを賢者とせり。賢者は自らを愚人とせり。ただただ我が道を歩むべし、ただただ汝が道を歩むべし。退転することなかれ、退転せしむることなかれ。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９６　２０１１．１０．２９&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。興皇寺の法朗が弟子に、三論宗の大成者である嘉祥寺の吉蔵あり、また明勝法師あり。明勝法師の弟子に善導大師あり。されば、道綽禅師を師とせる善導大師、聖道門にも深く通ぜること明らかなり。これは七祖通じていえり。おぼろげに、あながちに、建てられたる法門にはあらざることなり。大精進の上に、弥陀願力の働きを感得せしめられたることなり。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９７　２０１１．１０．３０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。法然聖人のお言葉に「生けらば念仏の功つもり、死ならば淨土へまいりなん。とてもかくてもこの身には、思いわずうことぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」（常に仰せられける御詞）というのがあります。この大安心のうちに生きさせてもらい、死なせてもらうことこそが、大果報、大福徳、大いなる幸せであろうと思われます。無論、ここでは、１８願であり、自力無功と信知せしめられ、自利利他円満の仏にすべてを任せきって、仏恩報謝の人生です。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その９８　２０１１．１０．３０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。『選択集』は法然聖人の在世中は門外不出の書で、『私聚百因縁集』によれば、その付属を受けたのは幸西、聖光、隆寛、証空、長西、他一人の六人。他一人が親鸞聖人であろうか。親鸞聖人は生きている時は、一般的に無名にも関わらず、このように浄土真宗が繁盛しているということは、真実が真実と認められてきているからであろう。なむあみだぶつ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62352310.html</link>
			<pubDate>Mon, 11 Apr 2011 00:07:41 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉５３</title>
			<description>●あそうぎについて　２０１１．３．３１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あそうぎとは、１０の５６乗という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３大あそうぎとは？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１００大劫とは？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一劫は四億三千二百万年＝４３２×１０の６乗？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一劫は４２億３０００万年という説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある説では、人の寿命８４０００歳の時、１００年をすぐる毎に、寿１歳づつを減じ、かくのごとく相減じて人寿命１０歳にして止まり、また１００年をすぐる毎に、１歳づつを増し、かくのごとく相増して８４０００歳に至る間を１小劫と名付け、２０小劫を１中劫と名付け、４中劫を１大劫と名付ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この説であると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１小劫は８３９９０×１００×２年＝１６７９万８０００年&lt;br /&gt;
１中劫は１小劫の２０倍＝１６７９８０００×２０＝３億３５９６万年&lt;br /&gt;
１大劫は１中劫の４倍＝３３５９６万×４＝１３億４３８４万年となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インドの計算法では、&lt;br /&gt;
万の万倍＝マダ&lt;br /&gt;
マダの万倍＝大ナユタ&lt;br /&gt;
その万倍＝大カウカツラ&lt;br /&gt;
その万倍＝大アスバ&lt;br /&gt;
その万倍＝大オンソカ&lt;br /&gt;
その万倍＝大チチバ&lt;br /&gt;
その万倍＝大カツラバ&lt;br /&gt;
その万倍＝大サンマハツタン&lt;br /&gt;
その万倍＝モチタラ&lt;br /&gt;
その万倍＝サンニャ&lt;br /&gt;
その万倍＝バツラサン&lt;br /&gt;
その万倍＝アソウギ＝無数劫（むすうごう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これによると、あそうぎは、１０の５２乗となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸時代の文献『塵劫記』に見る大きな数 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10の56乗 恒河沙   ごうがしゃ&lt;br /&gt;
10の64乗 阿僧祇   あそうぎ&lt;br /&gt;
10の72乗 那由他   なゆた&lt;br /&gt;
10の80乗 不可思議 ふかしぎ&lt;br /&gt;
10の88乗 無量大数 むりょうたいすう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これによると、あそうぎは１０の６４乗となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一 いち &lt;br /&gt;
十 じゅう 1乗&lt;br /&gt;
百 ひゃく 2乗&lt;br /&gt;
千 せん 3乗&lt;br /&gt;
万 まん 4乗&lt;br /&gt;
億 おく 8乗 &lt;br /&gt;
兆 ちょう 12乗 &lt;br /&gt;
京 けい 16乗&lt;br /&gt;
垓 がい 20乗&lt;br /&gt;
&amp;#31213; じょ 24乗　　&lt;br /&gt;
穣 じょう 28乗&lt;br /&gt;
溝 こう 32乗&lt;br /&gt;
澗 かん 36乗&lt;br /&gt;
正 せい 40乗&lt;br /&gt;
載 さい 44乗&lt;br /&gt;
極 ごく 48乗 　 　 　 &lt;br /&gt;
恒河沙 ごうがしゃ 52乗 　 　 　 &lt;br /&gt;
阿僧祗 あそうぎ 56乗 　 　 　 &lt;br /&gt;
那由他 なゆた 60乗&lt;br /&gt;
不可思議 ふかしぎ 64乗 &lt;br /&gt;
無量大数 むりょうたいすう 68乗&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これによると、あそうぎは１０の５６乗となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一番下の説で計算すると&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劫には大劫（mah&amp;#257;kalpa）と中劫（antarakalpa。中間劫、もしくは小劫とも訳される）の2種類がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大劫がヒンドゥー教の劫に当たり、単に「劫」といえばほとんどは大劫である。ただしヒンドゥー教と違い、具体的な長さは特に決められていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中劫とはその大劫を均等に80分割したものである。そのため、実際の長さははっきりしないものの、1大劫 = 80中劫である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大乗仏教の論書である『大智度論』には「1辺40里（現代中国の換算比で20km。漢訳時も大きくは違わない）の岩を3年に1度（100年に1度という説もある）、天女が舞い降りて羽衣でなで、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話が載っているが、これはあくまで比喩であって定義ではない（他にも芥子粒のたとえなどがある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劫（こう）という時間の単位がある。「永劫」の「劫」である。160km四方の巨大な升に芥子粒を満たし、100年に１粒ずつ取り出して、全てなくなる時間を「芥子劫」という。また、160四方の巨大な石を100年に１回ずつ薄い布でさっと拭いた時、摩耗して石がなくなってしまう時間を「盤石劫」という。この芥子劫も盤石劫も、本来の劫よりも短いとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
芥子粒は径 0.5mm に満たない微細な種子であるが、芥子粒径0.5mm として、ぎっしりつまっているとすると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１小劫＝３８８×１０の２１乗年となり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１大劫＝８０×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５小劫＝５×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１０小劫＝１０×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１００大劫＝１００×８０×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１阿僧祇小劫＝１×１０の５６乗×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３阿僧祇小劫＝３×１０の５６乗×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３阿僧祇１００大劫＝（３×１０の５６乗＋８０００）×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不可思議、兆、載、永、小劫とは、１０の６８乗×１０の１２乗×１０の４４乗×∞×３８８×１０の２１乗年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●ある人によると。２０１１．４．８&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
深川倫雄師&lt;br /&gt;
加茂仰順師&lt;br /&gt;
梯　實圓師&lt;br /&gt;
紅楳英顕師&lt;br /&gt;
の著書はお薦めだそうです。南無阿弥陀仏。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●雑修の十三失の検討　２０１１．４．８&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
善導大師は、未信の行者の欠点を十三に分けて教えておれらます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親鸞聖人は、十三失の始めの九つを十九願の人の欠点、後の四つを二十願の人の欠点とされます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百の時に希に一二を得、千の時に希に五三を得。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なにをもつてのゆゑに。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに。&lt;br /&gt;
2仏の本願と相応せざるがゆゑに。&lt;br /&gt;
3教と相違するがゆゑに。&lt;br /&gt;
4仏語に順ぜざるがゆゑに。&lt;br /&gt;
5係念相続せざるがゆゑに。&lt;br /&gt;
6憶想間断するがゆゑに。&lt;br /&gt;
7回願慇重真実ならざるがゆゑに。&lt;br /&gt;
8貪・瞋・諸見の煩悩来りて間断するがゆゑに。&lt;br /&gt;
9慚愧・悔過あることなきがゆゑに。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10また相続してかの仏の恩を報ぜんと念はざるがゆゑに。&lt;br /&gt;
11心に軽慢を生じて、業行をなすといへどもつねに名利と相応するがゆゑに。&lt;br /&gt;
12人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに。&lt;br /&gt;
13楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。（往生礼讃）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…１９願の人は、雑縁により乱れ動かされ、正しい念を失い、仏の本願（１８願）と相応せず、教えに相違し、仏語に順ぜず、係念相続せず、憶想が間断し、回願が慇重真実でなく、三毒に間断され、慚愧・悔過がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…２０願の人は、仏恩を相続して、念じ報ぜんとせず、心に軽い慢心生じ、業行するとも、名利を求めする。人も我もおのずからに邪魔することになり、真の同行、真の善知識に親しみ近づかず、自ら喜んで雑縁に近づいて、往生の正行を自障障他する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…１８願の人は、雑縁により乱され動かされることなく、正念を失わず、仏の本願と相応し、教えに相違せず、仏語に順じ、係念相続し、憶想が間断せず、回願が慇重真実であり、三毒にも間断されず、慚愧・悔過あり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仏恩を相続して、念じ報ぜんとし、心に軽い慢心を生せず、業行するとも、名利を求めず、人も我もおのずからに邪魔せず、真の同行、真の善知識に親しみ近づき、自ら喜んで雑縁に近づかず、往生の正行を自障障他せず。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●浄土真宗における報恩仏学の現場実践　２０１１．４．１０&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教学なき現場、現場なき教学という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教学には、伝統教学、近代教学、現代教学がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この推移には、キリスト教世界の、神学、哲学、政治学、社会学、経済学、社会運動からの影響がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浄土真宗における報恩仏学の現場実践というものを、私は考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゆるがせにできないものとして、第一原理から、第六原理を置く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、第一原理として、阿弥陀如来の大慈悲がある。&lt;br /&gt;
第二原理として、本願名号がある。&lt;br /&gt;
第三原理として、真実信心獲得がある。&lt;br /&gt;
第四原理として、報恩の称名念仏がある。&lt;br /&gt;
第五原理として、報恩の同類の善根がある。&lt;br /&gt;
第六原理として、報恩の異類の善根がある。&lt;br /&gt;
第一～第三原理を基盤とし、前提として、第四～第六原理を開き、実践していくところに、浄土真宗における報恩仏学の現場実践がある。これは、仏願力の不思議、仏願力の自然を離れたものではありえない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五原理の、報恩の同類の善根とは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…以垢任△蝓△取り次ぎである。&lt;br /&gt;
五種正行の前三後一（読誦、礼拝、観察、讃嘆供養）である。&lt;br /&gt;
８淒位腓蓮⇔蘿辧∋消押∈邊蝓観察、回向である。これは、一心が流出のものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　銑は、カテゴライズ（領域分け）の違いに過ぎない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第六原理の、報恩の異類の善根とは、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
報恩の称名念仏、報恩の同類の善根以外のすべての善である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無阿弥陀仏</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62327072.html</link>
			<pubDate>Thu, 31 Mar 2011 18:42:56 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉５２</title>
			<description>●白道領解　その７１　２０１１．３．３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。南無阿弥陀仏の働きの如来さまは、分けやなさらぬ。すべてが一体で、平等の働きで、お慈悲で、おかげさまでと、ただ、いただくばかりである。わがこころで、自力他力すもうとらすに眼をつけるじゃあ、ない。自力の執心は死ぬまであるが、そんなところに眼をつけるじゃあ、ない。如来さまのお手元が間違いないをいただくのみである。仏智不思議が世の盲冥を照らしてくださる。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７２　２０１１．３．３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。親鸞聖人の獲得名号自然法爾章は、ありがたい。南無阿弥陀仏の独り働き、願力不思議のおのずから、しからしむるによって、法のままに生きさせてもらい、死なせてもらう。親様は、捨てやせぬ、われにまかせよ、かならずたすけると呼びかけられている、この私一人。わがための五劫、永劫、十劫がかかってある、この私一人。如来さまの願いは、すべての命、すべての業識（魂）にかかってある。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７３　２０１１．３．３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。間違いだらけ、間違いし通し、失敗だらけ、失敗し通しのわがこころに向けて、どうかとはからえば、安心はいつまでもできない。間違いのない、すでに完成し、また完成しつつある、如来さまのお手元、南無阿弥陀仏の独り働きに眼を向ければ、おのずと安心させられる。仏智不思議で、願力不思議で、南無阿弥陀仏の不思議で、たすけられるばかりである。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７４　２０１１．３．３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。たとえ、現世利益を目的に称名念仏するのであれ、聖道門のこころがまえで、称名念仏するのであれ、１９願門のこころがまえで、万行随一と称名念仏するのであれ、２０願門のこころがまえで、万行出過と称名念仏するのであれ、１８願門で、仏恩報謝と称名念仏するのであれ、お念仏を申すことには、変わりなく、またすべきである。如来さまの働きである。聴聞は大事であるが。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７５　２０１１．３．３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。南無阿弥陀仏を信ずる心も、信ずる力も、称える心も、称える力も、本来あるべきような私では、ない。お他力のお働きにほかならない。親さまの救済の働きは、今、ここ、私一人のために、届いてある。それを、生きても、死んでも、究極のよりどころと、受け入れるのです。自力をたのむ私のこころ、他力をたのむ私のこころ、そのすもうでたすかるじゃ、ない。凡夫自力の善悪の雑心でたすかるじゃあ、ない。南無阿弥陀仏の願力の不思議、願力の自然でたすけられるばかりです。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７６　２０１１．３．４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。如来さまは極善最上、私は極悪最下。如来さまは真善、私は偽善。如来さまは真実、私は虚偽。如来さまは智慧、わたしは無智。如来さまは慈悲、私は無慈悲。如来さまは強く、賢く、浄いが、私は弱く、愚かで、罪深い。そんな私が愛される経験、体験、記憶によってこそ、生きていけるとすれば、如来さまは、私にとって、必要不可欠である。如来さまは、そのような私の存在を認め、許し、受け入れ、肯定し、愛し、大事にしてくださっている。その呼び声が南無阿弥陀仏、われにまかせよ、かならずたすける、である。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７７　２０１１．３．５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。七里恒順師は、説法は、後生、信心、報恩、掟をちゃんと分別して説くように教える。後生は、生まれがたき人身を受けていること。遇い難き仏法に遇い、中でも浄土真宗を聞いていること、この弥陀名号法、願行力の不思議が稀有最勝である。信心は仏願の生起（私）本（法蔵願行）（因力）末（阿弥陀正覚）（果力）を聞くこと。南無阿弥陀仏の機法一体（わがためと聞く）、願行具足（五劫永劫）、信行領受（信も行もいただきもの）、生仏不二（凡心仏心一体一心）、因果成就（仏果に往生成仏因を本願名号として成就）、体相具現（信の体に称名の往生の相あり、往生の体に信の南無阿弥陀仏の相あり）の道理を聞くこと。報恩は、お聴聞、お念仏、お取次ぎ。掟は世のありさまにまかせること。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７８　２０１１．３．２２&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗は、ご信心が大事ですが、お念仏が宗であります。愚痴宗、無口宗、悪口宗、妄語宗、両舌宗、綺語宗ではないのです。妄念のほかにこころはありませんが、貪りと怒りのその中に、お念仏を申し、自行化他させていただきます。如来さまの大きな慈悲が私に働いているので、お念仏を申させていただきます。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７９　２０１１．３．２８&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗は中道の仏教です。苦行主義でも、快楽主義でもありません。浄土真宗は生きている人間の魂（業識）を救う六字の聞信が中心の仏教です。墓や納骨堂が中心ではありません。葬式、法事などの法要が中心ではありません。荘厳や声明、礼儀や作法などを伴う儀式が中心ではないのです。六字の御名を聞き開き、こよなき信をめぐまれて、喜ぶこころ身に得れば、さとりかならずさだまらん。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その８０　２０１１．３．２８&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗は出世間の仏法、如来さまの本願名号と清浄歓喜智慧光が中心です。愛欲、名聞、利養、勝他が中心ではありません。世間の財力、権力、暴力が中心ではありません。ご信心をいただいてののちは、自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩に生きるべきです。お聴聞、お念仏、お取次ぎを中心に生きていくべきであります。なむあみだぶつ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62260087.html</link>
			<pubDate>Thu, 03 Mar 2011 05:59:25 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉５１</title>
			<description>●白道領解　その６１　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。阿弥陀仏のお育ての、調熟の色光で、凡夫の宿善が深く厚くなり、開発の真実信の一念は、仏心の光で疑いの無明の闇を破し摂取不捨だから、親が私を呑む。私は親に呑まれる。凡夫の心中に南無阿弥陀仏が印現だから、私が親を呑む。親は私に呑まれる。そののちも、光と御名に、育てられ、護り続けて、報土得生。称名念仏は報恩なり。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６２　２０１１．２．２５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。阿弥陀仏って本当にいるんですか、浄土は本当にあるんですか。単なる理念ではありませんかと訊かれます。います。あります。第一の理由は、お釈迦さまがそう言っています。第二の理由は、往生者が古今東西無数に出ています。第三の理由は、あなたは存在していますかという反問。存在している、ならあなた以下の存在もあり、あなた以上の存在もある。煩悩が菩提となり、生死が涅槃となったその究極の方が阿弥陀仏です。第四の理由は南無阿弥陀仏が私に届いて、信じ喜んでいるからです。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６３　２０１１．２．２５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗って、歴史的役割を終えた、衰退する価値の乏しい教えではないですかと訊かれます。そう思われるなら仕方がない、私は、親鸞聖人と同じように、私は浄土真宗を、南無阿弥陀仏を信じていますが、信じようと、棄教しようと、ご自由にと言うしかありません。ただ、世界的に歴史を考えても、現在だけを考えても、歴史的役割と、発展の可能性と価値は十二分に認められると私は認識しております。世界的に、未来にも通用する、素晴らしい教えであると思います。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６４　２０１１．２．２５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗において、一番大事なものとは何ですかと訊かれます。ご法義です。お聴聞です。言うなれば、大無量寿経であり、教行信証であり、本願名号の南無阿弥陀仏であり、真実信心獲得です。たとえば、お葬式をし、ご法事をし、お墓を建て、お布施が集まり、お念仏があって、僧侶の暮らしと権威が守られて、お寺が存続するというのもとても大事なのですが、二次的なものです。それで、もし僧俗の一人一人、特に私一人の後生の問題が骨抜きになってしまったならば、本末転倒であり、阿弥陀さま、お釈迦さま、法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人に対して、どうにも申し訳がたちません。浄土往生成仏の真宗でなく、三界六道輪廻の偽宗となってしまいます。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６５　２０１１．２．２６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。この娑婆世界に生きることは、孤独と絶望と苦悩のほかはない、この私を南無阿弥陀仏はどう救うのかと訊かれます。孤独に如来の摂取不捨の心光あり、絶望に往生成仏の希望あり、苦悩に信楽易行水道楽ありと答えます。聖徳太子は、世間虚仮、唯仏是真と、あつく三宝（仏法僧）をうやまえと言います。南無はわれにまかせよ、阿弥陀仏はかならずたすけるの、私一人に向けられた如来のおおせです。生死の苦海ほとりなし、久しく沈めるわれらをば、弥陀弘誓の船のみぞ、乗せて必ずわたしける、と親鸞聖人のご和讃にあります。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６６　２０１１．３．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。如来さまは、無上の器量を持つ方です。無上の器量とは、無上の力量と度量を持つということです。無上の力量なるがゆえに、本願名号を凡夫の心中に印現せしめる、南無阿弥陀仏の、われにまかせよ、かならずたすけるの呼び声を領解せしめるのです。無量の度量なるがゆえに、仏心光に摂取不捨ののちは、生きざま、死にざまを問わず、現生に正定聚、死後に往生成仏せしめるのです。我一人がえらい、我一人が苦労、我一人が手柄というのが愚かしく、我一人に取り柄はないのです。如来さまがえらく、如来さまのご苦労、如来さまの大手柄です。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６７　２０１１．３．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。五天とは世天、生天、聖天、義天、第一義天を言います。国王を世天といいます。天人を生天といいます。声聞、縁覚を聖天といいます。菩薩を義天といいます。仏を第一義天といいます。阿弥陀仏は天中天の無上尊であり、光寿二無量の覚体であり、無上の誓願修行で、無上の仏土を成就し、無上の自在神力を持ち、無上智慧、無上慈悲、無上方便の南無阿弥陀仏を信受させて、無上の信心で救う仏です。称名は報恩であり、かならずおちるをかならずすくうの親様をあおぎ、聞其名号信心歓喜のみです。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６８　２０１１．３．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。当たり前というのは、実はないのです。私一人の当たり前とは、極悪短命の機なるがゆえに、すでに死んで地獄に堕ちているのが当たり前です。しかるに、如来さまのお慈悲、南無阿弥陀仏、われにまかせよ、かならずたすけるとのおおせがあるがゆえに、生かされて、浄土真宗を聞き、真実信心を獲得せしめられ、仏恩報謝をさせていただいている、往生成仏を間違いなくしていただいている、何とも有り難いことです。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６９　２０１１．３．１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。四法印とは、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静です。雪山偈とは、諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽です。これらを味わえば、諸行は無常であり、諸法は無我であり、是れ生滅の法なるがゆえに、一切皆苦である。しかるに、生滅を滅しおわれば、寂滅を楽となし、涅槃を寂静とするのです。ここで、問題なのは、生滅を滅しおわるにはどうすればよいか、六道輪廻から涅槃に至るところの生死出づべき道とは何かということです。諸宗に見解は分かれますが、浄土真宗では、南無阿弥陀仏です。われにまかせよ、かならずたすけるという、如来のおおせをいただいていくのです。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その７０　２０１１．３．２&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。浄土真宗とは、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏は如来のおおせ。如来のおおせは、われにまかせよ、かならずたすける。そのおおせを真受けにするのが真実信心獲得。真実信心獲得で、現生正定聚、死後に往生成仏となる。仏恩報謝の称名念仏をさせていただく。一切の諸仏諸菩薩の喜びとなる。如来さまのえらさ、如来さまのご苦労、如来さまのお手柄を、仰いでいこう。そして、自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩。なむあみだぶつ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62241457.html</link>
			<pubDate>Thu, 24 Feb 2011 18:41:47 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏について２８</title>
			<description>●愚禿抄についての疑問　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
浄土真宗聖典（第二版）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P５０１、P５１６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賢者　よきひと。総じては七高僧に通じ、別しては法然上人を指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賢者とは、明恵上人、あるいは、聖道門、あるいは１９願門、２０願門では？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
P５４０、P５４１&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内外対　内心と外相とが相応しない不真実のありさま。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内発と外発ではないか。内から発するものは自力、外から発するものは他力ではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
難＝三業修善不真実の心＝毒＝善悪雑心＝内＝自力＝自利の三心&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
易＝如来願力回向の心＝薬＝純一専心＝外＝他力＝利他の三信&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内は退…　内心はたじろいていながら、外相には白道を進むふりをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内より発する自力の信は退くものであり、外より発する他力の信は進むものである、ではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内は遠…　内心は阿弥陀仏から遠ざかりながら、外相には近づいているような姿を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内より発する自力の信は遠ざかるものであり、外より発する他力の信は近づくものである、ではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内は違…　内心は教えに違いながら、外相では随順しているふりをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内より発する自力の信は教えに違い、外より発する他力の信は教えに随順するものである、ではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内は間断…　内心では信心が持続していないのに、外には持続の姿を示す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
内より発する自力の信は間断し、外より発する他力の信は無間である、ではないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
存覚上人の愚禿抄に対するご理解は、嘆徳文にうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
愚禿が心→愚禿が信となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賢者の信は、碩才道人ということにならないか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…聞きに衒わんことを痛み、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うーん、よくわからん…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●横川法語　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今の浄土真宗採用のものは、『真宗教典誌』巻一には、宇治平等院に蔵する所の僧都の親畫自像の讃文であるといっている。３６１字。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別のものは、山本仏骨先生がご著書の中で採用しておられた。天台宗採用。ちょっと違う、なぜ？４３８字。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安時代の法語集。源信著。全４９１字。妄念をいとわず念仏することを勧め、凡夫の往生を強調したもの。念仏法語。上か下か？おそらくは下。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62241006.html</link>
			<pubDate>Thu, 24 Feb 2011 14:24:17 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉５０</title>
			<description>●白道領解　その５１　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。私は、如来の一人子です。まことの親が南無阿弥陀仏を信じさせて下さり、お念仏を称えさせてくれます。まことの親に感謝し、まことの親に仕えて、生きていけばよいのです。信後は、まことの親に与えられた命です。まことの親は、私の存在を肯定します。嬉しくて、楽しくて、気持ちよくて、幸せで、よいのです。生きてよし、死んでよし、でよいのです。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５２　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。人間として生まれて生きるその目的は、後生の一大事の解決です。それは、南無阿弥陀仏の真実信心を獲得して、往生成仏が定まった身となることです。如来さまは、信後の生きる根拠として、仏恩報謝という、生きる意味と価値と資格をお与えくださいます。如来さまは、無上智慧と無上慈悲と無上方便で、私よりも私を知り、私よりも私を心配し、私よりも私を助けてくださいます。私一人をめあての、われにまかせよ、かならずすくうの呼び声が南無阿弥陀仏です。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５３　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。南無阿弥陀仏の真実信心獲得後は、如来さまが人間として、生きて存在させてくださっている以上、誰が何と言おうと、堂々と生きて存在しておればよいのです。如来さまが、もういいから死んでお浄土に来なさいという時には、誰が何と言おうと、死んでお浄土に参らせていただけばよいのです。まことの親は、私の存在を、私の心を、私の生命を、私の後生を、何よりも大事にしてくださいます。私は親様の一人子です。私は弥陀、釈迦、諸仏の、真の仏弟子です。私一人をおさめ、たすけ、すくうのが親様です。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５４　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。親様が幸せです。親様が幸せそのものです。親様が幸せそのものとなって、私に下さる。だから、私が幸せとなる。そうすると、また、それが親様の幸せとなる。親が幸せ、子も幸せ、幸せな親子である。まことの親のまこと、南無阿弥陀仏で、いつも親子連れで、常に二人連れとなる。親様が智慧で、子が慚愧。親様が慈悲で、子が歓喜。親様が必ず堕ちるを必ず救うて、子が懺悔。親様が呼ぶを子が聞信し報恩謝徳。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５５　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。親が子を生んだ、ではない。子が親を生んだ。子を離れて親があるものか。親は子のため、親仕事。親仕事は、子には分からぬ。分かれば親だが、子は子なり。分からぬでよい、そのままたのめ、まかせよという。親はやるせなき、大慈悲心。どうしてたのみ、まかせずにおられようか。親鸞聖人は、ああ、と言う。私も、ああ、と言う。ああ、というよりほかはない。ああ、私一人のために、こんなどえらい親様があったか、こんなとてつもないお慈悲があったか。それが、南無阿弥陀仏。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５６　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。私が親様では、もちろんないが、親様の方から、私になりにくるのです。親様は、私が、かわいくてならないのです。親様は、私が、地獄に堕ちるのを、傍観しておれないのです。どうでも、このたびは、往生成仏させなければならないのです。どうでも堕ちる私がゆえに、どうでもたすけるお慈悲のご苦労で、南無阿弥陀仏の大手柄。私には、慈悲も苦労も手柄もない。親が親としてあるから、子は子であればよいとのおおせです。まるまるたすけられるばかりの南無阿弥陀仏。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５７　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。お浄土の聖衆が、南無阿弥陀仏とともにある。南無阿弥陀仏とともに、お浄土の聖衆がある。私が、南無阿弥陀仏とともにある。南無阿弥陀仏とともに、私がある。聖衆には遇えないけれども、遇っている。遇っているのは、間違いない。弥陀同体だから、弥陀として、南無阿弥陀仏と同体だから、南無阿弥陀仏として、感得せしめられる。不思議の仏智は、はるかに及ばない。はるかに及ばないのに、来てくださる。来てくださるのは、間違いない。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５８　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。平生業成は、疑蓋無雑で、親のたすけるこころと子のたすかるこころ、親子がこころは、親子水入らず。水というよりは、氷の蓋で、自力疑蓋です。これは、自力計度の機、自力をたのみ、はからうこと。氷の蓋を凡夫でこしらえて、凡夫でどうにもならない。どうにもならないをどうにかする力は南無阿弥陀仏の親にあるから、よくよく聴聞させるのが、親仕事。親のお慈悲はぬくいから、だんだん氷は解けてくる。まるまるたすからぬ私がために、まるまるたすけてゆくのが親よ。たすける用意は不思議の仏智の方では、準備完了で、正覚成就。そしてたのませる大悲念願の力がたのむ一念を起こさしめる。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５９　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。まことの親様がありがたい、うれしい、しあわせ。まことの親様のまことのお慈悲、わがための願行のご苦労が南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏は、われにまかせよ、かならずおちるをかならずたすけるのおおせ。そのおおせをそのまま聞き受けるばかりが真実信心、たのむ一念。そして仏恩報謝の称名念仏が出てくる。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その６０　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。ああ、ありがたい、親の声。親の声だが、私の声。私の声だが、親の声。南無阿弥陀仏が、我を呼ぶ。眼も見えず、耳も聞こえず、手も動かず、足も動かず、考えることもできず、思うこともできず、声を発することもできない私をしっかと抱きかかえ、一言親様と、信じ呼ばせて、浄土で仏と成らせることができないのならば、私は親と呼ばれる資格がないと、五劫が間の血の涙、永劫が間の血の汗、しかも十劫が間空しく呼ばせ続けた親不孝者が私よ。この片言が、親様にしてみれば、なんとも思うも愚か、語るも愚かに、お喜びか。親おもう、こころにまさる、親ごころ、信の称名、何とお聞きか。なむあみだぶつ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62240162.html</link>
			<pubDate>Thu, 24 Feb 2011 05:38:05 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>南無阿弥陀仏福祉４９</title>
			<description>●白道領解　その４１　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。ああ、弘誓の強縁は多生にも、もうあいがたく、真実の浄信は億劫にもえがたし、と親鸞聖人はおおせです。生まれ変わりを何度も繰り返しても、人間に生まれがたく、人間に生まれても、仏法に遇い難く、仏法に遇っても、浄土真宗は聞き難い。浄土真宗を聞いても、真実信心を獲得することはなお、難しいということです。明日の生命の保障はどこにもありません。無常です。よく聴聞して、南無阿弥陀仏の真実信心を獲得できたら、人間に生まれて生きた甲斐があったと喜べることになります。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４２　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。信じ称える南無阿弥陀仏には、往相回向の働きと、還相回向の働きが備わっています。行者は生きている間は、常行大悲はありますが、還相回向の身分というのは、決してありえません。しかし、南無阿弥陀仏は浄土に迎える働きと、浄土から来る働きがあるのです。弥陀と浄土と光明と名号と信心と憶念と称名と、別々のものではありません。不可思議の願力を仰ぎつつ、生きてよし、死んでよしの二河白道を歩ませていただきます。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４３　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。お釈迦さまは六神通の覚者でした。しかし、大集経には、我が末法の中の億億の衆生、行を起こし道を修するに未だ一人も得る者あらじ、とあります。末世で億億人修行しても一人も覚る者はないというのです。自力でいろいろと修行し悟る人はあるでしょうが、たとえば、すべてが一体だ、平等だ、慈愛だ、歓喜と感動、疑いが消滅、光明を感得した、聞いた、見た、などと体験しても、それは素晴らしいですが、悟りのままに生きることは難しく、また退転するものではないでしょうか。浄土真宗の現生正定聚、等覚の不退転は、南無阿弥陀仏によって究極的な安心をもたらします。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４４　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。さまざまな宗教があるが、到りつくところは同じではないか、また、仏教の中でも、さまざま宗派があるが、到りつくところは同じではないかという意見がありますが、とんでもない話です。見方、考え方が違えば、思うことも、言うことも、行動することも、人生も、その結果も、違ったものになります。親鸞聖人は、偽の宗教と、仮の宗教と、真の宗教とがあることを教えてくださいます。法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人は、南無阿弥陀仏ひとつの救いを明らかにし、勧めてくださいます。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４５　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。人は、生まれて、生きて、死にます。いつ死ぬかわかりません。また、悪は為しやすく、善は為しがたいものです。極悪短命の者が、死ぬ間際に真剣に聞いてたすかる教えが本物だとすると、浄土真宗はそれに該当します。浄土真宗は自力で助かろうという教えでなく、阿弥陀如来の大慈悲、仏願力の南無阿弥陀仏の不思議によって、助けられる教えだからです。お釈迦さまの出世本懐はこの弥陀法を説き、救いに導くことであり、凡夫の出世本懐は弥陀法を聞き、救われることにあります。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４６　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。悪いところは他人のせい、良いところは自分の手柄、これが我執の姿です。悪いところは自分のせい、良いところは如来の手柄、これが、浄土真宗の無我の姿です。親様に感謝するところから、すべてに感謝するこころが生まれます。おかげさまで、ありがとうございます、しあわせです、すみませんというこころが生まれます。南無阿弥陀仏を中心点にして、うれしい、おはずかしい、というこころが生まれます。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４７　２０１１．２．２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。人間は、どこまでも、自己の立場を絶対視し、我が必ず正しいと固執して、相争うものです。浄土真宗の立場は、如来の立場、如来の真実心の南無阿弥陀仏、大慈悲心を絶対の立場として、如来に見抜かれている凡夫として自己の立場を相対化し、必ず正しいのは如来であったと歓喜、感謝とともに、慚愧、懺悔を起こさしめるものです。如来の真実心が南無阿弥陀仏と至り届くので、疑蓋無雑となり、大慈悲心を信じ喜ぶこととなります。それで、往生成仏間違いなしとなります。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４８　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。我がえらいじゃない、如来さまがえらいのです。我が苦労じゃない、如来さまがご苦労なのです。我が手柄じゃない、如来さまのお手柄なのです。実際、聞かしめ、信ぜしめ、念ぜしめ、称えしめる如来さまがありてこそです。邪見のまま、&amp;#24973;慢のまま、弊悪のまま、懈怠のままとなるのは、如来さまの前にどこまでもへりくだる姿勢がないからです。我が、我がもの、と我執、法執の虜となるのは、如来さまの前に無我となることがないからです。南無阿弥陀仏の独り働きで助けられるばかりなのが本当です。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その４９　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。阿弥陀の親が嬉しい。阿弥陀の親が有り難い。あなたが私の心に当たる。阿弥陀のお慈悲にからめとられて、仏恩報謝のお念仏。南無阿弥陀仏の摂取不捨とは、親鸞聖人がご和讃に、南無阿弥陀仏をとなふれば、この世の利益きはもなし、流転輪廻のつみきえて、定業中夭のぞこりぬ。死ぬべき命が生かされて、南無阿弥陀仏の不思議に、へりくだって、仕えていくべきご恩があります。なむあみだぶつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
●白道領解　その５０　２０１１．２．２４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なむあみだぶつ。地獄におちるほかないこの凡夫を、往生成仏させていただけるとは、言葉もこころも及ばぬ、大きな大きなご恩があります。大きな大きなお慈悲、大きな大きなご苦労が親様にあるゆえです。南無阿弥陀仏を信じさせてもらい、念じさせてもらい、称えさせてもらうばかり。そしてお聴聞とお取次ぎをさせていただきます。小さくも、大きくも、歓喜と慚愧のうちに、仏徳を讃嘆し、如来さまへの懺悔と仏恩報謝の日々をおくります。なむあみだぶつ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/bjdsg450/62237596.html</link>
			<pubDate>Wed, 23 Feb 2011 08:41:47 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
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