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酒折宮の石碑を訪ねて

酒折宮の石碑を訪ねて



いつもご訪問ありがとう御座います
今月も今日で最終日になりました

いつもは食べ物の話や料理の話が多いこのブログですが、一応ブログ山梨2
という看板もあるので、今回山梨に付いての話をアップしたいと思います

ネタ探しという訳でもありませんが、甲府市酒折にある酒折宮には近くに
梅の名所があるので今年3月に行ってきました

何度も近くには行っていましたが初めて行く場所なのでどんなところなのか
全く分からないまま立ち寄りました

事前に知っていたのは連歌発祥の地という事だけです。

調べると甲斐出身の国学者である山県大弐と同じく国学者の本居宣長 が
関係する石碑がある、という事でした

では大分遅いアップになってしまいましたが、酒折宮(さかおりみや)の
写真をどうぞ・・・



ここが酒折宮です
丸い道祖神の石碑があります
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中央線の甲府駅から東京方面にある酒折という駅から近くです
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日本武尊に関係する伝承があるそうです
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こういった石の鳥居も歴史がありますね
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境内に入ったところに連歌の碑がありました
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酒折宮と書かれた石碑があります
この周辺は奈良・平安時代の遺跡や遺物が見られ、酒折宮周辺においても
大坪遺跡朝毛遺跡桜井畑遺跡、川田遺跡群など古墳・奈良平安の集落
生産遺跡が分布し、古代瓦や金銅仏など重要な遺物も出土している・・・
と説明されていました
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一の鳥居です
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この鳥居も歴史を感じますね
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連歌発祥の由来となった連歌の石です
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拝殿向かって右の狛犬です
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拝殿向かって左の狛犬です
こちらの狛犬は口を閉じてまn
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本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)[3]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満賀茂真淵平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。






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平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年9月11日))は、江戸時代後期の国学者神道家思想家医者出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
復古神道古道学)の大成者であり、荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。





本居宣長撰文による平田篤胤書の酒折宮寿詞です
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かなり大きな石に彫られています
後ろに回りこんでみました
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平田篤胤の文字がありました
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現代文で解説されています
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裏文要約です
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社務所前には解説書があったので・・・
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100円を置いて頂きました
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山県 大弐(やまがた だいに、1725年享保10年) - 1767年9月14日明和4年8月22日))は、江戸時代中期の儒学者思想家。野沢氏の出自。名は昌貞。は子恒。通称を軍事のち大弐と称した。医号は柳荘、洞斎。戦国時代甲斐武田氏の譜代家臣である山県昌景の子孫であるという。





こちらが甲斐出身の国学者である山県大弐の碑です
山県大弐 の師である加賀美光章とともに社殿を造営し、この地が東征の故事に記された酒折宮旧址であるとの内容を記した碑文『酒折祠碑(しひ)』を建立した
そうです
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1762年宝暦12年)の文字が刻まれているので、今から253年前になります
これもとても貴重な石碑ですね
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ここが拝殿正面です
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参拝を済ませ拝殿を眺めています
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こちらが本殿です
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紅梅が咲いていて綺麗でした
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石碑に気をとられ最後になりました
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という事で初めて訪れた酒折宮の話はこれで終了です
山梨にはまだまだ知らない歴史や訪れた事の無い神社仏閣が多く存在します

こんなエピソードがあるそうです
どちらの碑も巨石にぎっしりと漢字が彫られていて特に酒折宮寿詞』414文字の
漢字が並び、この碑文を見た作家井伏鱒二は、「まるでクイズをやらされているようなものだ」と言ったという・・
という事です

今回山県大弐 や 本居宣長 という有名な国学者がこの酒折宮に石碑を残して
いるというのは初めて知ったので、またいつかお参りしたいと思いました。

皆さんは歴史を感じる場所はお好きですか?




酒折宮
酒折宮(さかおりみや・さかおりのみや)は、山梨県甲府市酒折にある神社旧社格村社

概要
古事記』・『日本書紀』に記載される日本武尊の東征の際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつとされる神社である(ただし後述のように異説もある)。また、その説話にちなみ連歌発祥の地とされている。

祭神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 倭健命・ヤマトタケル

歴史
記紀の酒折宮伝承
行宮伝承
『古事記』・『日本書紀』(以下「記紀」)には、ヤマトタケルの東征伝承が記されている。ヤマトタケルの東征は『古事記』では尾張から相模・上総を経て蝦夷に至り、帰路は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至ったとしている[1]。一方、『日本書紀』では尾張から駿河・相模を経て上総から陸奥・蝦夷に至り、帰路は日高見国から常陸を経て甲斐酒折宮を経由し、武蔵から上野碓日坂を経て信濃、尾張に至ったとしている[2]
帰路、甲斐国(現 山梨県)酒折の地に立ち寄って営んだ行宮が当社に因むとされている。行在中に尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言したため、塩海足尼がその火打ち袋を神体とする社殿を造営して創祀したと伝える[3]
記紀に記されるヤマトタケルの東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっている。また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、酒折宮も「」に関係する祭祀を司っていた神社であると考えられている。
連歌伝承
連歌発祥の由来となった連歌の石碑(2010年6月撮影)
また記紀には、滞在中のある夜、尊が
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」[4]
意味:常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか
と家臣たちに歌いかけたところ、家臣の中に答える者がおらず、身分の低い焚き火番の老人が
「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」
意味:指折り数えてみますと九泊十日かかりました
と答歌、尊がこの老人の機知に感嘆した伝えを載せ、『古事記』には彼を東国造に任命したと記載されている。
酒折宮伝承はこの2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥として位置づけられ、そこから連歌発祥の地として多くの学者文学者が訪れる場所になった。

概史
当社は上記の酒折行宮を称しているが、その比定地には異説もある[5]
当社はもと御室山(通称 月見山または酒折山位置)の中腹、現在の古天神の場所に鎮座しており、のち現在地に遷したと伝える。御室山の山中・山麓には多くの古墳・遺跡が残っており、古来から信仰されていた様子がうかがわれる。しかしながら、当社に関する史料はほとんど残っておらず、伝承の酒折宮との関係性も定かではない[6]
酒折宮由来書によれば、武田氏滅亡後の織田氏の時代にそれまでの社領200石を取り上げられ、神官が苦しさを嘆いた様子が記されている(その後社領安堵があったかは不明)[6]
江戸時代に『甲斐国志』をはじめ現在の酒折宮を記紀に記される「酒折宮」に比定する認識が広まり、連歌発祥の地としても注目された。甲斐における名所の1つとして多くの文人らが来訪し、貞享3年(1686年)には俳人大淀三千風が来訪しているほか、『甲斐叢書』など地誌類においても記録されている。また、絵画作品では土佐光起『酒折宮連歌図』などの作品が描かれて、歌川広重甲州日記』においてもスケッチが記されている。
明治初年(19世紀中葉から後葉)に近代社格制度において村社に列した。


酒折宮伝承の解釈
明治44年(1911年)頃撮影の酒折宮。この社殿は大正6年(1917年)に焼失した。
本居宣長撰文による平田篤胤書の酒折宮寿詞(2010年6月撮影)

境内
立地
現在の酒折宮が所在する甲府市酒折は甲府盆地の中央北縁に位置し、八人山の南麓に立地する。周辺には笛吹川支流の中小河川、濁川、十郎川、大円川が流れる。現在の甲府市街や周辺地域は盆地底部にあたり、古代律令制下では渡来人の集住により立評された巨摩郡西部・前期国府が所在する山梨郡東部に比定される。
盆地底部は河川による洪水被害を受けやすいため定住は遅れていたと考えられている。一方で微高地上を中心に古墳時代から奈良・平安時代の遺跡や遺物が見られ、酒折宮周辺においても大坪遺跡朝毛遺跡、桜井畑遺跡、川田遺跡群など古墳・奈良平安の集落・生産遺跡が分布し、古代瓦や金銅仏など重要な遺物も出土している。また、北縁の山裾には横根・桜井積石塚古墳群など渡来人墓制である積石塚が分布している。
中世・戦国期には守護武田氏戦国大名化し、躑躅ヶ崎館(甲府市武田)を中心とする城下町が形成された。酒折は甲府城下町の東縁に位置し、近在には甲斐善光寺東光寺などの寺社が立地する。近世には躑躅ヶ崎館より南方の甲府城を中心とする新城下が形成され、甲府城東側には町人地である新府中が成立した。酒折は甲府城下東の入り口に位置し、酒折宮から南には城下に至る甲州街道城東通り)および中央本線が東西に通過している。また酒折宮を起点に各国へ延びる脇街道が整備され、これらは甲斐九筋と呼ばれている。

社殿
奥秩父山塊から甲府盆地へ向け突き出た尾根の突端に位置し、境内は小規模なものである。

石碑
当社には多くの国学者、文学者が訪れた記録が残されており、1686年貞享3年)に俳人大淀三千風鎌倉より訪れたものが確認できる記録では最も古い(大淀『日本行脚文集』)。大淀は駿河国から都留郡吉田(富士吉田)から富士山へ登山し、駿河大宮から富士川沿いに身延山へ詣で、甲府柳町に止宿している。甲府近郊では酒折宮のほか甲斐善光寺や武田氏居館跡などを訪ね、句を読んでいる。
1762年宝暦12年)には甲斐出身の国学者である山県大弐が、師である加賀美光章とともに社殿を造営し、この地が東征の故事に記された酒折宮旧址であるとの内容を記した碑文『酒折祠碑(しひ)』を建立した。
さらに1791年寛政3年)、国学者の本居宣長[7]は、甲斐在住の門弟である


先週の記事一覧 
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(先週ここまでで24記事)


今週の記事一覧
 酒折宮の石碑を訪ねて 2015/8/31 (月)午前5:00

閉じる コメント(12)

こんにちは。
実は私、酒折の宮にはまだ行ったことがないんです。
連歌の碑も見てみたかったんですが、大室さんの写真で見た気になりました(笑)
狛犬ですが、右は「あ」、左は「ん」を表していて、
「最初から最後まで」という意味があります。
古い狛犬は右側が珠を持っているんですが、時代とともに省略されてしまったようです。
今度行ってみようかな〜

2015/8/31(月) 午後 0:59 ZORO

顔アイコン

こんばんは。

酒折宮、長い歴史がありますね。
機会をつくり参詣したくなる神社です。
遺跡や遺物、石碑に興味がありじっくり見たいです。

名所旧跡の紹介、有難うございます。

2015/8/31(月) 午後 10:14 [ いけごん ]

近くにいて場所も知っているのに
表を見ただけ、通り過ぎただけ。

郷土の歴史文化に触れもせず…ではいけませんね。
(トホホ

2015/9/1(火) 午前 0:01 通せんぼ

> ZOROさん
おはよう御座います
この記事にはなかなかコメントが付かないのでちょっと
心配していたんです、流石ZOROさんは専門家なのでコメントしてもらえてありごとう御座います
防災訓練はどうだったでしょうか?
一応集まったんですけど、人数確認と報告でいつもの
消防訓練や消火栓の確認なんかは行われませんでした
狛犬もいつも写真に撮りますが面白いものですよね
阿吽ですか?初めて知りました
調べたら高倉健さんの映画もあるみたいです
wiki 頼みで恐縮ですが、阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ a-hūṃ)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。
とありました

2015/9/1(火) 午前 8:25 大室寅之祐

> ZOROさん
長くてすみません・・・
続きです
次いで、対となる物を表す用語としても使用された。
特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在す
る宗教的な像のモチーフとされた。口が開いている方
を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょ
う)と言う。転じて、2人の人物が呼吸まで合わせる
ように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲
などと呼ぶ。
ともあってあうんの仲なんて良い関係ですよね
またなぜ明治神宮には狛犬がいないんですか?
というのもちょっと読みました
その中にこんな話もありました
獅子像が中国から日本に伝わった当初、日本人はその
異様な形の生き物を犬と勘違いし、また朝鮮から伝来
したことから「高麗(こま)犬(いぬ)」と呼ばれる
ようになったそうです
高句麗と高麗は同じだと思いますがコウクリだと思っ
ていたのでコマと読むのは以外でした
狛犬が無い神社もあるなんてそれも興味深いですね
そうですね、お時間がある時にでも。
僕は毎年梅の時期にここに行こうと思っていたんです
今年は先にここに来ました

2015/9/1(火) 午前 8:41 大室寅之祐

> いけごんさん
おはよう御座います
なかなかこういった記事にはコメントがつかないので
アップするにしてもどうかなあ、って感じですが僕は
昔から好きなので一人で探検しています(笑)
山梨の歴史も日本の歴史も興味のある分野なのでまた
違う場所もいってみたいと思っています
連歌と言うのもよく分からないんですが、発祥の地と
いう事でお参りしました
石碑なんかに年号があるとちょっと興奮するんです
ほほう、何年の銘だから今から何百年前のものだとか
自分で確認できるので(笑)
漢文も苦手なんですけど、なかなか見応えがありました
多くの国学者、文学者が訪れた記録が残されているとも
説明されていて、その意味でも良かったです

2015/9/1(火) 午前 8:49 大室寅之祐

> 通せんぼさん
おはよう御座います
山梨には信玄公ゆかりの場所はとても人気ですが僕も
知らない歴史ある場所がまだまだ沢山あるのを改めて
知りました。通せんぼさんのお寺もですがその他甲府
五山もまた巡ってみたいと思っています
石碑立派でしたよ
梅の時にでもお時間があれば是非。

2015/9/1(火) 午前 8:56 大室寅之祐

防災訓練は大室さんの地域と同じです。
素人の役員が新しいことを考えていくのは至難なことで、結局去年と同じでいいやね〜、と。
まあ、防災訓練の役割は、地域の人の顔を知るということと、繰り返し意識づくりをしていくという意味もあるので、毎年同じでもいいのかな。
狛犬のコマですが、大室さんの仰る通りです。高句麗の別名がコマになります。
なので、中巨摩、北巨摩、南巨摩の巨摩はその意味もあります。
奈良時代には寺院建立のために朝鮮半島から技術者を招いたんですが、甲斐国にも技術者が派遣されてきました。その中で、高句麗から来た人たちが住んだとされるのが「巨摩郡」といわれる今の甲府市西部から西の地域だったんです。
なので、甲府市の西側に当たる地域が中巨摩郡や北巨摩郡と後に名づけられたものです。

2015/9/1(火) 午前 9:04 ZORO

続きです。
阿吽については、仰る通りです。全宇宙を表す言葉なんですが、寺院などで見られる五輪塔も同じです。
上から空・風・火・水・地となり、お釈迦様の曼荼羅を意味しているものです。
神社と寺院は明治維新前は同じものだったんです。
神仏分離令が発せられて別れたものなので、古い神社には狛犬がいなくてお寺に狛犬があるところもあります。
明治神宮の狛犬は本殿の中にあり、境内には無いと言った方がいいかもしれません。
いろいろ調べられている大室さんには感服いたします。
興味があったらすぎ調べる、というのが良いですよね。

2015/9/1(火) 午前 9:06 ZORO

> ZOROさん
こんにちは
とても御丁寧コメント恐縮しています
そうですね、閉鎖的な社会で地域で新しい事をはじめる
のはとても大変で、抵抗もありますね
よかれ、と思ったことでも前任者の流れでやっていこう
とするのが当たり前という感じです。防災訓練はもう顔
だし、と言う感じで元気な姿を地元の方にみてもらう、
という行事になってます。あまり訓練にはなってません
まあ、横のつながりも災害時はとっても重要になるので
いざとなったら協力しあえばいいのかなという感じです

僕は素人ですのに細かな解説ありがとう御座います
巨摩郡についてですが・・・調べたら
郡名の由来

初見史料は『正倉院文書』天平宝字5年(761年)12月
「甲斐国司解」に見られる「巨麻郡栗原郷」。郡名の
由来は二つの説があり、江戸時代に編纂された『甲斐
国志』など近世の地誌類によれば、古代に多くの御牧
が多く存在したことから、良馬(駒)を産出した地で
ある事にちなみ「駒」という言葉が由来となったとい
う説と・・・
字数制限なので。

2015/9/1(火) 午前 11:23 大室寅之祐

668年の朝鮮半島での高句麗滅亡以後、『続日本紀』霊亀2年(716年)5月16日条に甲斐はじめ関東や中部の7カ国へ高句麗からの帰化人が渡っている記事が見られることから、高句麗からの帰化人にちなみ「高麗」という言葉が由来となったという説があった。近代までは前者の「駒説」が有力であったが、関晃による上代特殊仮名遣の研究により、「駒」のコは甲類、「高麗」のコは乙類で、乙類の「巨」に一致する「高麗説」が妥当であり、高句麗形渡来氏族大狛連(狛造)の本貫地である河内国大県郡巨麻郷や若江郡巨麻郷に「巨麻」が当てられている事から、巨麻は高句麗(高麗)を意味すると考えられている
とあり、、「高麗」のコは乙類とあるのが説としては
有力なようですね
今の漢字と古代の漢字では意味も使い方も違っていた
でしょうし、発音だけが残ったという場合もありそう
何ですね。
続日本紀 から天皇陛下「桓武天皇生母は百済の子孫」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sCZ8xsk8YJI
に流れてしまいました(笑)
神仏分離令からは

2015/9/1(火) 午前 11:30 大室寅之祐

続きです、スミマセン長くて・・・
神仏分離令からは
神仏分離令が出されたのはなぜですか?
を読んでナルホドと思った次第です
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1350571488
この答えの中には
本地垂迹説
本居宣長
平田篤胤
というキーワードも出てきました
特に
神仏習合も仏教によって神道が穢された状態である
というのは興味深い考えですね
復古神道から
幕末の尊皇攘夷運動の思想的背景は、この平田国学に
あります
というくだりも興味深く読みました
昔も今も時代状況によった理論や主義が受け入れられて
いて、背景を知ると当時のj考え方が少しだけ分る気が
します。
結局最後に本居宣長と平田篤胤が出てきたのであの石碑
に辿りついた感じでした(笑)

2015/9/1(火) 午前 11:48 大室寅之祐


.


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