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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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【哲学2015】 日本の思想 4 『蟲師』の思想1 「枕小路」
 
前回まで、西洋哲学の基本的概念を古代、近世・近代、現代と確認してきた。「魂」「イデア」「観念」「意識」「主観」「社会」「他者」「自然」といった概念を確認した。今日からは、これらの概念にも言及しつつ、作品の分析をしていこう。

要約
予知夢を見るジンという男が、自らの夢との関係を崩してしまい、周囲と自らを破滅させる話。
ジンは、その力でメリットを当てたりリスクを回避したりすることができ、村人と家族を幸福にできることに気がついた。だが、薬でその力を一定の範囲にセーブするようにとのギンコの助言に従っていたときに、自分の夢によって大きなリスクを回避することができなかった。ジンはギンコの助言に従ったことを後悔し、力をセーブすることを止めた。ジンの力はじつは、予知夢ではなく、夢を実現する力だったので、ジンが悲劇的な夢を見たあとその悲劇が現実のものとなり、ジンは自分の家族も社会も失ってしまう。ジンは、それを知り、自らの力を破壊し、自らを滅ぼしていく。ギンコは何もできない。

分析

技術と社会の関係性について
リスクを回避したいと思うのは古今東西人間の常である。予知はビッグデータに代表される現代の技術の目標でもある。この話は、ジン&村人と技術との関係と見ることができるだろう。ある技術によってあることが実現すると、人はそのマイナス面には目をつぶりたがり、その力とその成果を当たり前と考えるようになりがちである。村人は、最初はジンの予知の力に疑問や警戒を持たず感謝していた。ジンの妻もジンの力のおかげで生活が豊かになることに疑問を持たなかった。ジン自身は最初は警戒心や違和感を持っていたが、次第に村人や妻の言葉に流されて、予知ができて当たり前という気持ちになった。そこで、予知が失敗したとき、村人はジンを責め、ジン自身も自らを責める。そして力を解放することで、その力の副作用が出てしまい、村は壊滅し、妻も死んでしまう。廃墟となった村は、原発事故で放棄された町々を見るかのようだ。

ギンコを専門家と見るなら、現代的な観点からは、ギンコには何かできたのではないか、何かなすべきだったのではないかという気はする。妻の言葉や、ギンコの傍観者的な悲しみからは、作者の「誰も悪くない」という運命論的なメッセージを読み取るなら、そしてこれを「日本的」とも考えることができそうだが、この考えにはリスクとの向かい合い方、技術や自然との関係性という観点からは、同意しがたい。物語の展開には新奇で都合のよい力への警戒感、ギンコの助言の重み、津波に対する対策、リスクの引き受け方などの点で批判・改善すべき面があり、技術に対するより慎重な向き合い方と自然への警戒心、専門家の責任性を再考する余地があると考えるべきだろう。

予言と自由意志、社会
予言は、未来を現在知るということである。それは、言語に未来形を持つ人間の本質的な力なのかもしれない。科学は、法則によって、現在の状態から未来の状態を推定する知でもある。だが、予言の存在はいくつかの哲学的混乱を引き起こす。まず、決定論と自由意志の問題である。予言の存在は、未来が現在の上に決定されていることを前提とするように思われるが、その場合、自由意志の存在する余地はなくなるように思われる。また、自由意志が認められるなら、予言は成立しないように思われる。端的に、予言を聞いた本人が予言を覆すことができるなら予言は成立しない。

他方で予言の自己成就という問題がある。人は予言を知ることで、むしろそれに引きずられてそれを引き起こしてしまうというケースである。例えば、「ある株が暴落する」という予言に引きずられて、その株主がパニック的に売られ、実際に株が暴落するという類のことは経済のみならず政治の世界、あるいはスポーツとうの競技・競争の世界などでも生じる。この場合、予言は予言ではなく、むしろ神の命令ないし号令として機能しており、その社会性・マネジメントなどについて考慮されるべきだろう。作品では、じつは予言は予言ではなく、まもなく実行されるべきジンの意思を表現する命令文の翻訳に近いものだった。ジンの意思を起点に予言と世界とはフォーク的な因果関係をなしている。「夢野間」という蟲はこのフォーク的因果関係を形成するシステムとされている。

このフォークを考えよう。夢に現れるジンの意思自体は自由にならない(としたら神の意思であるのと同義だと思われる)としても、意識化するかどうかの問題がギンコが問題にして薬で調節しようとした部分であり、予言するかどうかの問題はジンの意思の問題である。
まず、少なくとも、ジンが夢が自分の意思であり、自分が社会を破滅させたと決め付けて自分を責める妥当性はなさそうである。作中、なぜジンが、例えば神の意思を感じているだけではなく、自らが現象を引き起こしていると考えるに至ったのかは興味深い。じっさいに、引き起こしていたのは、ジンと蟲の期せずしての共同関係だったわけだが。

また面白いのは、ジンは自由意志で予言を口にすることができ、そして予言をある程度外して回避することができるかのようなところである。すると、ジンは100%夢を意識化できるなら、自分の意思をトータルである程度管理していることになる。さらにこのとき、ジンは仮に夢の内容には自分では介入できないとしても、リスクを最大限避けられうることになる。そう考えるなら、ギンコが薬でジンの夢と意識の間に障壁を作り出したこと、あたかも夢をただの夢であり意識化したりリスク回避に全力をあげなくてもよいかのように説明したことが、悲劇を引き起こした(ことを知っていて防止しなかった:不作為の行為)とも指摘できるだろう。かなり複雑である。

無意識の自己との関係性
ギンコがジンに知りうるすべてを告げなかったのは、その時点では夢野間の生息場所を特定することができなかったこともあるかもしれないが、夢野間はジン自身にとって致命的に必要なものであり、撲滅できないと考えたからであるように思われる。

この判断も理解できるが、ジンは「なぜ私(あるいは夢野間)を殺してくれなかったのか」という問いを発する。ジンにとって、村や家族は自分よりも大切な存在だったのかもしれない。あるいは、功利主義的な発想で、社会的被害の最小化を善と考え、自己の死よりも家族を含む村人すべての死を悪と判断したのかもしれない。あるいは、共同体主義的な発想によって、村人と家族が失われた場合の自分の生を意味のないものとカウントしたかもしれないが、ジンの悲痛な叫びには、あたかも家族や村人たちを自己以上の自己と見なす共同主観性ないし他者主観性とでも言うべき態度が感じられる。利己的遺伝子による説明でカタがつくとも思えない展開だが、なかなかに説得力のある言葉であり、「日本的」思想としての整形が期待されるところかもしれない。

ギンコの判断自体に、まず、夢は「魂の倉」であって、人生の三分の一を担う大切な時間を占めるもので、それを切れば致命的な何かをうしなうゆえ、ジンの人生を配慮して踏み込まなかったという説明が提供される。結果、上記のような悲劇が生じ、ギンコ自身も自分の判断をやや後悔している風でもある。ギンコは、確実に失われるジンの人生と村などが破滅するかもしれないリスクを天秤にかけたのかもしれない。上記の功利主義によって、ジンを犠牲にするという疫学的な対処は倫理的にも正当化されそうだが、ギンコは専門家であるけれども専門職のような公益性を配慮する立場には立たなかったということかもしれない。また、物語はそうしたギンコのスタンスを必ずしも否定はしていない。

さて、夢に代表される無意識、あるいは意識化されない何かとの向かい合い方は興味深い。近代は、こうした意識化されない領域を、宗教や迷信、夢や空想、未開、未熟の領域として排除してきたが、宗教は依然として続いているし、フロイトやユングら、あるいはグリムや柳田らの民俗学などが改めて学問的に焦点化したという経緯がある。意識と言葉への信頼が重い西洋近代に対して、そうでもない東洋が対置されることがある。
科学で言語化されない部分があるのかどうか、あるとしたら、どのような態度をとるべきかについて、近代科学自体はもちろん解答(そして問いもまた)を持たない。ギンコはそうした領域を、ジンという人間の一部と見なすというアプローチをとっていた。それが作品では悲劇を引き起こした要因の一つだが、作品はギンコを責めずそれならそれを受け入れるべしと言わんばかりである。
私としては、作者のこの基本姿勢には同意しつつも、意識化・言語化できる部分で、かつしなければリスクが甚大であることが専門家にわかるケースでは、専門家は意識化してしかるべき対応をもとめるのが義務であるように思う。だが、それは一般の人々には受け入れられにくく、とくに結果がリスク回避である場合には、社会は専門家の言葉を聞きたがらないし、ジンがそうであったようにじっさいに聞かないだろうと思う。

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