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me tooについて考える。

一時期流行りました?「me too」SNS用語。セクシャルハラスメントや性的暴行の被害体験を告白・共有する際に使われると言うことで、アメリカのモデルに端を発していたと思うのですが、それを野党の女性議員がそれをプラカードにして行動を起こしたことには正直仰天したというよりも呆れました。

あなたたちがすべきことはこんなことなのかと・・・。

少なくとも、そんなことをしてわざわざパフォーマンスすることに意味があるのでしょうか。
国会議員というのは代議士とも呼ばれる、市会議員や県議会議員は、市民の代表ではありますけれど、代議士とは言いません。
代議士という肩書きは、日本国民の利益のために働くことを仕事としているのですから、言わばそこには、私的な意識よりも公の意識が大事なのではないでしょうか。

仮にセクハラされました・・・。だから、それをわざわざ国政のパフォーマンスすることにどれ程の意味があるのでしょうか。
そんなことまで国会議員はする程暇なのでしょうか。
更に言えば、女性議員がセクハラだと言うのであれば、「パワハラ」は糾弾されないのでしょうか。
昨年、秘書が週刊誌にパワハラで告白したとかで女性国会議員が落選しました【現在は公人ではないのでここでは名前を挙げませんが、ネット上では記録として半永久的に残るでしょう。
この事件の場合は、パワハラの当事者は、女性であり、男性は被害者でした。
結局、国会議員の「mee too」なんて、自分たちの都合のよいパフォーマンスでしかないわけです。

そして、こうした言い方をすると女性の方に叱られますが、こうしたパフォーマンスの裏には、「女性ですから」という甘えが見え隠れしているように思うのです。

こうした人たちの特徴は、都合の良い時は、「男女同権」と良い、都合が悪くなりますと、「女性は弱いから守られるべきです」・・・。もしくは、「セクハラの被害者」だと言います。
そうした態度は、結果的には女性の人権を自ら貶めていることに気づいて欲しいわけです。

男と女は性別の違いだけでなく、動物学的に見た場合異なるわけですから。
女性は、子供を産む事ができる、更に人間の子供の場合自分で食べることが出来るようになるまで一年以上かかるわけです。そこで女性は、子供を育てるため適切な脳回路が組み込まれているわけで、声を一般には母性脳としましょう。
逆に、男性は子供を産みませんので、子供を育てると言うことに対する意識は低くなります。
逆に、子供や女性を外敵から守る為の攻撃性などを内包しています。
このように、女性脳と男性脳は違うわけです。

女性脳が子供に安全な環境を提供するために、全体を俯瞰して見ることが得意な反面、空間認識が苦手ない人が多いわけです。逆に男性脳は狩猟時代からの遺伝子で、空間認識であったり、攻撃性であったりと、大きく異なるわけです。

結局そうした違いがありますからこそ、それを補い合うことで本当の協業が出来ると思うのです。それを何でもかんでも女性と男性は同じでなくてはならないと言った運動をするから結果的に無理が生じているのではないでしょうか。

男性脳と女性脳が異なる事をことさらに否定すればするほど、矛盾が広がってしまうと思う今日この頃なのです。
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度量について考える。

少し前の話なのですが、ある方と待ち合わせして飲食店に行った際の話なのですが、混み合っていて、下げたテーブルに水が少し残っており、たまたまそこに待ち合わせていた方と座ろうとしたのですが、その方が店員さんを捉まえて、「ここに座るから綺麗にしてよ・・・」と、傍目で見ていると上から目線で指示しているのを見て、
この人の限界はここまでなのかな・・・とふっと思ってしまったのです。

人に対してどのように振る舞えるか、些細なことですがこうしたところでの言動で、その人の心の広さと言いますか度量が計れるような気がします。

度量の狭い人ほど、些細なことで文句を言いますし、度量が広いひとは、そのようなことは言わず常に相手の立場に立って対応できるのかなと思ってしまうのです。
本当に些細なことですが、いくら身なりが立派でも度量が狭い人は結局、その程度なのだなぁと思ってしまうわけです。
逆に、度量の広い人は、どんな場所で会ってもどこか光っている。そんな感じがするのです。
度量の深さというのも、一朝一夕にできあがる者では無く、日々の精進によるものだと思っています。
精神論というわけでは無く、自分自身の行動の中に落とし込んでいくことで無意識のうちに行動できるようにしていくのが大事なのかなと思っていますし。
子供が居る家庭では、まず自らが子供の手本になって、行動することが重要なのかなと思ってしまいます。

私も細やかですが、少しでも度量の広い人になれるように意識して行動しています。
間違っていたら、すなおに「ごめんなさい」
教えを請えば相手が子供であっても、「礼を尽くす」
施しを受ければ「ありがとう」
食事をいただく時は、手を合わせて「いただきます」
こうしたことが生活の一部になりますと、常にそれが自分の行動の一部ですから何ら違和感が無く行動できると個人的には思っています。

まぁ、私の度量なんか、まだまだ小さいですけれどね。
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私と写真のお話

今日も、気ままに気の向くままに書かせていただこうと思います。
 皆様こんばんは、昨日は夜勤明けに古本を買いに天下茶屋へ、その後写真でも撮ろうと思ってカメラを見たら、メディアを忘れていたので撮影を諦め、今宮戎まで・・・日本橋の電気街へ用事がありましたので、今宮戎から高架下を歩きながら難波方面を目指したのですが、閃いて撮影したのがこの1枚
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曇り空でさほど反射が大きくなかったのでむしろ陰影が強調されたかもしれないのですが、結構面白い写真が撮影できたと思っています。
ストリートビューでみますと、本当に平凡な風景なのですけれどね。
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この写真もスマホで撮影したのです。
難しいテクニックは使っていません、少しだけ露出をアンダーにして、下から見上げるような角度から、狙ってみたのです。
陰影丸つぶれの写真だと言われそうですが、写真の撮影にはルールが無いわけですから、自由な発想で撮影してみればよいのでは無いでしょうか。
平凡にみえるものでも、見方を少し変えるだけで大きく変化する・・・そんな気がします。



この記事に

おはようございます、またまた更新も滞ってしまいました。
今日も少しだけ思うことを思うままに書いてみたいと思います。

平等と言うことについて考えてみたいと思います。

昔、小学校などで徒競走などに順位があるのはダメダと言って全員が尾内用にゴールするなんてことが行われたことがあるときいたことがあります。
いわゆる悪平等というものですね、差別は行けませんが、ここの個性まで無理矢理平等にする必要はあるのでしょうか。
実社会に出れば好むと好まざるを得ず、競争社会です。
まして、世界相手に視点を持てというのであれば余計ではないでしょうか。
社会主義とと言われる国々でも、経済という輪を回すことで国が豊かになるとしてどんどん競争に打って出居ているのに、みんな平等だから、競争してはいけない・・・と言った誤った考え方であったり、自分だけがよければそれでよいという考えが蔓延しているのではないだろうか。
先日の新幹線での殺人事件もそうであるが、そうした何でも自由だとか、ここの自由は守られるのだと言った悪平等で育ってきたものがいきなり競争社会に放り出されて、その結果ゆがんだ形で暴発したと言えないだろうか。
そう考えると、平等という美辞麗句に隠されたもっと残酷なものが見えてくるのではないだろうか。

日本社会だけに限らず、社会全体に全て平等な世界などどこにもない、そこには、厳然とした競争という世界がある。
仮に、誰でも平等な世界を作りたいというのであれば、まずインターネットを遮断して、情報の統制を行い、独自の通信ネットワークを構築すると共に、江戸時代のような鎖国を行うしか方法はないでしょう。
まぁ、当然のことながら国としての国力は大きく削がれ徐々に衰退していく事になります。

実際にそんなこと出来ますか?
明日から、ネットは接続禁止、アフィリエイトも、買い物も全て中止ですよと言われて・・・皆さん困りますよね。

そう考えれば、いやが上にも競争社会に放り込まれることをやはり我々は知るべきだし、子供に対して教育する先生は、そうした意味できちんと子供達には、競争社会の意味をきちんと伝えるべきだし、そこで出てくる格差、そうした部分についてもきちんと伝える必要は有るのではないだろうか。
すなわち、勉強が多少苦手な人であっても、人を喜ばせることに長けているのであれば俺がその子供の長所であり、長所を育ててやる、勉強が出来る子供には更に勉強できる環境を与えてやる、そうした導きをすることこそ教師【道を教える者】と言えるのではないでしょうか。
思いつくままに書いてしまったので、読みづらいかもしれませんが。
現在のストレス社会の原因を作った一つには、教育による部分が多いと思ったので書かせていただきました。
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この記事に

 本日は実は私の誕生日だそうで・・・、
朝からFacebookで多くの方からメッセージをいただいております。
本当に有り難いことです、直接お目にかかったこともあれば、未だお目にかかれていない方もおられますが、こうして繋がっているのは有り難いことです。

お陰様で、今年で満18歳に・・・いえいえ、58歳になりました。
考えてみれば半世紀+8歳生きたわけです。

そこで今日、目覚める前にふっと思ったのですが、年齢というものに対してどのように考えるのか・・・それが大事なのかなと思ってしまったのです。

もう58歳だから・・・と考えるのか。
やっと、58歳だからと考えるのか。

そこで考え方が大きく変わってくると思うのですね。
もう、○○だからと考えれば、発想は後ろ向きとなり、新しいことを受け入れることを拒否しがちになります。

もう若くありませんから、今から新しい資格を取るなんてそんな無駄なことしたくない・・・みたいな。
実際、私の昔の友達にはそんな人がいるようです、居るようですというのは、もうかれこれ10年近く本人とは会っておらず、風の噂で聞くだけだからです。
糖尿病を患って食事制限を受けていますけれど、そんなこともお構いなしで自由勝手にしていると言ったことを聞きました。

もう、病気だし別に、今更・・・と言ったことらしいのですが。考えてみれば残念な人です。
結局自分で自分の天井を自ら作っているわけですから。

私の場合は、時々そうした思いがよぎりますが、むしろ逆で勝手に天井を取り払っていく、周りが天井を被せてくるのですけれど、それを取り払って自分ではまだまだ可能なのでは無いでしょうか・・・みたいな行動しています。

色々な試験にも挑戦して資格を取ってみようとか、何とかしてもっともっと上昇しようと・・・そして、何時も振り替えるときは、去年の自分よりも今年の自分は成長したでしょうか?と問いかけるようにしています。

もちろん、ここに見ていくと後退している部分や、停滞している部分も多々あります、それでも全体を見渡したとき長期的に低落しているのか、緩やかに上昇しているのでしょうか・・・そんな風に考えるようにしています。

言ってみれば、自身の成績表ですね。
そうした意味では、上昇速度は低下しているものの緩やかに上昇曲線を描いていると個人的には感じています。

そこで、私なりに自分の評価をすると下記のようになるでしょうか。
チャレンジ度 5
今年は、できるだけ色々な資格試験にもチャレンジしつつ、新たな目標に到達したいと思っています。
また、長らく止まっていた読書も再開して、積ん読状態であった色々な本の滞貨が解消できたのも大きいです。【最も。解消にはほど遠い上に、読んだ分以上に購入してしまうので本も漸増傾向にありますが。苦笑】

また、お陰様で読む本の内容も多岐にわたるようになり、文学から心理学、経済学、哲学とそれこそ多彩。
最も、読んですぐに理解できない本もあったりして、それはそれで寂しい話なのですが、それは自分の能力が足りていないわけですから、素直に諦めて一先ず読むようにしています。
自身の能力がそこまで到達したときにふっと、理解できるからです。

論理的思考度 4
今まで以上に論理的に物事を考えられるようになったかなぁと自身では分析しています。

社交性の向上 4
元々どちらかと言えば苦手だったんですけれど、以前と比べれば改善できたかなぁと・・・まだまだ、これからなのですけれどね。苦笑

金儲け度 3
公務員を途中リタイアして色々と遠回りしたり、人に騙されたりで最悪でしたが、最近はお金に対する恐怖度問い仮装したものが払拭されつつありますので、来年以降は更にこの数値を挙げるのが最大目標でしょうか。

もちろん、金を持ちすぎて殺されてしまっては意味ないですけれどね、ただ、お金があれば助けてあげられる命もあったりするわけですからそうした意味でまず自身がお金持ちにならないとそうしたことも解決できないのかなと最近は思っています。

自らの快楽のための金儲けではなく、もっと困っている人を救うためにも自身が金持ちにならなくてはいけないと最近は感じています。

以上、誕生日に際して私自身の成績表のお話でした。
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