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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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【哲学2015】 日本の思想 10 個人と社会  『蟲師』「重い実」より
 
前回まで、『蟲師』「海境より」「一夜橋」、そして永井均『マンガは哲学する』の「もうひとりの私−高橋葉介「壜の中」」などから、一人称の主体としての<私>の問題について考えた。まず、レポート「私について」にコメントしてから、今度は『蟲師』(原作3巻、アニメ9話)「重い実」から、個人と社会の問題に目を広げよう。
「<私>は存在する」と考える人が多数派で、そう考える理由、<私>が存在する条件として、以下の要件が挙げられた。
感情、思考パターン、記憶、性格、他者、…
確かに、これらが私を構成する大切な要素であることは間違いない。そして、これらは内面性、精神性に関わるファクターであり、「壜の中」で私を奪ったもう一人の私と共通していた外面としての「姿」とは異なる。だが、それでもこれらは、三人称に置換可能な「私」を構成する要素でもある。だから、これらの内面的要素が共通するコピーが現れたら、それはもとのこの<私>とは別個の存在で、それを<私>とは言えないと考えるのではないだろうか。このアプローチでは、さらに、記憶、感情、思考パターンなどの、どのようなあり方が必要なのか、さらに深める必要がありそうだ。
ちょっとちがうアプローチとしては、<私>の存在には、自己知が必要というデカルト的な発想、あるいは<他者>による<私>の認知が必要という見解もいくつか見られた。『蟲師』「緑の座」の祖母と少年の関係も思いださせる見解だが、その認知が果たしてどのようにして可能なのか、そしてその認知がどのようにして<私>を発生させるのかは、やはり深める必要があるだろう。
他方で、少数派として、<私>は存在しない、存在する必要はない、論証できない、信仰にすぎないという見解もあった。こうした立場は、一見否定的なように見えるかもしれないが、必ずしも一律に不安や虚無に陥る必要はないだろう。だからこそ「信仰」があるとか、終わりのない「<じぶん>さがし」に迷いつづけなくてよいとか、<われわれ>を大事にしよう(ただし、これは問題の先送り?)などの、前向きな?問題回避は考えられる。
最後の<われわれ>の問題が今日「重い実」で考えたい問題である。「われわれ」は「われ」の集合なのか、<われ>の集合は<われわれ>なのか。あるいは<われ>の集合が「われわれ」に変質して回収・総合されるのだろうか。

「重い実」『蟲師』(原作3巻、アニメ9話)
その貧しい村では、凶作の年には、祭主が「ナラズの実」を使って豊作にする。ナラズの実は、豊作をもたらす代償に、必ず一人の村人の命を奪う。祭主は、大勢の村人の命と村の継続のため、ナラズの実を使ってきたが、身近な者の死を眼にして、その決断の重さに悩む。そして、ある凶作の年、自分の命を代償にするのを最後に、居合わせたギンコの協力を借りて、その実の使用を永遠に封じることを決断する。
祭主の決断は、「最大多数の最大幸福」を善とする功利主義の考え方によって、倫理的に正当化されるだろう。一方、「人を殺してはならない」という倫理の原則に従うことを重視する義務論の立場からは、正当化されないように思われる。祭主の決断は、こうした倫理の演習問題のようにも受け取れる。
しかし、物語での祭主の実際の決断は、そういった人数あわせだけの結果ではない。苦労して共同で作り上げてきた村の歴史や暮らしという、カウントし難い価値、そして自分が罪を被ってでも守らねばならないという義務感、自分が黙っていれば<罪>(?)は「罪」にならないというかのような思いなどが重なって、まよいつつ実の使用に踏み切ってきたと見える。そして、使用停止の判断、必ずしも義務論的な判断に拠るのではなく、自分の妻がその実の使用によって犠牲として亡くなったという事実から、犠牲となる<私>の内面を強く感じることで、使用を躊躇することになったと読み取れる。それでもなお、自分の命と引き換えに最後に実を使用することを決断する祭主の態度は、何を動機とするものだったのだろうか。
こうした展開は、西洋的な倫理問題とは異なる問題圏にあるようにも見える。日本的な「われわれ」については日本的「公」と「私」をめぐる議論が、明治以来繰り返されてきた。福沢諭吉、和辻哲郎、ベネディクト・アンダーソン、そして丸山真男、篠原一などなど。「重い実」は日本的な「公私」の内面構造を表しているのだろうか。

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    功利主義・・このあまりに日本的な農耕民族ならではの思想について、
    実例として飯田(下伊那地域)に根付く“結いの精神”を挙げたいと思います。

    この地域にはかなり近年まで小中学校に“稲刈り休み”なるものがあり、農繁期には家族総出で農作業をするのが当たり前だったとか。
    今では“稲刈り休み”はもう廃止されたのですが、“結いの精神”(共同作業の大切さ)という言葉は「この地方ならではの美徳」とされています。


    それが故に「なるべくならトラブルは起こしたくない」という事で、女性はよく
    「女が黙っとれば事は丸く収まるんだでな」と言います。


    長男が低学年の頃に私は車で子供を送り迎えしていたのですが、駐車していた公民館で職員の女性の車と接触事故を起こしました。
    相手にも過失があったためそれを指摘したのですが彼女はそれを認めようとせず、
    夫を呼び出して「私はこれから仕事があるから」と言って話し合いをダンナに丸投げしてしまいました。

    そのダンナいわく「あんたが大人しくしとれば丸く収まるんだで」 削除

    [ 茶白 ]

    2017/10/8(日) 午後 2:35

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    事故の現場はそのままだったため、私が「奥さんはいつもこんな停め方をするんですか?」と言ったら
    「おぉ〜、恐い女。やだやだ。」・・話になりません。

    幸い自動車保険に弁護士特約を付けていたのでこれを利用して何とか解決しましたが、私はこの一件で“結いの精神”の精神性とそれによる弊害を実感しました。

    “われわれ”を守ろうとするために、皆で“われ”に犠牲を強いる。
    これが功利主義の正体です。



    あぁ飯田に帰りたくない・・
    仕事探しを理由に、恒と行動を共にしようかしら・・・ 削除

    [ 茶白 ]

    2017/10/8(日) 午後 2:35

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