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目次 http://blogs.yahoo.co.jp/blackholen2007/39023973.html
「宗教 学んだこと」
3ケ月半ほど休みました。仏教について学びたいと思いましたが、能力不足のせいで思う存分学べませんでした。
中論とエチカ等(エチカは仏教ではありませんが)を読もうとしましたが、中論とエチカは両方失敗でした。そこで逃げて次の結論を得ました。エチカは難しすぎて理解するのに1年と言わなくても半年以上かかるであろう。中論は研究者にならないと理解できないだろうという結論です。さらに深く読もうとする気持ちもなくなり、そこでよくあるようにあきらめました。西欧の思想は外面的で、東洋の思想は内面的であるという考えは正しいと再確認できました。
この世に法は存在する。法とは、不充分ですが簡単に表現すると、自然の本質や倫理観を現したものと思います。法は絶対的でかつ実有であると説一切有部は説いたらしい。私はその考えに同調しましたが、法は現実に実存する「もの」であるという考えには同調しかねると思いました。
釈迦のほうが説一切有部より先人でしょうが、釈迦は法は実有するという考えを排斥する立場だったようです。また中論も法の実有を否定し、かつ現実の存在(見た目)を重視せず、内面を外面的発想(西欧の哲学的)で見ることもなく、表現は論理的ですが内面をそのまま見て内面的に感じ取っていたようです。
私の理解では法を超えたところに神や阿弥陀様が居られるように思いました。しかし、釈迦は神や阿弥陀様を説かなかったらしいです。言い換えると法の範囲で(?)捉われずに生きることを説いたらしいです。また、釈迦はここまで具体的かつ単純でもなかったのだろうと思います。釈迦が説いたのはあくまで内面の見方、それを通した生き方であったようです。ついでですが、釈迦の言葉とされるスッタニパータはよく判った気がします。
大乗仏教は法を超えたところに阿弥陀様がいるとしているらしい。私は大乗仏教の涅槃について疑問を感じました。浄土教では涅槃は金銀や宝石に彩られたところと言っている。どうして金銀や宝石を持ち出したのか非常に疑問です。また私は死後、金銀や宝石に彩られたところへ行きたいとは思わない。涅槃の思想は見方を変えると金銀や宝石を目標にすることを勧めているようにも取れる。ならば現実の世で金銀や宝石を求めて何らさしさわりないとも取れる。私は現実の世で金銀や宝石を求めようとする考えは大きな間違いであると思う。私は涅槃は内面的に優れた世界であって欲しかったと思った。
また、生き方(または宗教)と論は違うのではないかと思った。論を修めなければ生きていけないか。そうではないであろう。もちろん論は重要だと考えられる人も多いが、論はなくても生きていける。法を透かした先の神様や阿弥陀様を信じて生きていける。これが日本人の大多数の生き方であろう。(また、論を重んじてここに達することも大いにあるだろうと思った)。私も論は重んじない。私の生き方は大乗仏教的だ。金銀に彩られた涅槃は肯定しないが、外面的見方の多いキリスト教徒とは違っていると感じました。
以上、3ケ月半で学んだ判りづらい要約です。
追記
私は原子力発電に反対します。ウランの採掘から発電時の制御、廃棄物の処理や廃棄物の管理、廃炉の処理まで人体に大きな影響を与える可能性は否めません。特に地震の多い我が国ではさらに危険です。もっと安全な手法でエネルギーを得るべきだと思います。CO2を発生しない地熱発電またはエネルギー効率のよい燃料電池などの普及に力を入れるべきだと思います。
原子力発電の問題点についてのご質問はkyomutekisonzairon(http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon)さんにお聞きください。適切な回答が得られると思います。
2010/1/12
ブラックホール
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