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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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哲学2017 授業資料 「鏡が淵」「残り紅」 スワンプマンと恋愛

<私>=記憶、<私>=時間意識、<私>=遺伝子、身体と考えてきた。
今日は、「社会」について考える前に、<私>と私以外の者との関係を考えたい。
私以外の者として、第一に考えたいのは、やはりもう一人の私=「影」である。また、私を他者につなぐ関係として恋愛や愛情についても考えたい。と、ただの与太話になってしまっていないか少々心配だが、まあ書いていこう。

本体と影の話。
まずはスワンプマン=沼から生まれた沼男が影として活躍するお話から。

「鏡が淵」 
文字通り、沼から生まれたスワンプマンに危うくとって替わられそうになる。主人公は、失恋によって、自らを放棄しようとしており、自分の影であるスワンプマンに自分を明け渡しそうになっている。だが、ギンコの説得を聞いてすんでのところで自分を取り戻し、自分の意思の力でスワンプマンを撃退する。

そのままスワンプマンが本人になり替わっていたとしても、ギンコがいなければ、周りは気付かなかっただろう。失恋をきっかけに、人が変わってしまう、ということはよくありそうなことだが、そのとき、周りは気付かなくとも、もしかしたら本人も気づかなくとも、本体と影が入れ替わっているということがあるかもしれない。そのとき、乗っ取られた本人以外、どっちが本体でどっちが影だか、誰が言えるだろうか。

本体が本体として、強く自分を保つために、主人公には恋愛の相手が必要だった。恋愛は相手の承認によって、強い自己肯定感をもたらす。だが、同時に自分自身を相手に預けてしまうという要素があり、それは自分自身を危うくする。失恋で肯定感をなくして、自分を見失うこともあるだろうし、恋愛の中で自分をなくしていくこともあるだろう。<私>と他者の関係は、他者が<私>を支えてくれるという面と、他者が<私>を失わせるという両面があるようだ。

<私>が私であるためには、デカルト流に考えるなら、自分自身の強い意志が必要である。デカルトは、確固たる人生を歩もうと決断し、自分が漠然と信じていたものすべてを疑うというプロジェクトに着手する。ついに自分自身についても疑うに至るが、その時、もしいま自分が自分自身の存在について疑っているならば、疑っている自分自身は少なくとも存在している、ということを確信する。それがデカルトの「コギト(われ思う)」である。強い意志があってはじめて自分自身が存在を確信することができ、自分自身の人生を生きることができるというデカルトの態度は、「近代的自我」と呼ばれる。近代的自我の倫理的、法的責任を確立したカントの自我もまた、自分自身で自分のことを承認すると同時に、相手との相互性を理解して相手も尊重できる独立した存在者である。「鏡が淵」に、そうした強い自我を見出すことができるだろうか。

ところで、近代的自我は、唯一の相手との恋愛が生涯の結婚生活に結びつく近代的恋愛(ロマンチック・ラブ)の主体でもある。社会的に、成熟した近代的自我は必然的な他者(成熟した特別な自我=結婚相手)を必要とすると考えられてきた。成熟しているのに、恋愛と結婚が必要とはなぜなのか? もしも、自分自身で自分自身を確信でき、承認できたのであれば、さらなる承認を得るための恋愛はもはや必要ないし、ましてや、一生そうした相手に依存して生きていく必要などないのではないか。これが一つ目の謎である。そういえば、デカルトも、カントも結婚などしていない。

次に、「他者」なのに、「自我にとって必然的」、とは何やら矛盾しているようにも思える。
臨床心理学で、「自我にとって特別な存在」のことを「影」と呼んだりする。自分自身のコンプレックスやトラウマ、憧れなどの投影である。「自分にとって必然的な相手」とは、つまり「自分自身の影」のことであり、「近代的恋愛」とは、「自分の影」を「他者」に投影するシステムということになるのではないか。結婚相手は運命の相手でも何でもない、ただの他者だ、と言うとロマンがないようにも思える。だが、自分にとってだけ特別な存在、すなわち「自分の影」だと相手をみなす結婚生活も、ちょっと怖いように思えるが、どうだろうか。これを二つ目の謎と考えたい。

謎を解かないままに、つづいて「残り紅」
これは、文字通り「影」の話。「壜の中の少女」のように、「本体を乗っ取った影」の話である。「影」であった女は、本人も自覚のないままに本体になり替わって本体の本来の相手だった(?)男と結婚して一生を送るが、晩年に、ギンコの話を聞いて、突然自分が「影」であることを自覚する。「影」であることを自覚した女は、自分の人生を正しくないと考える。しかし、男も、おそらく入れ替わられた本体も、男と結婚して人生を送った女を承認しており、女は男と結婚したまま一生を終える。女の没後、男は自分自身が「影」になって、入れ替わられていた女を世界に戻す。

「影」だった女は、「影」であるゆえ、自分で自分自身を肯定することができない。従って、近代的自我ではない。従って、男とも近代的恋愛結婚をしたとは思えないし、入れ替わった女の身代わりに家同士の結婚をしたと示唆されているように思われる。というわけで、男の承認があってはじめて存在でき人生を全うすることができる存在であるというのは、整合的であるように思われる。

さて、「影」だった女は、入れ替わって以来、やはり本体だった女の「影」として生きてきたことがわかる。最初は躊躇しながらも、本体だった女の立場になり替わり、家、親、友達、結婚相手、などを受け入れて人生を送ったことがわかる。その人生を、男は「結婚して一緒に人生を送れて幸せだった」と肯定したが、それはもとの女の「影」として肯定したのか、それとももはや「影」としてでなく「本体」として、その女を肯定したのか。どの<私>との関係だったのか、「影」にまったく独自の<私>がありそれを愛したというのか、曖昧であるように感じられる。

さて、どっちの女が「本体」で、どっちの女が「影」だったのか。もし、それぞれが独立した人格だとするなら、男は、どっちの女を愛しているのか。最後に、男は「本体」だった少女の「影」になるが、それはどういう含意があるのだろうか。

「影」と「本体」にプライオリティはあるのだろうか。もし、同等だと考えるなら、私たちも「影」と同じ資格の存在者ではないのだろうか。すなわち、「本体」であるからといって、自分を肯定できる理由になるだろうか。「本体」もまた、近代的自我ではなく、他者による承認が必要なのではないだろうか。

----------参考----------
「影」について
『影との戦い―ゲド戦記〈1〉』アーシュラ・K. ル=グウィン(清水訳)、岩波(少年文庫)、1976
『ファンタジーを読む』河合隼雄、岩波(現代文庫)、1996=2013
『 Love in the Western World』Denis de Rougemont 、1940

恋愛
『恋愛の社会学―「遊び」とロマンティック・ラブの変容』谷本奈穂、青弓社、2008
社会学のすゝめ 第32回「恋愛と結婚の社会学―ロマンティック・ラブの行方―」(JMAリサーチ道場)、小林祐児、2014/06/26、http://blog.jma-net.jp/article/400355510.html
『ジェンダー論:近代社会と結婚 4』椎野ゼミナール(立教大国際学部)2014.5.12
http://www.bunkyo-shiino.jp/gender/1129

近代的自我
『省察』デカルト(山田訳)、筑摩(学芸文庫)、1640=2006
『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一、講談社(現代新書)、1996
『モダニティと自己アイディンティティ』A.ギデンズ、ハーベスト社10991-2005
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