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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

情報学方法論(情報社会学科 2年生向)2017 吉田寛

この講義では、「自らの研究について情報学の観点から講義」することになっています。
私は、すでに1,2年生向けの「人文社会情報学」関係の講義を多数持っているので、ここでは出身分野である「哲学」と社会情報学との結びつきを中心にお話しします。最初に、情報学を学んでいるが哲学にはあまり親しみのない学生を想定して「哲学」の紹介をして、ついで私自身の哲学的テーマや社会情報学とのかかわりをお話しようと思います。

「哲学」は、2500年ほど前の古代ギリシャからの連綿と現在までつづく知的伝統で、現在の「大学」や大学で研究・教育されている学問全般のルーツであり本質を構成している学問と言えるでしょう。ひとことでまとめるなら、「物事を表面的に受け取って終わりにせず、根本から考え直してみるという姿勢」ということになると思います。どんな学問でも、対象とする現象や活動について、ただ個々の現れを見たまま感じたままに記述するだけでなく、そこから共通の特徴や応用のきく作動原理などにさかのぼって理解しようとします。そういう意味では、すべての学問は哲学です。だから、哲学には固有の専門分野というものはありません。そこで、哲学はどの分野でもまったく役に立たない学問とも言われるし、逆に、あるゆる分野で役に立つ学問とも言われます。共通性という意味では「数学」と立ち位置は似ていると思います。

 ただ、とくに現在「哲学」という個別分野で(あるいみ)専門的に研究されるのは、あらゆる分野に共通しすぎていて、個々の分野に割り振られにくいテーマです。たとえば、「世界」とは何か、「人間」とは何か、「存在」とは何か、「善/悪」とは何か、「幸福」とは何か、「正義」とは何か、「心」とは何か、「知」とは何か、「美」とは何か、などのテーマです。こういった問いについての答えは、あらゆる分野の学問・活動に影響を与えます。情報システムや情報サービスを工夫して提案するにしても、たとえば「善/悪」の判断は基本的に押さえておかなければならないでしょうし、その上で「幸福」についての見通しを含むものでなければ、評価はされないでしょう。だから、専門的な哲学も、個々の分野や活動において、それなりに重要な意味を持っていると言えます。

 逆に、哲学にとっても、個々の分野の研究成果や、提案されたアイデアやサービス、社会における評価や動向、共有されているイメージや物語などは、重要な手掛かりです。固有の専門分野を持たないので、あらゆる専門分野での成果を(慎重に吟味しつつ)用いて考察します。よくある一つの手法は、個別の研究、提案や作品にどのような思想が隠れているかを読み解き、別の時代や別の分野に見られる思想と比較しながら、評価していく方法でしょう。たとえば、ホンダの提供する人型ロボット「アシモ」の思想と、手塚治の「鉄腕アトム」の思想を比較し、さらに古代ギリシャの「パンドラの神話」などと比べながら、ロボットについての現代日本社会の受け入れている思想を明らかにするといった方法が考えられます。こうして、時代の思想を明らかにすると、そこに「人間とは何か」「心とは何か」という哲学が読み取れるわけです。これを、さらにロボットではなく、特定の文化や宗教が保持しているとみられる「人間」についての哲学、社会に大きな影響を与えた人物や著作の哲学と比較することもできるでしょう。医療の分野から出てきた哲学と照らし合わせることもあります。

こんな感じで、重要なテーマについて、まず広く見渡しながら理解を深め、その上でその時代なり、その社会なり、あるいは自分なりに解答を出す(提案する)ということをします。こうして、個々の専門分野の活動者、研究者、生活者らに対して、「人間」「心」「自然」などについて、「こう考えてはどう?」「こう考えるべきじゃないか?」などと提案するわけです。ただ、ひとは基本的に保守的で頑固な存在です。またじっさい、新しい別の可能性を考えること、横から口出しされることは、個別の活動にとってコストでもあります。だから、提案がすんなりと受け入れられることはないし、憎悪や嫌悪の標的になることもある程度は覚悟しておく必要があります。ですが、事故や災害を考えても分かるように、いろいろな可能性を考えておくことはある程度必要なことで、ロボット開発やサービスにしても、頭を柔らかくしていろいろ考えておくことが賢いことだと思われます。専門分野の人は一つの可能性に向かって先頭を突き進むタイプだとしたら、哲学とは最後尾で、他の分野やここまでの道のりなども眺めつつ、自分たちの位置や方向を再確認する役割だと言えるでしょう。

 私が関わってきた哲学研究は、ウィトゲンシュタインという20世紀前半に活躍した哲学者の議論です。彼は、言語の研究を通じて20世紀の学問全体に「言語論的転換」と言われる大事件を起こした重要な一人です。数学や自然科学の分野で、何となくの共通了解となってきた基礎的な原理や定義、手続きや常識などが、論理的に整備されることになりました。人文社会系の学問分野ではさらに影響は大きく、言語をベースにすることで、西洋の既存の知や権威による、独善的な解釈や特権意識が鋭く問い直されるようになりました。ウィトゲンシュタインは言語をベースにすることで、当時あらゆる分野を説明・支配するかの見えた「科学」(的知識)の限界を検討しました。たとえば、「美」「価値」「宗教的領域」「私」「ルール」などについて、少なくとも普通の意味では合理的に議論したり、実験や観察によって答えを決めることができないと考えました。私の最初の研究は、なぜ・どのようにして、これらが科学的な知識ではないとウィトゲンシュタインが考えたのかを明らかにすることでした。

 では、私にとって哲学と社会情報学との関連はどのようになるでしょうか? たとえば、従来の典型的な人工知能は、言語によって知識を蓄え、ここに条件を与えると、この条件に応じた言葉、行動などを論理的演算によって抽出して返すというシステムでした。この仕組みで、ルールについて、あるいは自分自身について、扱うことができるでしょうか? 「ドラえもん」などの作品では、「できる」という思想が見られるかもしれないし、そういう思想を引き継いだ研究プロジェクトもありそうです。私が問題にしたいのは、たとえば本当にロボットが「自分自身」について考えることができているのか、あるいは「ただの一つの物体」について考えることができているだけなのか、という問題です。このとき、自分自身について言語を使って考えるというのはどういうことか、というウィトゲンシュタインの提案した(多くの哲学者たちが答えを試みてきた)議論、そして人工知能研究者、サービス提供・受容者らの考えを聞きながら、自分なりに答えを探し、よかったら社会に提案していくのが、哲学をベースにした私の社会情報学になります。

 テーマは、人工知能やロボットだけではありません。情報化する管理社会、地域社会と協働の在り方、哲学的思考の現代的なあり方などにも取り組んでいます。これからは、これからの時代における、自然や伝統、家族や友達などの意味にもっと踏み込んでいきたいですね。日本の哲学は、過去の哲学者の著作や思想と対峙しながら、その時代における自分の哲学を探究するのがオーソドックスなスタイルでした。私もそうやって哲学を学んできましたし、それが基本だと考えていますが、一方で、現代の他の分野の研究や活動、作品などから読み取れる思想、自分自身の活動や経験にもっと比重を置いて哲学をやっていきたいという気持ちは強く、その模索がしばらく私のテーマになっています。だから、私にとって、社会情報学は、情報化した現代社会のなかで哲学をやっていくという、ひとつの挑戦という意味があり、楽しくやっています。どんなキャリア、どんな分野のひとでも、どんな活動、生活をしているひとでも、自分に関わる問いとして「○○って何だろう」という(「哲学的」と私なら呼ぶ)疑問を持つひとと話すことは、私にとって最大の楽しみです。

おしまい。

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哲学2017 授業資料 「旅をする沼」「棘(おどろ)のみち」 社会と個人

社会と個人というテーマに関して、「旅をする沼」では、日本的な共同体(われわれ)について考えた。<私>に対する、「鏡が淵」では2人称、「重い実」では3人称、そして「旅をする沼」では1人称複数としての「社会」を意識した。<私>を私という存在者にするもの、すなわち私の存在の根拠にとしての社会を模索してきた。最終回の本日も、社会と個人というテーマについて、<私>のまた別の存在の仕方について考えてみよう。

「棘の道」では、ギンコを含めた「蟲師」たちの生き方に焦点が当たる。「蟲師」が社会的にどのような役割を負っているか、そしてその役割を蟲師たちがどのように受け止めているか。そこには、役割的な自己のあり方、そしてそれに収まりきらない自己が描き出される。

「役割的自己」は、「蟲師」に限った話ではなく、「教師」と「学生」、「お父さん」「お母さん」と「子ども」、「従業員」と「客」、「上司」と「部下」など、われわれの社会生活においてごく普通の存在の仕方である。これは、<私>という存在者にとって、結局は、自己の放棄なのか、自己実現なのか。それが、今回考えたい問いの一つである。100%役割に同化するということは、それがひとつの役割ということもあろうし、複数の役割を足し合わせるということもあるだろうが、それぞれ、自己を引き受けるということになるのか、あるいは自己をごまかしていることになるのだろうか。また、先週みた、「日本的共同体」とは別のあり方になるのか、社会に溶け込むという意味では同じ存在の仕方と考えるべきだろうか。

作中、「蟲師」には、普通の「村人」「お父さん」などとは少々異なり、それなりの特殊性が強調されている。それを「専門職」として捉える事ができるだろう。「専門職」とは、高度な特殊技術、専門知識や倫理的判断が必要な仕事について、それを備えた社会的役割(を担う)人々のことで、社会の側でもこれに対して育成や保護、身分や報酬の保証を提供することで職業形態として成立するとされる。ギンコの行動原理には、専門職としての「蟲師」を引き受けている様子が見られる。あらためて考えてみると、ギンコの自己紹介は「蟲師のギンコです」であり、作品シリーズのタイトルも「蟲師」である。では、専門職としての生き方とは、通常の役割的自己と同じものなのか、それとも異なるものなのか。「棘の道」では、この問いについて何人かの蟲師たちの異なる態度を読み取ることができるだろう。

参考:
波頭暁『プロフェッショナル原論』筑摩書房(ちくま新書)、2006
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』ポプラ社、2010
齊藤・岩崎『工学倫理の諸相』ナカニシヤ出版、2005
黒田・伊勢田・戸田山 (編)『誇り高い技術者になろう―工学倫理ノススメ』名古屋大学出版、2004

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哲学2017 授業資料 「重い実」 社会と個人

前回は、スワンプマンと恋愛に関連付けて、自我と他者の関係について考えた。
今回は、功利主義的な問題圏で、3人称と1人称という、見方について考察しよう。
2015年、2016年の議論を引き継ぐので、資料、参考文献はこちらを参考にしてください。

功利主義について、簡単に説明。2016年の資料参照。
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57374067.html

つぎに作品。「重い実」
ストーリーについては2015年の記事参照
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56851442.html

作品中、「ナラズの実」を使用するかどうかの問題に対する、祭主の功利主義的な判断をめぐって、われわれも考えさせられる。

Q:皆さんは、「ナラズの実」を最初に使用した祭主の判断に同意しますか?
Q:それはなぜですか?

Q:祭主は最後に「ナラズの実」を使用するのを躊躇したでしょうか。
Q:なぜでしょうか。
Q:皆さんは、祭主の最後のナラズの実を使用する判断に同意しますか?

功利主義は人間を、自分も含めて3人称的な対象として眺め、公平に功利を計算し、全体の最適を考えて最終判断を下すべきという考えです。
ただし、ここでは<私>の視点は抜け落ちているように見える。最終判断において、あるひとが<私>だったかスワンプマンだったかは、判断者にとって問題にならないだろう。いや問題にしようがないというべきか。

これに対してカントの黄金律には、「おのれの欲せざることを相手にするな」という、1人称から2人称へという発想があるように思われます。この原則はさらに、自分と相手だけでなく、万人に対しても当てはまるとき、それは正しい判断と言えるという考えですが。「万人」が1人称、2人称の連続に捉えられているようにも見えます。
ここでは、1人称の<私>と、3人称化された「万人」の間に、2人称の相手への慮りがあります。1人称の<私>にとって、自分がスワンプマンに入れ替わってしまうことは重大事件であることを確認しました。では2人称の相手はスワンプマンでありうるのかどうか、前回の検討を思い出してみてください。

功利主義の場合もそうですが、スワンプマンとの入れ替わりに気づきうるかどうか、という問題と、実際にスワンプマンになってしまったかどうかには大きな差があるように思います。少なくとも、2人称の相手が、スワンプマンに替ってしまっていたら、恋人や友人、家族にとっては大事件と捉えられるように思います。

作品中の祭主の判断、死に方には、2人称としての妻の存在と、その存在への態度が大きく関わっているように思います。どう考えますか?

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哲学2017 授業資料 「鏡が淵」「残り紅」 スワンプマンと恋愛

<私>=記憶、<私>=時間意識、<私>=遺伝子、身体と考えてきた。
今日は、「社会」について考える前に、<私>と私以外の者との関係を考えたい。
私以外の者として、第一に考えたいのは、やはりもう一人の私=「影」である。また、私を他者につなぐ関係として恋愛や愛情についても考えたい。と、ただの与太話になってしまっていないか少々心配だが、まあ書いていこう。

本体と影の話。
まずはスワンプマン=沼から生まれた沼男が影として活躍するお話から。

「鏡が淵」 
文字通り、沼から生まれたスワンプマンに危うくとって替わられそうになる。主人公は、失恋によって、自らを放棄しようとしており、自分の影であるスワンプマンに自分を明け渡しそうになっている。だが、ギンコの説得を聞いてすんでのところで自分を取り戻し、自分の意思の力でスワンプマンを撃退する。

そのままスワンプマンが本人になり替わっていたとしても、ギンコがいなければ、周りは気付かなかっただろう。失恋をきっかけに、人が変わってしまう、ということはよくありそうなことだが、そのとき、周りは気付かなくとも、もしかしたら本人も気づかなくとも、本体と影が入れ替わっているということがあるかもしれない。そのとき、乗っ取られた本人以外、どっちが本体でどっちが影だか、誰が言えるだろうか。

本体が本体として、強く自分を保つために、主人公には恋愛の相手が必要だった。恋愛は相手の承認によって、強い自己肯定感をもたらす。だが、同時に自分自身を相手に預けてしまうという要素があり、それは自分自身を危うくする。失恋で肯定感をなくして、自分を見失うこともあるだろうし、恋愛の中で自分をなくしていくこともあるだろう。<私>と他者の関係は、他者が<私>を支えてくれるという面と、他者が<私>を失わせるという両面があるようだ。

<私>が私であるためには、デカルト流に考えるなら、自分自身の強い意志が必要である。デカルトは、確固たる人生を歩もうと決断し、自分が漠然と信じていたものすべてを疑うというプロジェクトに着手する。ついに自分自身についても疑うに至るが、その時、もしいま自分が自分自身の存在について疑っているならば、疑っている自分自身は少なくとも存在している、ということを確信する。それがデカルトの「コギト(われ思う)」である。強い意志があってはじめて自分自身が存在を確信することができ、自分自身の人生を生きることができるというデカルトの態度は、「近代的自我」と呼ばれる。近代的自我の倫理的、法的責任を確立したカントの自我もまた、自分自身で自分のことを承認すると同時に、相手との相互性を理解して相手も尊重できる独立した存在者である。「鏡が淵」に、そうした強い自我を見出すことができるだろうか。

ところで、近代的自我は、唯一の相手との恋愛が生涯の結婚生活に結びつく近代的恋愛(ロマンチック・ラブ)の主体でもある。社会的に、成熟した近代的自我は必然的な他者(成熟した特別な自我=結婚相手)を必要とすると考えられてきた。成熟しているのに、恋愛と結婚が必要とはなぜなのか? もしも、自分自身で自分自身を確信でき、承認できたのであれば、さらなる承認を得るための恋愛はもはや必要ないし、ましてや、一生そうした相手に依存して生きていく必要などないのではないか。これが一つ目の謎である。そういえば、デカルトも、カントも結婚などしていない。

次に、「他者」なのに、「自我にとって必然的」、とは何やら矛盾しているようにも思える。
臨床心理学で、「自我にとって特別な存在」のことを「影」と呼んだりする。自分自身のコンプレックスやトラウマ、憧れなどの投影である。「自分にとって必然的な相手」とは、つまり「自分自身の影」のことであり、「近代的恋愛」とは、「自分の影」を「他者」に投影するシステムということになるのではないか。結婚相手は運命の相手でも何でもない、ただの他者だ、と言うとロマンがないようにも思える。だが、自分にとってだけ特別な存在、すなわち「自分の影」だと相手をみなす結婚生活も、ちょっと怖いように思えるが、どうだろうか。これを二つ目の謎と考えたい。

謎を解かないままに、つづいて「残り紅」
これは、文字通り「影」の話。「壜の中の少女」のように、「本体を乗っ取った影」の話である。「影」であった女は、本人も自覚のないままに本体になり替わって本体の本来の相手だった(?)男と結婚して一生を送るが、晩年に、ギンコの話を聞いて、突然自分が「影」であることを自覚する。「影」であることを自覚した女は、自分の人生を正しくないと考える。しかし、男も、おそらく入れ替わられた本体も、男と結婚して人生を送った女を承認しており、女は男と結婚したまま一生を終える。女の没後、男は自分自身が「影」になって、入れ替わられていた女を世界に戻す。

「影」だった女は、「影」であるゆえ、自分で自分自身を肯定することができない。従って、近代的自我ではない。従って、男とも近代的恋愛結婚をしたとは思えないし、入れ替わった女の身代わりに家同士の結婚をしたと示唆されているように思われる。というわけで、男の承認があってはじめて存在でき人生を全うすることができる存在であるというのは、整合的であるように思われる。

さて、「影」だった女は、入れ替わって以来、やはり本体だった女の「影」として生きてきたことがわかる。最初は躊躇しながらも、本体だった女の立場になり替わり、家、親、友達、結婚相手、などを受け入れて人生を送ったことがわかる。その人生を、男は「結婚して一緒に人生を送れて幸せだった」と肯定したが、それはもとの女の「影」として肯定したのか、それとももはや「影」としてでなく「本体」として、その女を肯定したのか。どの<私>との関係だったのか、「影」にまったく独自の<私>がありそれを愛したというのか、曖昧であるように感じられる。

さて、どっちの女が「本体」で、どっちの女が「影」だったのか。もし、それぞれが独立した人格だとするなら、男は、どっちの女を愛しているのか。最後に、男は「本体」だった少女の「影」になるが、それはどういう含意があるのだろうか。

「影」と「本体」にプライオリティはあるのだろうか。もし、同等だと考えるなら、私たちも「影」と同じ資格の存在者ではないのだろうか。すなわち、「本体」であるからといって、自分を肯定できる理由になるだろうか。「本体」もまた、近代的自我ではなく、他者による承認が必要なのではないだろうか。

----------参考----------
「影」について
『影との戦い―ゲド戦記〈1〉』アーシュラ・K. ル=グウィン(清水訳)、岩波(少年文庫)、1976
『ファンタジーを読む』河合隼雄、岩波(現代文庫)、1996=2013
『 Love in the Western World』Denis de Rougemont 、1940

恋愛
『恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容』谷本奈穂、青弓社、2008
社会学のすゝめ 第32回「恋愛と結婚の社会学―ロマンティック・ラブの行方―」(JMAリサーチ道場)、小林祐児、2014/06/26、http://blog.jma-net.jp/article/400355510.html
『ジェンダー論:近代社会と結婚 4』椎野ゼミナール(立教大国際学部)2014.5.12
http://www.bunkyo-shiino.jp/gender/1129

近代的自我
『省察』デカルト(山田訳)、筑摩(学芸文庫)、1640=2006
『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一、講談社(現代新書)、1996
『モダニティと自己アイディンティティ』A.ギデンズ、ハーベスト社10991-2005
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【哲学2017】第11回 「スワンプマンと<私>2」 (『蟲師』 「海境より」)

<私>=記憶、<私>=時間意識、<私>=遺伝子といった可能性を考えてきた。
今日は、<私>=身体、というアイデアについて検討しよう。

「海境より」 
このお話では、婚約者はそっくり蟲に入れ替わっている。記憶やキャラクターまで保存されている。スワンプマンならぬ、「蟲女」なわけだ。婚約者は精神も身体もすっかり蟲にコピーされている。(もっとも、ここで、蟲女は果たして本当に記憶や意識を持っているのか? と問うことができるだろう。「夜を吸う群れ」の生き神のように、サイボーグならぬロボットのように、「一夜橋」のゾンビのように、意識がない、あるいは意識がずれてしまっているが、あたかも意識があるかのようなふるまいをしているという可能性もある)。ともあれそして、再開後、蟲女は蟲の原理に従ってすぐに揮発してしまう。

ポイント:
揮発してしまう直前の蟲女=婚約者なのか? 時間のずれ、素材のずれとどう考えるか?
もし揮発してしまわなければ、蟲女=婚約者と考えてよいか?
 ≒サイボーグ?「攻殻」、フランケンショタイン、生体移植
 「どこでもドア」から出てきたのび太君は果たしてオリジナルと言えるか?
 
オリジナルの人型の存在しないオリジナルの「蟲女」は人間か?
 一人称的視点、三人称的視点の区別
 ただし、一人称でも三人称でもどちらの視点でもオリジナル/複製問題には勝負はつかないだろう。それぞれ、別の意味で、対等だから。
 「壜の中」、残っていれば勝ちなのか? 
 「遺影」の情報化:私の死後の「ボット」は私か?

永井:自意識は自意識を疑うことができない(≒デカルト)。コピーであれ、オリジナルであれ、自分は自分。いま、ここ、私、こそ、絶対であり、<私>=世界=生である。

吉田:「どうして子供を産むの?」→「自分の遺伝子を残すため」と答える相手には、この話をしたくなる。だが、あまりに乱暴な捉え方であるとの印象はぬぐえない。ときに、ひとは「私は本来の私ではない」「私は変わってしまった」「私は私ではないみたいだ」などの気持ちを持つ。なぜ、そう思うのかは、重要であろう。

本物と複製を際立たせるもの
1:複製の内部の時間とは別のオリジナル・社会の時間
2:複製の存在とは別のオリジナルの存在
では、
オリジナルが、オリジナルの時間の中で、グラジュアルに細胞が蟲に入れ替わっていく場合はどうか? これは「成長」そのものではないか? SFの問いかけるSF的問いは、実は成長して老いていくごく当たり前の私たちの課題なのかもしれない。

それはそうと、その議論で忘れられているものがあるのではないか。二人称に着目。人形使いはなぜ素子を求めるのか? なぜ、壜から出てきた女の子は、もとの女の子のすべてを奪おうとするのか? 婚約者を蟲に奪われた男は納得しているのか?

複製をオリジナルとして扱おうとする、社会あるいは二人称的な相手(それを「あなた」と呼ぶ人)は、誰にとっても重要な存在かもしれないが、このオリジナル/コピー問題にとっても重要だろうか? つまり、たとえば、彼の好意を勝ち得た方がオリジナルになるなど。あるいは、社会の中での役割(三人称的性質)が争奪の対象になっているのかもしれない。いずれにせよ、三人称、二人称的な存在は、一人称的な存在と切り離せない。

資料は先週と共通で、とくに『マンガは哲学する』永井均、岩波書店、2000-2009から、配布資料を抜粋しました。

昨年度の資料も参考に
2016年度 https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57365216.html
2015年度 https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56841520.html

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