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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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【哲学2017】第11回 「スワンプマンと<私>2」 (『蟲師』 「海境より」)

<私>=記憶、<私>=時間意識、<私>=遺伝子といった可能性を考えてきた。
今日は、<私>=身体、というアイデアについて検討しよう。

「海境より」 
このお話では、婚約者はそっくり蟲に入れ替わっている。記憶やキャラクターまで保存されている。スワンプマンならぬ、「蟲女」なわけだ。婚約者は精神も身体もすっかり蟲にコピーされている。(もっとも、ここで、蟲女は果たして本当に記憶や意識を持っているのか? と問うことができるだろう。「夜を吸う群れ」の生き神のように、サイボーグならぬロボットのように、「一夜橋」のゾンビのように、意識がない、あるいは意識がずれてしまっているが、あたかも意識があるかのようなふるまいをしているという可能性もある)。ともあれそして、再開後、蟲女は蟲の原理に従ってすぐに揮発してしまう。

ポイント:
揮発してしまう直前の蟲女=婚約者なのか? 時間のずれ、素材のずれとどう考えるか?
もし揮発してしまわなければ、蟲女=婚約者と考えてよいか?
 ≒サイボーグ?「攻殻」、フランケンショタイン、生体移植
 「どこでもドア」から出てきたのび太君は果たしてオリジナルと言えるか?
 
オリジナルの人型の存在しないオリジナルの「蟲女」は人間か?
 一人称的視点、三人称的視点の区別
 ただし、一人称でも三人称でもどちらの視点でもオリジナル/複製問題には勝負はつかないだろう。それぞれ、別の意味で、対等だから。
 「壜の中」、残っていれば勝ちなのか? 
 「遺影」の情報化:私の死後の「ボット」は私か?

永井:自意識は自意識を疑うことができない(≒デカルト)。コピーであれ、オリジナルであれ、自分は自分。いま、ここ、私、こそ、絶対であり、<私>=世界=生である。

吉田:「どうして子供を産むの?」→「自分の遺伝子を残すため」と答える相手には、この話をしたくなる。だが、あまりに乱暴な捉え方であるとの印象はぬぐえない。ときに、ひとは「私は本来の私ではない」「私は変わってしまった」「私は私ではないみたいだ」などの気持ちを持つ。なぜ、そう思うのかは、重要であろう。

本物と複製を際立たせるもの
1:複製の内部の時間とは別のオリジナル・社会の時間
2:複製の存在とは別のオリジナルの存在
では、
オリジナルが、オリジナルの時間の中で、グラジュアルに細胞が蟲に入れ替わっていく場合はどうか? これは「成長」そのものではないか? SFの問いかけるSF的問いは、実は成長して老いていくごく当たり前の私たちの課題なのかもしれない。

それはそうと、その議論で忘れられているものがあるのではないか。二人称に着目。人形使いはなぜ素子を求めるのか? なぜ、壜から出てきた女の子は、もとの女の子のすべてを奪おうとするのか? 婚約者を蟲に奪われた男は納得しているのか?

複製をオリジナルとして扱おうとする、社会あるいは二人称的な相手(それを「あなた」と呼ぶ人)は、誰にとっても重要な存在かもしれないが、このオリジナル/コピー問題にとっても重要だろうか? つまり、たとえば、彼の好意を勝ち得た方がオリジナルになるなど。あるいは、社会の中での役割(三人称的性質)が争奪の対象になっているのかもしれない。いずれにせよ、三人称、二人称的な存在は、一人称的な存在と切り離せない。

資料は先週と共通で、とくに『マンガは哲学する』永井均、岩波書店、2000-2009から、配布資料を抜粋しました。

昨年度の資料も参考に
2016年度 https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57365216.html
2015年度 https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56841520.html

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