ここから本文です
philosのブログ(Blog2735から移行しました)
情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

書庫全体表示

哲学2017 授業資料 「鏡が淵」「残り紅」 スワンプマンと恋愛

<私>=記憶、<私>=時間意識、<私>=遺伝子、身体と考えてきた。
今日は、「社会」について考える前に、<私>と私以外の者との関係を考えたい。
私以外の者として、第一に考えたいのは、やはりもう一人の私=「影」である。また、私を他者につなぐ関係として恋愛や愛情についても考えたい。と、ただの与太話になってしまっていないか少々心配だが、まあ書いていこう。

本体と影の話。
まずはスワンプマン=沼から生まれた沼男が影として活躍するお話から。

「鏡が淵」 
文字通り、沼から生まれたスワンプマンに危うくとって替わられそうになる。主人公は、失恋によって、自らを放棄しようとしており、自分の影であるスワンプマンに自分を明け渡しそうになっている。だが、ギンコの説得を聞いてすんでのところで自分を取り戻し、自分の意思の力でスワンプマンを撃退する。

そのままスワンプマンが本人になり替わっていたとしても、ギンコがいなければ、周りは気付かなかっただろう。失恋をきっかけに、人が変わってしまう、ということはよくありそうなことだが、そのとき、周りは気付かなくとも、もしかしたら本人も気づかなくとも、本体と影が入れ替わっているということがあるかもしれない。そのとき、乗っ取られた本人以外、どっちが本体でどっちが影だか、誰が言えるだろうか。

本体が本体として、強く自分を保つために、主人公には恋愛の相手が必要だった。恋愛は相手の承認によって、強い自己肯定感をもたらす。だが、同時に自分自身を相手に預けてしまうという要素があり、それは自分自身を危うくする。失恋で肯定感をなくして、自分を見失うこともあるだろうし、恋愛の中で自分をなくしていくこともあるだろう。<私>と他者の関係は、他者が<私>を支えてくれるという面と、他者が<私>を失わせるという両面があるようだ。

<私>が私であるためには、デカルト流に考えるなら、自分自身の強い意志が必要である。デカルトは、確固たる人生を歩もうと決断し、自分が漠然と信じていたものすべてを疑うというプロジェクトに着手する。ついに自分自身についても疑うに至るが、その時、もしいま自分が自分自身の存在について疑っているならば、疑っている自分自身は少なくとも存在している、ということを確信する。それがデカルトの「コギト(われ思う)」である。強い意志があってはじめて自分自身が存在を確信することができ、自分自身の人生を生きることができるというデカルトの態度は、「近代的自我」と呼ばれる。近代的自我の倫理的、法的責任を確立したカントの自我もまた、自分自身で自分のことを承認すると同時に、相手との相互性を理解して相手も尊重できる独立した存在者である。「鏡が淵」に、そうした強い自我を見出すことができるだろうか。

ところで、近代的自我は、唯一の相手との恋愛が生涯の結婚生活に結びつく近代的恋愛(ロマンチック・ラブ)の主体でもある。社会的に、成熟した近代的自我は必然的な他者(成熟した特別な自我=結婚相手)を必要とすると考えられてきた。成熟しているのに、恋愛と結婚が必要とはなぜなのか? もしも、自分自身で自分自身を確信でき、承認できたのであれば、さらなる承認を得るための恋愛はもはや必要ないし、ましてや、一生そうした相手に依存して生きていく必要などないのではないか。これが一つ目の謎である。そういえば、デカルトも、カントも結婚などしていない。

次に、「他者」なのに、「自我にとって必然的」、とは何やら矛盾しているようにも思える。
臨床心理学で、「自我にとって特別な存在」のことを「影」と呼んだりする。自分自身のコンプレックスやトラウマ、憧れなどの投影である。「自分にとって必然的な相手」とは、つまり「自分自身の影」のことであり、「近代的恋愛」とは、「自分の影」を「他者」に投影するシステムということになるのではないか。結婚相手は運命の相手でも何でもない、ただの他者だ、と言うとロマンがないようにも思える。だが、自分にとってだけ特別な存在、すなわち「自分の影」だと相手をみなす結婚生活も、ちょっと怖いように思えるが、どうだろうか。これを二つ目の謎と考えたい。

謎を解かないままに、つづいて「残り紅」
これは、文字通り「影」の話。「壜の中の少女」のように、「本体を乗っ取った影」の話である。「影」であった女は、本人も自覚のないままに本体になり替わって本体の本来の相手だった(?)男と結婚して一生を送るが、晩年に、ギンコの話を聞いて、突然自分が「影」であることを自覚する。「影」であることを自覚した女は、自分の人生を正しくないと考える。しかし、男も、おそらく入れ替わられた本体も、男と結婚して人生を送った女を承認しており、女は男と結婚したまま一生を終える。女の没後、男は自分自身が「影」になって、入れ替わられていた女を世界に戻す。

「影」だった女は、「影」であるゆえ、自分で自分自身を肯定することができない。従って、近代的自我ではない。従って、男とも近代的恋愛結婚をしたとは思えないし、入れ替わった女の身代わりに家同士の結婚をしたと示唆されているように思われる。というわけで、男の承認があってはじめて存在でき人生を全うすることができる存在であるというのは、整合的であるように思われる。

さて、「影」だった女は、入れ替わって以来、やはり本体だった女の「影」として生きてきたことがわかる。最初は躊躇しながらも、本体だった女の立場になり替わり、家、親、友達、結婚相手、などを受け入れて人生を送ったことがわかる。その人生を、男は「結婚して一緒に人生を送れて幸せだった」と肯定したが、それはもとの女の「影」として肯定したのか、それとももはや「影」としてでなく「本体」として、その女を肯定したのか。どの<私>との関係だったのか、「影」にまったく独自の<私>がありそれを愛したというのか、曖昧であるように感じられる。

さて、どっちの女が「本体」で、どっちの女が「影」だったのか。もし、それぞれが独立した人格だとするなら、男は、どっちの女を愛しているのか。最後に、男は「本体」だった少女の「影」になるが、それはどういう含意があるのだろうか。

「影」と「本体」にプライオリティはあるのだろうか。もし、同等だと考えるなら、私たちも「影」と同じ資格の存在者ではないのだろうか。すなわち、「本体」であるからといって、自分を肯定できる理由になるだろうか。「本体」もまた、近代的自我ではなく、他者による承認が必要なのではないだろうか。

----------参考----------
「影」について
『影との戦い―ゲド戦記〈1〉』アーシュラ・K. ル=グウィン(清水訳)、岩波(少年文庫)、1976
『ファンタジーを読む』河合隼雄、岩波(現代文庫)、1996=2013
『 Love in the Western World』Denis de Rougemont 、1940

恋愛
『恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容』谷本奈穂、青弓社、2008
社会学のすゝめ 第32回「恋愛と結婚の社会学―ロマンティック・ラブの行方―」(JMAリサーチ道場)、小林祐児、2014/06/26、http://blog.jma-net.jp/article/400355510.html
『ジェンダー論:近代社会と結婚 4』椎野ゼミナール(立教大国際学部)2014.5.12
http://www.bunkyo-shiino.jp/gender/1129

近代的自我
『省察』デカルト(山田訳)、筑摩(学芸文庫)、1640=2006
『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一、講談社(現代新書)、1996
『モダニティと自己アイディンティティ』A.ギデンズ、ハーベスト社10991-2005
------------------------

この記事に

  • 顔アイコン

    吉田先生、こんにちは。

    先生は、人間にそっくりに作られた“人間でないもの”を自分と対等として愛せますか?
    例えばO・ヘプバーンやダイアナさんのそっくりロボが成育歴や仕草、嗜好、過去の偉業などをプログラミングされてその通りに行動し、真正面から「I love you.」と囁いたなら・・

    クラッときますかね? 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/6/27(火) 午後 4:05

    返信する
  • 顔アイコン

    愛情という言葉を「他者に対し好ましい感情を持つ」と解釈するなら、親近感も内包するためカバーする範囲がとても広いので同性でも親子間でも何ら違和感を覚えることはないでしょう。

    しかし、恋愛という言葉は必ずしも愛情とイコールにはなりません。
    なぜなら、恋愛は「我を忘れるほどに相手を求める気持ち」だからです。
    恋愛感情は理性によるコントロールを失うほどに強いものです(これは文献などなくても、経験すれば過去形でわかることです)。
    ですから、ここは分けて考える必要がありそうです。

    先生、こんなにマジメな“与太話”はないでしょう(笑)


    与太話の例では・・私、藤井聡太くんは息子に髪型がそっくりなので大好きです!
    てなもんでしょうか。 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/7/2(日) 午後 2:39

    返信する
  • 顔アイコン

    先生、ここで仰る結婚とは民法上の結婚のことですか。


    次回の記事の内容とも併せて考えているのですが、二人称とはあなたと呼ぶ相手、つまり配偶者のことですよね。
    この“あなた”の定義を相思相愛の唯一の相手だとして


    スワンプマンとは現実に則して言うと“心変わりをしてしまった恋人”を示すのでしょうか。



    婚姻届けを提出するのは“法的に”家族と認められたいからで、それをすることによっていずれ生まれる子供も家族になれます。

    その必要がないのなら、別に結婚(社会的な)しなくても良いでしょう。


    賢人が独身を貫くのは、女性が相手では知的な満足を得られないと思うからでしょうか?
    ・・昔なら仕方ないですよ、勉学は男性の特権でしたから。 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/7/9(日) 午前 10:43

    返信する
  • 顔アイコン

    ありがとうございます。
    民法上の「結婚」は単なる法的手続きですが、それをどのように解釈するかは、文化や思想の問題になるでしょう。
    「ロマンチック・ラブ」は、制度としての結婚についてのまさにこういった一つの思想・文化と捉えてよいと思います。

    人間にそっくりに作られた“人間でないもの”については、必ずしも恋愛に限った話題ではないと思いますが、面白い論点ですね。ロボットSFでも、ときどき似たような問いかけがありますね。

    [ philos ]

    2017/7/18(火) 午前 5:56

    返信する
  • 顔アイコン

    私自身は、3人称的対象に対しては、「作られた」という履歴はあまり重視すべきではなく、どう「そっくり」なのかを問題にしたいと思います。「似ているけど不十分」なのか、「違うけど別の人間」なのかを問題にすべきと考えます。ただし、1人称としての自分自身、2人称としての他者については、違うかどうかよりも履歴こそ命という感覚はあります。

    相手を2人称として見るか、3人称として見るかで、相手への態度にはかなり大きな差がでそうですね。恋愛でもそうですが、教育や介護などのケースでも、大きく変わると思われます。

    それにしても、いただいたコメントで、「我を忘れる」「心変わり」という言葉が恋愛につながること自体が、興味深いですね。

    [ philos ]

    2017/7/18(火) 午前 5:56

    返信する
  • 顔アイコン

    君がため 惜しからざりし命さえ 長くもがなと思いけるかな

    百人一首にある、藤原義孝の和歌です。
    一般的には恋の歌とされているようですが、我が子への愛情だとしてもしっくりくるような気がします。

    “君”のためなら自分の命だって惜しくない。・・けど、やっぱり側にいてずっと見ていたい・・
    ここでフォーカスされるのは、あくまで“君”です。


    かたや、平兼盛の

    しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものや思うと 人の問うまで

    こちらは、恋心以外考えられません。
    なぜなら、前に述べた、「我を忘れる」ほどに“理性ではコントロールできないほど強い(隠し切れない)感情”に陥っている状態だからです。

    こちらも相手を想っているいるように見えますが、前者との決定的な違いは“恋をしている自分”にフォーカスされている点です。
    相手のことを考えて楽しい気持ちになるのは“自分”であり、別にそれが相手の為になるわけじゃありません。


    でも、どちらの歌も素直で好きです。 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/7/19(水) 午前 10:45

    返信する
  • 顔アイコン

    我を忘れる、我に返ると言う時の”我”は、理性(以前に述べた<私2>です)を意味するように思います

    しかし、我を忘れている私も、私(感情的になっている<私1>)であるには違いないのです。

    滑稽に見えるかもしれませんが、それも“人間らしさ”ではないでしょうか。 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/7/19(水) 午前 10:46

    返信する
  • 顔アイコン

    「我を忘れている私」の「我」が理性を意味するのは分かる気がします。ただ、「私」の方は何なのか。

    理性を忘れて感情にただ身を任せているというイメージは確かに湧きます。一方で、集中しているとき、リラックスしているときにも、「我」から解き放たれているように思われます。

    その時の「我」は、スマホやSNSを通じて携帯されている「自分の作ろうとしているキャラ」のようなものとして解釈することもできそうです。ただ、そういうのは「我を忘れる」とは言わないかもしれませんが。

    それにしても、百人一首のことばは、シンプルながら力づよいですね。名詞や動詞もさることながら、「ど」とか「で」などのことばづかいに、つよい力を感じます。

    [ philos ]

    2017/7/29(土) 午後 7:38

    返信する
  • 顔アイコン

    「我を忘れる」時は、遠慮や偽りのない“素(す)”の自分が出てしまっているのかもしれません。


    SNSなどでいわゆる“リア充アピール”に執心する人は逆に素の自分に自信がないのでしょう。
    これは厚化粧する女性の心理に近いものがあるように思います。

    成人女性にとって化粧は身だしなみの為に必要なものです(特に人と接する仕事では、すっぴんはパジャマで出勤するようなものです)が、まつげをボンドで貼ったり黒いコンタクトレンズをつけるところまでは要求されていません。

    別人に変身するほど極端なメイクは、理性というよりはもはや“嘘”の領域だと思います。


    花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる(降る・経る) ながめ(長雨・眺め)せし間に

    容姿が衰えていくのは悲しいものですが、清少納言さんのウイットは美しいと思います。 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/8/3(木) 午前 9:28

    返信する
  • 顔アイコン

    p.s. すいません、間違えてしまいました・・小野小町さんでした。
    私はきっと秘書には向いていないですね(汗) 削除

    [ 鯖白 ]

    2017/8/4(金) 午前 8:46

    返信する
  • 顔アイコン

    SNS上の自分は、いわば化粧などで作り込まれた容姿という側面があるのですね。
    とても面白い観点だと思いました。

    ただ、化粧なら自宅に帰って落とせますが、SNSは寝ても覚めても、オンライン上で誰かに見られているわけですね。

    「花の色は…」の小野小町はやっぱり化粧してこの歌を詠んでいるのでしょうか。それとも素顔ででしょうか?

    私は、なぜか前者が思い浮かびます。
    すでに美しくなくなってしまったという静止状態と後悔でなく、移ろうこと自体において異様な美しさが現れて満足しているような状況が目に浮かぶのです。

    [ philos ]

    2017/8/16(水) 午後 0:36

    返信する
  • 顔アイコン

    いよぉーーーっ、Pon!・・鼓打ってみました。

    先生、そこは妖艶って言ってあげてくださいな。相手は美女なんですから・・
    “妙齢”の女性をフォローする時は細心の注意が必要ですよ。


    かく申す私はエンドウマメの花でございます。
    サヤの先端で乾燥して縮こまる運命ですので、まさか押し花にして保存するような酔狂なお方はありますまい・・

    しかしながら、丸い豆も皺のある豆も同じくらいカワイイ我が子なのです。
    それなのにメンデルの奴、優性だの劣性だの好き勝手言うから腹立つわぁ・・

    いっぺんぶん殴ってやろうかしらん。 削除

    [ タキシード ]

    2017/8/20(日) 午後 10:47

    返信する
  • 顔アイコン

    p.s. 先生のご想像に沿って考えますと、小野小町さんは恐らくリンドウではないでしょうか。


    秋の長雨に打たれて、強気に上を向いて咲いていた花が少しくじけそうになっているのだがそういう姿もまた美しい・・
    そういう感じではないかと。

    因みに、リンドウの花言葉は「高貴」「誠実」「勝利」とともに、
    「悲しんでいるあなたが好き」ですって。 削除

    [ タキシード ]

    2017/8/24(木) 午前 10:42

    返信する
  • 顔アイコン

    先生、“壜の中の少女”の解が出ました。


    本体=初恋の相手A、影=Aに似た別人Bとしてそれぞれ代入すればこのストーリーの言わんとするところが腑に落ちます。 削除

    [ サビ ]

    2017/8/28(月) 午後 0:10

    返信する
  • 顔アイコン

    p.s. 初恋≒いちばん好きな人(本命あるいは理想)です。 削除

    [ サビ ]

    2017/8/28(月) 午後 0:30

    返信する
  • 顔アイコン

    少し時間が空いてしまいましたが・・もしかして前回(解が出ました、のコメント)のタイトルを“壜の中の少女”と書いていませんでしたか?

    先生は“残り紅”について書かれていたのにまた間違えてしまいました(汗)
    夏休みのレポート(出されてないけど)できた!って思って提出したのに名前が違うって・・バカ。

    どちらにしても見ていないので、ストーリーはこの記事で紹介されている範囲でしかないのですけどね・・

    ならば改めましょう、“この記事の文中の”「本体」と「影」にAとBを代入するとしてください。
    このほうがまとまるかもしれません。 削除

    [ タキシード ]

    2017/9/3(日) 午後 5:20

    返信する
  • 顔アイコン

    いただいたコメントで、「「影」としての自分」という意識に、なぜか気持ちが止まりました。鷲田さんが指摘してきた「他者あっての私」のようなものかもしれませんが、ちょっと鷲田さんも見落していそうな面白いアイデアがあるような気がしました。すこし考えてみて、そのうち何か言葉にできないかな。

    [ philos ]

    2017/12/11(月) 午後 3:04

    返信する

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

開くトラックバック(0)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事