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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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【哲学2017】第十回 「スワンプマンと<私>」 (『蟲師』「沖つ宮」より)

第10回-  <私>とは何か

「暁の蛇」から記憶=私というアイデア、そして、「露を吸う群」で<私>と時間について検討しました。「沖つ宮」で、<私>の同一性について検討しましょう。

まずは、リンク。
【哲学2015】 日本の思想 6 時間論 『蟲師』「沖つ宮」
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56810859.html

【哲学2016】 記憶と自我 『蟲師』「沖つ宮」「暁の蛇」
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57338419.html

「沖つ宮」では、人間は生み直され、永遠に生きながらえるとされる。ips細胞、クローン技術が発達している現代を振り返ろう。
産み直された子どもは、本当に本人が産み直されたと言えるだろうか?
もしも、記憶もオリジナルと同じだったら、第三者的には、つまり3人称としては同一である、と言えるだろうか?
では自分自身にとってはどうだろう? 一人称の「私」は、産み直されたことになるだろうか?
最後に、二人称、つまり「あなた」としてはどうだろう? 相手が産み直された存在であるとしたら、それは、相手に対してオリジナルに対してと何かが変わるのだろうか? 

物語では、産み直しに対して、相反する二つの立場が交錯する。ギンコは、ある親子の物語に介入するが、問題自体には根本的に介入しない。現代に対しても遠く問題が投げかけられる、不思議なお話である。

私が内面(記憶、意識など)と外面(姿、立場、属性)からなるとする。私の内面が失われる場合、私の外面がコピーされる場合、を『蟲師』から考えた。私の内面だけコピーさっるのが『攻殻機動隊』の素子、外面だけ失われるのは??、内面と外面がコピーされるのは『壜の中』の少女だ。
それぞれSF的な思考実験であり、昨今は現実のテクノロジーともなってきたけれど、本当のポイントは、こういう特別な事態があるかどうかではなく、こういう特別な事態から、われわれの日常の<私>について手がかりをつかむことだと思う。

今日は、永井の解説に従って、『壜の中』を検討してみよう。手塚治虫にも、『蟲師』にもある、クローンの話だが、内面まで共通化されていることで、論点がより絞られている。



参考文献を紹介する
『コウモリであるとはどのようなことか』ネーゲル、勁草書房、1989
『マンガは哲学する』永井均、岩波書店、2000-2009
『私とは何か 「個人」から「分人」へ』平野啓一郎、講談社現代新書、2012
『じぶn・この不思議な存在』鷲田清一、講談社現代新書、1996
『我と汝』ブーバー、岩波文庫、1932=1979

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