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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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【哲学2016】 社会と個人「重い実」「旅をする沼」

本日の作品鑑賞・検討

<私>の問題について考えてきた。今日から2回、社会に関わる作品を見つつ、<私>ないし「個人」と社会をめぐる思想を検討しよう。
議論に当たって、背景となる当時の思想(歴史上/作品の想定)、当該コミュニティの思想、ギンコその他の登場人物それぞれの思想、作品・作者の思想を区別には注意。さもないと、何を論じているのかもわからなくなるだろう。
参照する作品は、皆のために一人が犠牲になる、というイベントを通して、個と全体について考えさせる。

まずこうした犠牲を肯定する方から。
「功利主義」から考えよう。功利主義は、基本原則として、「最大多数の最大幸福」をモットーにして考えるので、多数の幸福のために少数が犠牲になるのは是認される。ただし、数だけではなく、苦痛の総量が問題なので、一人が絶大な苦痛を伴う場合は、それとしてバランスをとって考える必要はある。
つぎに、日本の保守層は「伝統的日本的共同性」を「公=国家=天皇」と考え、これをよいものとして想定する傾向がつよい。たとえば、現首相の『美しい国へ』では神風特攻隊について、この点で評価する観点を示している。小川は、「和の弁証法」と呼んで、日本的な同調傾向を肯定的にとらえている。

こうした日本的共同性は、丸山真男や吉本隆明ら戦後のリベラル思想家によって、集団による無責任主義として批判されてきた。現在でも、人間関係においては「キャラ化」(土井)、社会的責任については「原発と津波に対する不作為」(添田)などが、この方向で日本社会に警鐘を鳴らしている。
「個の倫理」を重んじる西洋社会に対して、「場の倫理」を重んじる母系社会の日本、として捉えるのは往年のユング派心理学者の大物、河合隼雄である。


問:個人が社会のために生きることについて。社会のために行動する。社会のために犠牲になる。
個人にとって社会とは何か?

2015年度 授業資料
6月30日「重い実」http://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56851442.html
7月7日「旅をする沼」http://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56860999.html

参考資料:
児玉聡『功利主義入門』筑摩(新書)、2012 
安部晋三『美しい国へ』文芸春秋(新書)2006 保守思想
小川仁志『日本哲学のチカラ』朝日新聞社(新書)2013
丸山真男『日本の思想』岩波(新書)1961
吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』 角川(ソフィア文庫) 、1968=1982
土屋隆義『キャラ化する/される子どもたち』岩波(ブックレット No759)2009
添田孝史『原発と大地震 警告を葬った人々』岩波(新書)2014
河合隼雄『母性社会 日本の病理』講談社(+α文庫)、1976


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