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「魂 精神、我、心、魂」 − その5 愛−2 − 「神への愛」というのは本当にあるか。神を愛していると言う人は本当にいるのか。神を愛するには相当はっきりした神像(偶像ではない)が必要ではないか。普通そんなはっきりとしたかつ本当の意味で正しい神像を持っているのだろうか。また、本当の意味で正しい神像といってもそんなものはあるのか。神への愛と神からの愛はどう違うか。いずれも神から愛をもらうのであろう。 きっと神を信じている多くの人は少しは神からの愛を実感しているのだろう。神からの愛を具体的に感じることはできるか。かなり感覚的、直覚的な部分が多いのではないか。神を意識するだけでそれだけで神からの愛が伝えられるのか。そうかもしれない。誰でも神をほんとうに意識するだけで神からの愛を伝えられるのか。素直な神への意識のみが神の愛を感じる唯一つの手段かもしれない。 「知に対する愛」確かにいろいろ知りたい、自分の歩む道も先人の歩んできた道も知りたい。そのほか科学的なことも、宇宙はどうなっているのかと言うことも知りたい。 xp(xenophanesparmenides)さんによると知とはそういう知りたいというものではないらしい。Xpさんによると神と人のつながりそれが知である。知は人を神に向かわせる普遍かつ唯一の道である。神を知ることそれが直観知である。知こそ神の愛を知る手段である。私はそういう見方もできる(確かな一つの見方である)と思う。 「自己愛」、なくてはならないもの。なかったらなにをするかも分からないものと確かに思う。(これは,サチコさん の考えかも知れない)しかし、多すぎれば邪魔になるものでもあるのは間違いないのではないか。これがありすぎるから欲も深まり、他との競争ともなり、自己を過大評価してしまう。私はまず自己に対する愛を減らすべきであると思う。自己に対する愛を減らすことを意図しても不可能なことかもしれないとも思う。ところがいつも「自己に対する愛を減らすこと」に気を付ければ徐々に減る方向に向かうのは間違いないと思う。しかし、より確かにそうするには。 全く反対でそんなことは自己愛の議論にはならないといわれるかもしれないが、まず、人を先にすることである。一見真逆であるが。 人を先にすることによる効果は大きい。人を先にすることにより人の本当の意図が分かる。もちろん人の本当の意図は悪いと考えないほうが良い。悪いと考えると拒否的な考えに陥ってしまう。 人も私のことを考えてくれているのである。自己愛を理解するには他者愛を実行することであるとも言える。と私は思う。 若い人や自らをよく理解し得ない人は自己愛を持たず、自殺や極端には無差別殺人をする。これって自己愛がなさ過ぎるのか、自己愛がありすぎるのか。本当の自己愛があって社会や人を理解できればそのようなことは起こらないであろう。ここのところは現代の大きな問題である。(私は多分与えられるまたは与えられた愛が少なすぎたのだろうと解釈する。)本当の自己愛とは自己を愛情を持って理解できることだろう、と思う。これがなければ人を愛情を持って理解できないであろう。もっと考えたいが今はここまでとする。 親から愛情を充分与えられずに成長した人はかなりいると思う。それは大きな問題である。程度はどのあたりかわからないが私もそのひとりである。(私をそのうちのひとりとすると多くの人もそのうちの一人になるのかもしれないが。)しかし、それを解決することは私にはどうしようもないことである。手探りで生きていくだけである。 愛について分析しかけたが、それは正しい行為か。恐らくは正しくない行為であろう。愛の元は自分ではない。愛の元は神である。神からの愛を受け止める(感じる)ことができるか、それが人にとってもっとも大事なことである。(仏教信仰者は神を阿弥陀と読み替えることもできるのではないかと思う。私には断定できないが。) 追記 私は原子力発電に反対します。ウランの採掘から発電時の制御、廃棄物の処理や廃棄物の管理、廃炉の処理まで人体に大きな影響を与える可能性は否めません。特に地震の多い我が国ではさらに危険です。もっと安全な手法でエネルギーを得るべきだと思います。CO2を発生しない地熱発電またはエネルギー効率のよい燃料電池などの普及に力を入れるべきだと思います。 原子力発電の問題点についてのご質問はkyomutekisonzairon(http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon)さんにお聞きください。適切な回答が得られると思います。 2010/08/02
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釈迦、孔子、ソクラテス、キリストを愛する人は誰でも神を愛する人
であると私は思います。
なぜならその愛は『各人の心を領する真理認識への愛に基づいている
のですから、・・・(スピノザ往復書簡集)』そして、
『神は真理であり或いは真理は神そのものである。』(スピノザ短論文)
だからです。
我々は真理の故にこそ人間を敬愛するのではないでしょうか。(xp)
2010/8/2(月) 午後 11:33 [ xenophanesparmenides ]
葉の一枚、水の一滴、一握りの土、それにお日様・・
これらに神の力を見出せない人には、神はいないのと同じです。
土の中でも、肉体の中でも、全てをを生かすために一生懸命働いている微生物の力は、まさに神業なのです。
自然界への感謝と、己の入れ物(肉体)に感謝を捧げる事が、これからの大きな一歩になるはずです。
肉体への感謝とは、食べ物に気を使うことです。
自然の物を食することです。
肉体を長持ちさせてこそ、感謝した事になるのではないでしょうか?
2010/8/3(火) 午後 2:52 [ 大吉(だいきち) ]
xpさん。人が神(真理)を知ることはすなわち神を愛することである。分かりますが、人はそうすると非常に希薄な存在のように思えてならないのです。後世の人に自分の考えや経験を伝えたいとなると本を書かないとできないと言うようなことになってしまうような気がします。
私は自分は死んでも続いているように思えてなりません。このことを肯定しながら考えているのは事実です。人は神の一部である、人の行動により神の一部が僅かだが成長するという見方のほうが少しは納得できます。
とりあえず現世で成長した結果は半永久的に続くと考えたいのです。
2010/8/3(火) 午後 4:53 [ 白鳥座X−1 ]
大吉さん。新緑の季節、生命力を感じ神を感じることはあります。実りの季節、生命力は感じられないですね。生きてきた結果をそれぞれの生物は実りとして現しているのでしょうね。“生命と愛”は間違いなく神からの授かりものでしょうね。
今は、現時点ではそう思います。
2010/8/3(火) 午後 6:10 [ 白鳥座X−1 ]
万物は集まって唯一つの真理を成していてその真理の全体が神である
と思います。
眼や鼻が顔の一部である場合とは異なり、直角が直角三角形の一部で
ある場合のように絶対に取り去ることの出来ないものであると
思います。
我々は神と一つであると思います。
その限り生まれることも死ぬこともない。これが『内なる人』で、
生まれたり死んだりするのは我々の『外なる人』であると思います。
神と一つであるとは神そのものであるのと或る意味で同じことでは
ないかと思います。(xp)
2010/8/4(水) 午前 2:52 [ xenophanesparmenides ]
xpさんは『内なる人』は取り去ることができない神の一部である。と言われているのだと思います。
私は人は一生なみなみならぬ苦労をして死んでゆく、その間に人は僅か成長する。しかし、その成長は見方によると非常に大きい、並々ならぬ苦労でしか得られない超えられない成長である。並々ならぬ苦労に直面した人にのみ与えられる勲章のようなものである。
一生かかってやっと『内なる人』が僅か成長する。その『内なる人』は見方によればそれぞれの人にとって非常に大事である。また神にとっても非常に重要である。また、それぞれ個性もある。もっと『内なる人』に人は注目すべきである。と思いますが。
2010/8/4(水) 午後 4:45 [ 白鳥座X−1 ]
仰る通りです。
ソクラテスもそういう考えでした。(xp)
2010/8/5(木) 午前 0:55 [ xenophanesparmenides ]
xpさん。ありがとうございました。
2010/8/5(木) 午前 10:51 [ 白鳥座X−1 ]