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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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【哲学2016 第五回 「枕小路」から夢と現実について考える&哲学・思想の本について】

今日は、「枕小路」という話から、1600年ごろに活躍した哲学者デカルトの考察を例にとって「夢」と「現実」について考えよう。また、本の読み方について説明します。

昨年度の資料は下記です。夢についてだけでなく、予知、予言と自由意思について考えました。
【哲学2015】 日本の思想 4 『蟲師』の思想1 「枕小路」
http://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56791184.html

バーチャルリアリティの名作映画である『マトリクス』の中で、主人公は、「君は覚めない夢を見たことがあるか?」、また、「夢と現実の区別はどうつけるのか?」と問われる。映画では、バーチャルリアリティの技術によって、人々は「覚めない夢」を「現実」として与えられ、生かされている。中国の故事「邯鄲の夢」も、盧生という若者が、邯鄲という町で昼寝をしている間に、立身出世を遂げる夢を見るという話だ。どちらの話も、現実と夢の違いはどこになるのか? 人生は夢ではないのか? もし夢の方が望ましいなら現実を選ぶ理由はあるのか? という問いかけを持っている。

デカルトは、神と信仰が中心だった中世的な意識の改革を行って、近代科学のスタートに大きく寄与した人物である。彼は、あるとき、今までに自分が教わってきた知識はすべてウソや思い込み、間違いだったのではないか、と疑うことを決意した。これは、デカルト個人の意識の問題であると同時に、信仰をベースにした当時の西洋世界の知識全体を疑うという壮大な学問的プロジェクトでもあった。これは、確固たる学問的知識の基礎を得るための手続きであり、信仰から科学を切り離すための作業だったとされる。だから、少しでも疑いうるものは、絶対に確実ではない知識として排除して、もはや疑いえない確固たる基礎を得ようとするのである。また、この作業中は、暫定的に、今まで自分が生きてきた信仰を含む常識的知識を、生きるための知識として仮採用するとも言っていて、なかなか慎重な配慮もしている。

デカルトは、まず人から聞いたことは絶対確実とは言えないので確固たる基礎ではないとする。では、自分の感覚や体験はどうか? これも錯覚ということもあるし、もしかしたら夢を見ているのかもしれないということを排除できないと考える。しかし、夢の中でも数学や論理はやはり正しいのであって、絶対確実なのではないか? ところが、数学もまた、もし悪い霊を想定して、数学をする私をそのつどだましていたとしたら、やはり、この最悪の想定の中では絶対に確実とは言い難い。もうだめだ。というところで、デカルトは、もしかしてこの疑っている自分の意識・思考が存在するということだけは確実であり、疑いえないのではないかと思い当たる。なぜなら、もし私が誤るとしたら、あるいはだまされるとしたら、やはり疑っている私が存在するということだから。これを一言で言うなら、「われ思う故にわれあり」(コギト・エルゴ・スム)となる。

デカルトは、こうして、夢と現実の判断は、感覚的経験や体験、そして論理によっても不可能であるといったん考える。もっとも、「コギト」に到達した後は、その「われ」が明晰判明に感覚したことは正しいはずだと考え、感覚と思考による現実世界の科学的探究に道を開くわけであるが。皆さんなら、夢と現実の区別をどうやってつけることができると考えますか? また、現実が夢ではないとどうやって知ることができるでしょうか?

紹介したデカルトの哲学に関連して、哲学や思想の本の種類について説明します。

上記のデカルトの考察は『省察』(デカルト:三木訳、岩波書店:岩波文庫、1949年)という本で展開されていて、これはいわゆる哲学の「古典」であり、日本では文庫化されていて手軽に入手できます。これは『Meditations de …』という1641年が初版フランス語の本(「原書」と呼ばれる)の翻訳になります。古典的な著作は、哲学や思想のコアであり、これこそが人類の得てきた英知(の表現)であると言えるでしょう。

これに対して、たとえば論文集の『デカルト読本』(湯川・小林編著、法政大学出版、1998年)や、単著である『デカルト哲学とその射程』(小林道夫、弘文堂、2000年)などは「研究書」と呼ばれます。研究者や研究分野によって、論文中心か単著中心かの両方がありうる状況ですが、研究者の棲息域はこのあたりです。古典的な思想を研究した思想研究・哲学研究の本というわけで、古典を「一次文献」とするなら、「二次文献」と呼ぶことができます。研究者向けに書かれていて、古典をすでに読んでいること、哲学の教科書的な知識があることを前提に、できるだけ厳密な検討のため学術用語が多用され、一般の人には読みにくいものです。ただ、こうした研究を踏まえないと、なかなか古典を深く正当に評価して、その思想的パワーを十分に引き出すことは難しいので、哲学・思想研究者には不可欠なものです。

いきなり自分の思想を展開する「原書」を書いてしまうこともできますが、哲学研究の文脈に収まっていないものは、哲学的な仕事として正しい評価をえて古典となっていくことはかなり難しいでしょう。研究書のうち、一次文献の分析だけでなく、オリジナルな論考を多く含んでいるものが評価されて古典となっていくパターンの方がやや考えやすいかな。

ついで、たとえば、上記の小林による『デカルト入門』(小林道夫、筑摩書房:ちくま新書、2006年)は初学者・一般向けの「入門書」「解説書」「啓蒙書」で、できるだけ専門用語を前提としないで大事なところを、専門的研究を背後で踏まえて、うまく解説しています。従って、「三次文献」と呼ぶこともできるでしょう。1966年の『デカルト』(野田又男、岩波書店:岩波新書)などが定評を得ています。解説書には、上記のように特定の哲学者やテーマに焦点をあてたものもあれば、『哲学の謎』(野矢茂樹、講談社:現代新書、1996年)、参考文献にも載せた『物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために』(伊藤邦武、中央公論社:中公新書、2012年)のように広く哲学一般を解説するものもあります。「新書」の形式がわかりやすいし手頃ですが、必ずしもそういう形をしているとは限りません。

新書も初学者向けの「教科書」になり得ますが、もうすこし専門的なたとえば文学部や哲学科の学部生や専門の異なる哲学研究者向けに書かれた「教科書」「解説書」もあります。たとえば、『デカルト』(伊藤勝彦、清水書院1967年)や『デカルトとその時代』(野田又男、筑摩書房、1971年)などですが、最近はやや厚めの新書(入門書寄り)や論文集(研究書寄り)などで出版されることが多いかな。

映画『マトリックス』やSF小説『シミュレーションズ ヴァーチャル・リアリティ海外SF短編集』(朝倉他訳、ジャストシステム1995年)、『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』(ゴンデル:池田訳、NHK出版、1991=1995年)、そしてこの講義で扱っている『蟲師』(マンガ&アニメ)などは、哲学的・思想的な「読み物」「作品」として、思想を深めたり検討するうえで価値ある媒体だと思いますが、解釈が一定しないという性格によって、厳密性や正確性の点で、知識表現としては、上で説明した知識媒体の補助的な役割に止まるのではないでしょうか。

だいたいこんなところでしょう。ちょっと長くなりましたが、知っておくと便利な本の種類の大雑把な区別です。

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