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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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哲学2017 授業資料 「旅をする沼」「棘(おどろ)のみち」 社会と個人

社会と個人というテーマに関して、「旅をする沼」では、日本的な共同体(われわれ)について考えた。<私>に対する、「鏡が淵」では2人称、「重い実」では3人称、そして「旅をする沼」では1人称複数としての「社会」を意識した。<私>を私という存在者にするもの、すなわち私の存在の根拠にとしての社会を模索してきた。最終回の本日も、社会と個人というテーマについて、<私>のまた別の存在の仕方について考えてみよう。

「棘の道」では、ギンコを含めた「蟲師」たちの生き方に焦点が当たる。「蟲師」が社会的にどのような役割を負っているか、そしてその役割を蟲師たちがどのように受け止めているか。そこには、役割的な自己のあり方、そしてそれに収まりきらない自己が描き出される。

「役割的自己」は、「蟲師」に限った話ではなく、「教師」と「学生」、「お父さん」「お母さん」と「子ども」、「従業員」と「客」、「上司」と「部下」など、われわれの社会生活においてごく普通の存在の仕方である。これは、<私>という存在者にとって、結局は、自己の放棄なのか、自己実現なのか。それが、今回考えたい問いの一つである。100%役割に同化するということは、それがひとつの役割ということもあろうし、複数の役割を足し合わせるということもあるだろうが、それぞれ、自己を引き受けるということになるのか、あるいは自己をごまかしていることになるのだろうか。また、先週みた、「日本的共同体」とは別のあり方になるのか、社会に溶け込むという意味では同じ存在の仕方と考えるべきだろうか。

作中、「蟲師」には、普通の「村人」「お父さん」などとは少々異なり、それなりの特殊性が強調されている。それを「専門職」として捉える事ができるだろう。「専門職」とは、高度な特殊技術、専門知識や倫理的判断が必要な仕事について、それを備えた社会的役割(を担う)人々のことで、社会の側でもこれに対して育成や保護、身分や報酬の保証を提供することで職業形態として成立するとされる。ギンコの行動原理には、専門職としての「蟲師」を引き受けている様子が見られる。あらためて考えてみると、ギンコの自己紹介は「蟲師のギンコです」であり、作品シリーズのタイトルも「蟲師」である。では、専門職としての生き方とは、通常の役割的自己と同じものなのか、それとも異なるものなのか。「棘の道」では、この問いについて何人かの蟲師たちの異なる態度を読み取ることができるだろう。

参考:
波頭暁『プロフェッショナル原論』筑摩書房(ちくま新書)、2006
NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』ポプラ社、2010
齊藤・岩崎『工学倫理の諸相』ナカニシヤ出版、2005
黒田・伊勢田・戸田山 (編)『誇り高い技術者になろう―工学倫理ノススメ』名古屋大学出版、2004

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    吉田先生、おはようございます。


    サービス業に従事する者としては、どのお客様にも私心を挟む事なく仕事をするのが当然であり、その対価として賃金を得ているのだから公私混同は恥ずべき、と思っています。

    何のために働くかと言えば子供に必要な教育を与えるためであり、何のために子供を育てるかと言えば命を与えたからには幸せに生きて欲しいと願うからです。

    幸せに生きるには、まず安全を確保する必要があります。
    その上で、成長に必要な栄養を与えなければいけません。

    小さい生き物にはそれが自分ではできないのですから、大きい者がそれを助けないと生命の維持は容易ではありません。


    感情にまかせて子供を虐待するなど、親である者の存在意義を自ら否定する行為に他なりません。
    こうした“論外のこと”を除いて、自分の役割について考えてみました。 削除

    [ 尻尾だけ縞々 ]

    2017/7/24(月) 午前 9:24

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    小さいひとが大きくなるまでの間に、自分で自分の身を守ることを教えなければなりません。
    それができないと、自由に行動できないからです。

    逆に言えば、身辺の自立ができるようになれば親は必要ないのかもしれません。

    母グモは、生まれた子グモの最初の栄養になります。
    これも一つの親の在り方だと思います。



    私がいなくても子供が自由に行動できるように、私ができることは「何の為にそれをするのか」を教えることだと思います。

    「学校で世界史を教えるのは、記憶力を試すためではなく戦争を起こさない人を育てるためである。だから丸暗記はやめなさい。」

    勉強はテストの為ではない、最低限それだけわかってくれたら自分の存在意義は果たせたものと思います。

    あとは良き師に巡り合わんことを願います。 削除

    [ 尻尾だけ縞々 ]

    2017/7/24(月) 午前 9:25

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    台風来ましたねー・・

    明日のOCが中止になったとのお知らせメールが来ました。
    楽しみにしていましたが残念です・・


    有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け 削除

    [ 茶虎 ]

    2017/8/7(月) 午後 5:10

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    今年のオープンキャンパスは中止になってしまい、残念でした。私も楽しみにしていたのですが。。
    夏も過ぎていきますね。キャンパスの蝉の声のちょっとした変化に耳をすませます。

    [ philos ]

    2017/8/16(水) 午前 11:54

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    役割は役割ですが、それぞれ引き受け方は人それぞれなのでしょうね。

    親も、子供も。
    教師も、学生も。

    ひとそれぞれだけれども、当然、お互いに期待や責任を感じ合うところが人の世の難しいところですね。

    役割については社会的なものだから意見交換しやすいと思うのですが、役割の「引き受け方」については、ひとそれぞれなだけに、うまく言葉にしづらく、そこで苦しいんでいる人は多いだろうと感じるこのごろです。

    [ philos ]

    2017/8/16(水) 午後 0:13

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    男性の、女性に対する期待って大きすぎると思います。


    いつでも綺麗でいて
    完璧に家事をして
    子供ばっかりじゃなく自分も甘えさせて
    時間ができたら働いて

    いつでも自分の求めに応じて


    無理です。 削除

    [ サビ ]

    2017/8/25(金) 午前 10:10

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    師走になると、喪中のはがきなども届きますし、なにか振り返る時間が増える気がしますね。そういう重く静かな時間もまた大切な時間かと思います。『自省録』と過ごすにはよい季節ですね。春を待ちつつ。。

    [ philos ]

    2017/12/11(月) 午前 10:15

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    役割、義務、責任。それらを全うするべく生きている自分はルールの奴隷でしょうか。

    ガバナンスを実践するのは理想ですけれど、他人は大した学歴のない私の言うことなど必要としてはいないという現実を知っていますからまずは家のことをするのが大事だと自覚はしていますが・・だるくて体が思うように動かないのでもどかしく思います。


    うだるような暑さに、ちょうど1年前の今頃“どこに行くべきか”で悩んでいたことを思い出します。

    そしてまた3年後には子育てを終えたあとの身の処し方(ちょっとオーバーかな)を考える必要に迫られますが、そんな時にもきっと哲学がその指針になるような気がします。

    自省録より引用
    第10巻二二 ここで生きているとすれば、もうよく慣れていることだ。またよそへ行くとすれば、それは君のお望み通りだ。また死ぬとすれば、君の使命を終えたわけだ。以上のほかに何ものもない。だから勇気を出せ。


    うん、そうだね。マルクス兄さんありがと。 削除

    [ キジトラの白手袋 ]

    2018/7/15(日) 午前 1:43

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    自己責任論を声高に主張して他者の命(自然)を軽んじる人は
    自分が無知であることを知らないのだと思います。

    それは即ち自身を軽んじていることでもあります。
    どうやって生まれてどうやって大きくなったのかも自覚できずに
    自身を無自覚にバクテリアと同等の生とみなし貶める言動なのかもしれません。


    私(命、生)とは何ぞやと真剣に考えること(=哲学)もなしに
    表層的な現象だけを追いかけた自然科学を机上でわかったつもりになって満足し
    生涯賃金で人の価値が決まると信じて疑わない人間たち


    世間的には成功してもどこか空虚で常に無意識の不安を抱える人は
    哲学したことがないのだと思います。 削除

    [ 三毛 ]

    2018/7/15(日) 午後 4:50

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    他者の期待に応えようとすることが“役割的自己”を引き受けることだとして
    他者のために努力したにもかかわらずその結果が何らかの(自分の落ち度でなかったとしても)原因によって良いものとならなかった場合でも

    「自己責任」と称されるわけですが

    他者に対して「自己責任」という言葉を好んで使う人間は
    自身の発した言葉に責任を持たないのだから
    そんな無責任な奴は相手にしなくていいんじゃないですか? 削除

    [ 糞ぐらい自分で埋めなよ ]

    2018/12/3(月) 午前 11:37

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    人に期待することについて:女性の立場から見て

    「夫は身勝手である」
    「夫は男性である」
    「よって男性は身勝手である」

    この三段論法に対して「それは違う」と自信をもって反論できる男性が現れることを期待します。


    性差別や性暴力をおこなう動機が男性であることに起因するならば
    「女性だって身勝手だから」は反論になりません。 削除

    [ 真っ赤なポルシェ ]

    2019/4/20(土) 午後 2:47

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    自分さえ良ければいいじゃん、とばかりに

    女性や子供を欲望のままに穢そうとする連中は
    ゴミみたいな文章、画像、動画を量産して発信する連中は
    迷惑運転する連中は


    自分が低レベルであることを自覚していません。
    なぜって、視野(世界)が狭いから


    二十歳を何年過ぎようが大人になっていません。
    だから命(他者)を大事にすることを知らないんです。
    迷惑を掛けている自覚がないんです。
    怒りや冷ややかな目で見ている他者が見えないんです。


    内容が理解できないのでは、高度な教育は意味を成しません。

    まずは、少なくとも池袋の暴走老人を正当に処罰するべきでしょう
    社会が日本の未来について問うのはそれからだと思います。 削除

    [ ネバーランドの公害 ]

    2019/4/21(日) 午後 6:05

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