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情報社会、哲学、日々の雑感など。吉田寛Hiroshi Yoshida (静岡大学Shizuoka University)が執筆。

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哲学2017 授業資料 「重い実」 社会と個人

前回は、スワンプマンと恋愛に関連付けて、自我と他者の関係について考えた。
今回は、功利主義的な問題圏で、3人称と1人称という、見方について考察しよう。
2015年、2016年の議論を引き継ぐので、資料、参考文献はこちらを参考にしてください。

功利主義について、簡単に説明。2016年の資料参照。
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/57374067.html

つぎに作品。「重い実」
ストーリーについては2015年の記事参照
https://blogs.yahoo.co.jp/blog2735/56851442.html

作品中、「ナラズの実」を使用するかどうかの問題に対する、祭主の功利主義的な判断をめぐって、われわれも考えさせられる。

Q:皆さんは、「ナラズの実」を最初に使用した祭主の判断に同意しますか?
Q:それはなぜですか?

Q:祭主は最後に「ナラズの実」を使用するのを躊躇したでしょうか。
Q:なぜでしょうか。
Q:皆さんは、祭主の最後のナラズの実を使用する判断に同意しますか?

功利主義は人間を、自分も含めて3人称的な対象として眺め、公平に功利を計算し、全体の最適を考えて最終判断を下すべきという考えです。
ただし、ここでは<私>の視点は抜け落ちているように見える。最終判断において、あるひとが<私>だったかスワンプマンだったかは、判断者にとって問題にならないだろう。いや問題にしようがないというべきか。

これに対してカントの黄金律には、「おのれの欲せざることを相手にするな」という、1人称から2人称へという発想があるように思われます。この原則はさらに、自分と相手だけでなく、万人に対しても当てはまるとき、それは正しい判断と言えるという考えですが。「万人」が1人称、2人称の連続に捉えられているようにも見えます。
ここでは、1人称の<私>と、3人称化された「万人」の間に、2人称の相手への慮りがあります。1人称の<私>にとって、自分がスワンプマンに入れ替わってしまうことは重大事件であることを確認しました。では2人称の相手はスワンプマンでありうるのかどうか、前回の検討を思い出してみてください。

功利主義の場合もそうですが、スワンプマンとの入れ替わりに気づきうるかどうか、という問題と、実際にスワンプマンになってしまったかどうかには大きな差があるように思います。少なくとも、2人称の相手が、スワンプマンに替ってしまっていたら、恋人や友人、家族にとっては大事件と捉えられるように思います。

作品中の祭主の判断、死に方には、2人称としての妻の存在と、その存在への態度が大きく関わっているように思います。どう考えますか?

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