地震情報 2019年12月16日 6時55分 気象庁発表
12月16日6時52分ごろ地震がありました。
[震源地] 胆振地方中東部  [最大震度] 3 今後の情報にご注意ください。詳細
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日本の政治

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自民党総裁選に関連した政治動画(国家非常事態対策委員会)



皆様こんばんは
いつもご訪問ありがとう御座います

今夜も自民党総裁選に関連した話題を1つ御紹介致します。

今回の選挙では各新聞社・テレビ局・政治評論家の皆さん各方面の
有識者の方々が色々な主張・意見をyou tube でも発信されています

色々な方のご意見があるので、とても全部視聴出来る訳ではありませんが
やはり、ナルホド・・・と思う事も多々あります。

今回は国家非常事態対策委員会の動画が核心を突いていると思ったので
この動画を取り上げてみました。

政治家として、職業選択をしたのであれば自分の信念の元、責任ある
行動をして欲しいという想いを強く持ちました。

良かったらどうぞ・・・




闇の勢力に捨てられた安倍晋三!? AP通信、ロイターが安倍を攻撃する理由 
【NET TV ニュース】国家非常事態対策委員会 2018-10-07 - YouTube


2018/09/07 に公開
J.R.P Television News Blogがスタートしました。
http://jrptelevision.com/category/jrp...
J.R.P Television 動画保管庫としてのニコニコ動画始めました。
一部の動画(国家非常事態など)はYoutubeより先行公開される事もあります。 ぜひ、ご活用ください。
http://www.nicovideo.jp/mylist/62270874
Android J.R.P Television 公式アプリ
https://play.google.com/store/apps/de...
総裁が過去に残した貴重な番組を視聴しよう
http://jrptelevision.com/content/
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・過去に放送した番組リスト
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J.R.P Televisionが一押しする動画
https://www.youtube.com/playlist?list...
地上波、メディアが報道できない
インターネットならではのニュースや政治番組、環境問題、日本のあらゆる社会問題、原発、エネルギー問題、芸能界の闇、海外の事件etcなどをスペシャルなゲストを招いて発信します。
http://jrptelevision.com/
製作 JRPテレビジョン ネットテレビ報道協会
取材、お問い合わせはこちら
http://jrptelevision.com/contact/
大下英治(著) 最後の黒幕 朝堂院大覚 昭和、平成事件簿
http://amzn.asia/dLhDnK1
朝堂院大覚 (著)
怪物フィクサーに学ぶ「人を動かす」
松浦 大覚 (著)
http://amzn.asia/4V5mjZC
朝堂院大覚 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9...
VICE JAPANが朝堂院大覚 総裁に密着取材!
http://www.youtube.com/watch?v=Nky3kZ...カテゴリ    



今週の記事一覧(6記事目)
葡萄オリエンタルスター          2018年9月10日(月)   5:00
ごはん処華膳でもつ煮メンチカツ定食    2018年9月10日(月) 17:00
自民総裁選 安倍氏と石破氏が共同記者会見 2018年9月10日(月) 21:00    

自民総裁選 安倍氏と石破氏が共同記者会見


皆様こんばんは
今回は久し振りに日本の政治に入る記事をアップ致しました

政治に興味が有る無しに係わらず、何かしらの影響を受ける訳ですが
お二人の共同記者会見を見てみました。

自民党の中でどんな動き、駆け引きが今後なされるにか・・・
選挙は蓋を開けてみないとわかりません。

暫くこの自民党総裁選関連のニュースが多くなると思いますが
自民党員以外でも、大きな関心を呼ぶ選挙になると思います。

政治心情は様々ですが、日本をより良い方向に導いてくれる
指導者に政治をして欲しいですね。



    自民総裁選 安倍氏と石破氏が共同記者会見(2018年9月10日) - YouTu

4 時間前にライブ配信
https://thepage.jp/detail/20180910-00...
自民総裁選(9月20日投開票)に立候補した安倍晋三首相(党総裁)と石破茂元幹事長による「所見発表演説会」と「共同記者会見」が10日午前に開かれる。所見発表演説会は午前10時から、共同記者会見は午前11時から。

■チャンネル登録はこちら
https://yahoo.jp/zaoidV

■THE PAGE(ザ・ページ) - 気になるニュースをわかりやすく
http://thepage.jp/




先週の記事一覧(16記事目)
イオンのコク旨メンチ138円        2018年9月3日(月)17:00
お赤飯の素を使って炊きました                 2018年9月4日(火)17:00
かぐら味噌めん&富士桜ポークの焼肉丼   2018年9月7日(木)17:00
上野から新宿駅経由で山梨へ帰りました   2018年9月7日(金)5:00
森永パルム抹茶ティラミス         2018年9月7日(金)17:00
Color Me Badd - I Wanna Sex You Up   2018年9月7日(金)21:00
蓮根入り牛あらびきミンチハンバーグ    2018年9月9日(日) 5:00
大坂なおみ選手本当におめでとう!     2018年9月9日(日) 9:00
マクドナルドのソーセージマフィン     2018年9月9日(日) 17:00

今週の記事一覧(3記事目)
葡萄オリエンタルスター          2018年9月10日(月)   5:00
ごはん処華膳でもつ煮メンチカツ定食    2018年9月10日(月) 17:00

日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制


皆様おはよう御座います
今週も宜しくお願い致します

さていつも僕の日常をブログネタとして御紹介していますが、僕の関心事は
意外と(笑)多岐に渡り、溢れる情報とニュースとで日々驚くばかりです。

特に公文書を書き換えたり偽造してまで政権を守りたかったのか、或るは上司
の答弁に整合性を持たせたかったのか・・・

俄かに政局絡みになりつつあり、今週の国会論戦でも安倍政権の対応と与党内の
動きも気になり今後の展開が大いに関心あるところです。

そんな政治の世界にも、大局的な視点で論じる方がいましたので、簡単に
コピペで御紹介したいと思います。

歴史の相似象・・・なかなか普段使わない表現だと思います
訪問者さんの中で関心のある方には是非御一読をお勧めします。

最後に田中眞紀子さんと野党の街頭演説も貼り付けました。



『財界にっぽん』 2018年 4月号
 特別寄稿                      '
日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制
フリーランス・ジャーナリスト、慧智研究センター所長 藤原肇

安倍政権と東条幕府の相似象
 5年間も続いた安倍政治のために、日本の社会の救いがたい混迷は、太平洋戦争の半ばの時期に似ており、政治は支離滅裂の出たとこ勝負で、無責任体制の横行が殷賑を極めている。権力を一手に握った東条英機は、首相、陸相、内相を兼任した上に、状況の悪化が進むに従って、軍需相や参謀総長まで兼ね、東条幕府と揶揄されたほどだ。軍事官僚の東条にとっては、権力を一手に集中することによって、ピラミット型の集権体制を作り、権力支配の確立を狙うという、一種の疑似独裁支配への野望が、その組閣システムの背景にあった。
 それに対して世襲代議士の安倍は、閣僚経験がないまま首相になり、行政的な実務経験に乏しかったので、自分より能力の劣る人物を選び、大臣にするという閣僚人事に終始して、「お友達内閣」を作り続けた。だから、無能大臣による失態の続出によって、大臣が自殺する事件まで起き、内閣の機能マヒを露呈するほどになり、国民に愛想を尽かされて迷走した。 自殺の松岡利勝・農水相、絆創膏の赤城徳彦・農水相、尻軽の小池百合子・防衛相、暴言の高市早苗・総務相、軽量級の石原伸晃・国交相、嘘八百の稲田朋美・防衛相、経済オンチの世耕弘成・経産相、誤読の安倍晋三・首相、失言の麻生太郎・財務相、裏資金の小渕優子・経産相、賄賂の甘利明・経済再生相、という具合だ。だが、情報化時代の特性をフルに活用し、安倍はメディア懐柔の情報工作を使い、マスコミを完全に篭絡するのに成功して、批判の声を制圧し政権を維持し続けた。
 しかも、国会答弁における?とデタラメは、ミッドウェー海戦の惨敗に似て、大本営発表による?と隠蔽で、虚報が蔓延した時代にそっくりだ。その理由はメディアが完全に堕落し、事実を伝える任務を完全に放棄して、政府の宣伝機関になり果てたために、国民が無知に気づかなかったからだ。
 『NYタイムス』のファクラー支局長は、『本当のことを伝えない日本の新聞』の中で、「当局が言っていることをそのまま書くのではなく、当局が言っていないことを取材して記事にすると強調した。だが、何が起きているか全く知らされず、洗脳された国民は愚民になり果て、嘘に中毒してしまったのである。戦時中に日本列島を覆い尽くした、「鬼畜米英」や「神国不滅」の絶叫はないが、国会議員の「日本会議参加」や、「靖国神社参拝」が当たり前になり、メディアも年中行事のように、それを報道するようになっている。
 関東軍の参謀長時代の東条英機は、満州でアヘンの収益を溜め込み、それを機密費として使う錬金術を使い、シナ大陸での軍事費を確保して、それで侵略戦争を遂行していた。その時の相棒が岸信介であり、二人が本土に戻って東条内閣が成立した時に、東条首相は軍需大臣を兼任し、その右腕として岸を軍需次官に登用して、勝ち目のない対米戦争に踏み切った。その結果は焼け野原の国土に加え、広島と長崎の原爆による敗戦で、無条件降伏した日本は占領され、米国が操る従属国に成り果て、拝金主義で自立精神は消滅した。それに対し岸信介の孫の安倍晋三は、閣僚経験もない若手議員なのに、森内閣では官房副長官に就任して、官僚を最上位から指揮する立場で、NHKの番組に干渉する体験をした。また、小泉内閣では内閣官房副長官から、一足飛びに幹事長に抜擢され、自民党総裁から首相に大化けした。また、元首相の岸信介や佐藤栄作を始め、外相の安倍晋太郎や松岡洋介など、政治家の家系に属す安倍晋三には、血脈と地盤が天与の資産だし、温室育ちの幹部候補生として、実力を鍛える体験を抜きに首相になり、幸運の風に乗って暴政を推進した。
戦後体制における情報操作と「文芸春秋」の役割
 私はカナダと米国で四十年過ごしたが、世界を舞台に言論活動をした最初は、1971年に『文芸春秋』に書いた記事で、石油危機が襲来する警鐘を鳴らした。それを含む『石油危機と日本の運命』が、1973年秋の石油ショックの時に、ベストセラーになったお陰で、帰国のたびにメディアから声が掛かった。だから、文芸春秋社とは関係が続き、その動向について観察したが、文芸春秋社は内調のカネで『諸君』を創刊し、その担当者が田中健五だった。また、私の読者の一人で警視監を歴任してから、米国でCIAの訓練を受けて、内閣調査室にも勤務体験を持つ、松橋忠光さんから聞いたので、それを『インテリジェンス戦争の時代』に、次のような証言として記録した。
 「・・・一九七〇年代初期の『文芸春秋』に寄稿していた頃に、『諸君』の田中編集長に紹介されて執筆を頼まれたが、書く気はないと断わると取材協力を頼まれ、レコーダーの前で喋ったものが活字になり、商社マンの裏話という形の変名記事に仕立てられた。その頃の私はウブで日本の事情に未だ疎く、日本文化会議など知らなかったので、在外公館の実態を話し合うように頼まれ、ジャーナリストと1時間ほど喋ると、屋山という御用記者の名前で記事になったが、その時に『諸君』がでっち上げや、謀略好みの雑誌だという印象を持った。暫くして『諸君』から『文芸春秋』に移った田中編集長は、私の記事をかなりの変更や、大修正して掲載したが、ある記者の記事などは6割が、私のボツになった原稿でできていた。このような目茶苦茶が続いたので、江戸っ子の私が絶交を言い渡したら、残念という短文の手紙が届いた。歴史の証言を集めるのが私の長年の道楽だから、老人や読者を訪ねては昔話を聞き歩いているが、あるとき引退した警察庁のトップとの会話で、『文芸春秋』の田中編集長と喧嘩して絶交したと言ったら、こんなこともあると教えてくれた話がある。プロ野球の川島広守コミッショナーは、内調室長や内閣官房副長官を歴任したが、60年アンポの後にユーゴの一等書記官から戻り、『俺がアンポ騒動の時に日本にいたら、岸首相が辞めるようなぶざまな警備はしなかった』と悔しがっていた。そして、大使館への出向以外は東京を離れずに、警視庁と警察庁の往復専門で公安を担当したが、警察庁時代の川島警備局長は、何か問題が起きると『田中を呼べ、田中に来いと言え』と怒鳴り、そこに駆けつけるのが、取材記者時代の田中健五だった。こうして内調ルートで編集者として出世し、『諸君』の編集長にも就任したのだから、田中編集長が頻繁に交際した影響力で、清水幾太郎が転向した理由も分かった。また、『われわれ警察OBは三田中と呼んで、田中清玄、田中角栄、田中健五の戦後派トリオは、闇のキングでお国のために役に立った点で、それなりに功績を残したと評価しています。かつては保守派のサロン誌だった『文芸春秋』は、政府の広報記事や内調ルートのネタが多いし、国民の宣撫工作用に役に立っていますよ』とその内務官僚OBが苦笑していたのが印象深い。・・・」
 そういった工作の総元締めは川島広守で、彼は警察庁の警備局長から長官になり、内調室長を経て官房副長官で退官後は、セントラル・リーグ会長に就任した。また、日本のプロ野球システムは、読売社長の正力松太郎と同じで、公安警察向けのCIAの指定席だが、お人好し日本人は仕組みに気づかない。だから、『文芸春秋』は官房機密費の政府広報がダントツで、田中の出世の足場は内閣調査室だったが、その使い走りが彼の人生の始まりだ。また、『諸君』や『正論』で名を売った学者が集まって、「政策構想フォーラム」などの組織が発足し、それが大平のブレーンを経て中曽根のブレーン政治になった。1980年代に電通がメディア工作用に「青の会」を作り、田原総一郎がその幹事役に抜擢された。電通は満州帰りの特務を雇い、広告主や政治家の子弟を採用し、学者や評論家を権力の御用に仕立て、メディアの上で活動させていた。私が育てた何人かの若い人材に手が伸び、雑誌の座談会やテレビの討論会に、出席する誘いが掛かってきたので調べた。そうしたら、政府の機密費と財界のカネが動いていて、若くて有能でもカネに飢えた人びとが、どんどん引付けられていたのである。
 そして、1980年代にPHPが「松下政経塾」を生み、「世界平和研」や「笹川財団」などと並んで、平野さんが論じる「三宝会」が発足したが、発起人の福本邦雄は政界フィクサーだ。彼は水野成夫社長に拾われて、産経新聞の記者を経て岸内閣の時代に政界に入り、椎名官房長官の秘書になった。その後は京都放送の社長や政界顔役になり、画商として竹下の金屏風事件を仕掛け、後で中尾栄一建設相の収賄で逮捕されたが、竹下の利権人脈のキイマンだった。
「三宝会」の系譜と韓満人脈のコネクション
 インターネットで記事を検索していたら、平野貞夫の『平成政治 20年史』が素晴らしいとあり、本屋で買って読んで驚いたが、たった数行だが「三宝会」の記述があった。そこには「選挙が終わると、国会の内外で小沢潰しが活発化した。もっとも陰湿なのは竹下元首相の指示で、「三宝会」という秘密組織がつくられたことだ。新聞、テレビ、週刊誌などや、小沢嫌いの政治家、官僚、経営者が参加して、小沢一郎の悪口や欠点を書き立て、国民に誤解を与えるのがねらいだった」とあり、私に「三宝会」の名前は初耳だった。そこで「財界にっぽん」の2010年6月号で、平野さんと対談した機会を利用し、「三宝会」について質問したら、丁寧な説明をして貰ったのであり、掲載された対談の抜粋は次の通りである。
平野 岸信介や椎名悦三郎という満州人脈や、竹下登から政治の裏を指南されたことで、情報操作と錬金術に優れていたらしい。だから、「三宝会」は竹下元首相を最高顧問にして、財界とメディアによって1996年に作られており、野党潰しを目的にして動き出すが、その契機になったのが細川政権の誕生で、狙いは小沢一郎を抹殺することでした。
藤原 どうして小沢一郎に狙いを定めたのですか。
平野 1993年に細川政権が生まれる前段階として、1992年 12月に「改革フォーラム21 」が発足したが、中心にいたのが小沢一郎だからです。また、1994年に社会党とさきがけを自民党が取り込み、政権奪還した根回しを竹下がやっており、この時に竹下は小沢を最重要警戒人物と認定し、小沢を封じるための秘密組織を使うことにして、福本邦雄に「三宝会」を作らせたのです。
藤原 「夜明け前の朝日」に詳しく書いたが、竹下は平和相互の小宮山一家や許永中とも繋がり、京阪神の暴力団と密着していたために、イトマン事件や皇民党事件に巻き込まれています。しかも、最後には奇妙な死に方をしているが、あの頃のアングラ事件の謎解きに関しては、「朝日と読売の火ダルマ時代」と「夜明け前の朝日」に書いて置きました。
平野 「三宝会」には大手企業が参加しているが、法人の年会費が36 万円もしているだけでなく、個人会員の参加費が1 万円もかかるのに、新聞では朝日(5人)、日経(3人)、毎日(3人)、読売(3人)、共同(3人)、テレビでは日本(2人)、テレ朝(2人)、フジ(1人)、TBS(1人)、出版では文芸春秋(3人)、講談社(2人)、プレジデント(1人)、選択(1人)、朝日出版(1人)という具合です。また、メディアを代表する世話人としては、高橋利行(読売・世論調査部長)、芹沢洋一(日経・政治部次長)、佐田正樹(朝日・電子電波メディア局長付)、後藤謙次(共同・編集委員)という顔ぶれが並び、こういった人がマスコミ対策を指令しました。
藤原 法人会員の顔ぶれを一瞥したら、韓満人脈の影が私には読み取れますよ。しかも、それが太平洋を越えて戦後の米国人脈になり、岸信介や正力松太郎がCIAに使われて、アメリカの日本支配の手先だったが、この事実は公開された米国の外交資料が証明している。「歴史は繰り返す」と言う教訓からして、同じパターンは最近の日本の政治に反映し、それが検察ファッショとして現れていることは、私にはパターン認識と直観で分かるのです。
平野 検察ファッショは政治的意図による強権的捜査を指し、戦前の「番町会事件」が代表的であるが、ロッキード事件の時の捜査の仕方は、国民の多くに検察ファッショを感じさせた。田中首相を外資法違反で逮捕して、一応は首相の犯罪として話題を賑わせたが、アメリカ側には免責条項を適応したのに、日本側の捜査には無理が目立って、どう見ても納得できるものではありません。
藤原 それは軍備が絡む汚職だったからであり、本当は対潜哨戒機(P3C)の購入に際して、防衛庁長官(当時)の中曽根康弘が関与した、極めて重大な結果を生む防衛疑獄だった。だから、検察が架空の物語をでっち上げて、疑惑を隠すために問題をすり替えたが、全日空のトライスター旅客機の輸入の形で、手癖の悪い田中角栄を冤罪にしたのは、CIAが中曽根の罪を救うためでした。
平野 リクルート事件で自民党を離党したが、ロッキード事件では深手を負うこともなく、中曽根は首相として米国に貢いでいます。
藤原 その後の日本の政治は米国のしたい放題で、中曽根と竹下がカジノ経済とヤクザ政治を行い、バブルが炸裂して日本はガタガタになった。しかも、S I I (構造障壁攻略)に続き追い討ちの形で、金融を使った企業の乗っ取り工作が進み、ネオコン路線に追従する小泉や安倍が、対米追従のゾンビ政治を続けたのです。・・・
日米関係におけるCIAの役割と核武装問題
 個人レベルでの体験の登場になるが、日米関係の歴史を決定付けたのは、CIAと結ぶ自民党に陣取った政治家と、日本人を操ったジャパン・ハンドの関係だ。岸信介と正力松太郎に関しては衆知だが、児玉誉士夫と中曽根康弘に関しての情報は、それほど知られていない状態が続く。だが、中曽根がハーバード大でのゼミ参加を手配したのが、ジョンズ・ホプキンス大のセイヤー教授であり、彼はSAIS(国際問題研究所)の日本担当教授で、元CIAのアジア太平洋担当の部長だったし、中曽根の英語論文の代筆までした。 また、キッシンジャー自身が情報関係者で、ドイツ難民の彼は1943年に陸軍へ入隊し、二等兵の彼は新兵訓練期間中に、上等兵のフリッツ・クレマーに出会った。歩兵師団長の通訳と運転手を経て、陸軍の対敵諜報部に配属され、そこでOSSを指揮したアレン・ダラスが、キッシンジャーに目をつけ、対ゲリラ戦闘部隊のOPCに参加させて、戦闘と戦略を学ぶことになる。一方でクレマーはその後に昇進を重ね、パットン将軍の副師団長になり、退役後には陸軍参謀本部の顧問として、ヨーロッパの政治を担当した。そして、キッシンジャーをハーバード大に入れて、出世街道を歩ませたことは、ドラッカーの『傍観者の時代』に書いてある。
 冷戦初期のキッシンジャーは、アレン・ダレスの作戦調査室で、コンサルタントとして働き始めるが、同時に1951年から71 年にかけて、「ハーバード国際セミナー」の責任者を務め、それに中曽根康弘が参加した。これが核武装論者のキッシンジャーの手で、中曽根が核の問題に開眼してCIAを軸に正力松太郎と手を組み、日本列島に原子力発電を建造し、核武装を進める出発点になった。彼らを背後から操っていたのは、ローザンヌが本部の道徳再武装運動(MRA)で、岸信介や松下幸之助を始め、反共主義者が参加しており、それはハイエクや文鮮明を経由して、勝共連合や統一教会を通じ、安倍政権に結びつくのである。
 こうした文脈で展望するならば、ロッキード事件の謎も解け、ロッキード事件の時の捜査の仕方が、余りにも不自然な形で展開し、国民に検察ファッショを感じさせた。『新潮45 』に掲載されていたが、東京女子大病院の主治医による、児玉誉士夫の不審死の告白を含め、田中首相を外資法違反で逮捕し、首相の犯罪として話題になった、あの疑惑事件の正体が分かる。アメリカ側には免責条項を適応したのに、日本側の捜査には無理が目立ち、どう見ても納得できなかった事件の真相が、田中角栄に冤罪を押し付け、CIAが中曽根の罪を救うためだと理解できる。だから、検察が架空の物語をでっち上げて、疑惑を隠すために問題をすり替え、全日空のトライスター旅客機の輸入の形で、不自然な結末で迷宮入りにしたのだ。しかも、それが軍備が絡む汚職であり、本当は対潜哨戒機(P3C)の購入に際して、中曽根防衛庁長官が関与した、極めて重大な防衛疑獄であった。その背後には核武装問題と、原子力発電が国策で絡み付いており、プルトニウムを巡る思惑が、憲法改定と再軍備の形をとって、日本の運命を狂わせたのである。
遺伝子が語る血脈と時の転位を教える観相術の妙
 パームスプリングスに25年住み、ペパーダイン大学の総長顧問だし、ロスの国際空港を利用したので、月に2度3度は用事があって、私はロスに出かけて取材をした。また、『加州毎日』に記事を書いたし、日本人街や韓国人街には、読者が沢山いた関係もあり、ロスについての情報について、かなりのものが集まったから、それを『小泉純一郎と日本の病理』に使った。
 
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若き日の加計孝太郎(左)と安倍晋三

 だから、かつてロスに遊学していた安倍晋三が、KCIAの朴東宣に可愛がられ、親しい関係を結んだお陰で、統一教会と親密だった話や、ロスに進出した暴力団が、いかに盛況だったかも書き込めた。 また、当時の南カ大(UCS)の言語センターは、イランやサウジからの学生で賑わい、金持ち子弟が集まって騒ぎ、言葉を習うと帰国して行く、パーティ学校として知られ、そこで安倍は英語を習ったが、単位を取得した記録はない。おそらく幼な馴染みの加計孝太郎と、愛好するゴルフに明け暮れていて、勉強する暇がなかったので、単位を取れなかったのだろう。三十数年後に「モリ・カケ事件」が起き、安倍と加計の関係について、色んな形で憶測を生んでいるが、奇妙な歴史の相似象が現れた。それはロンドンに逃避した小泉が、三十数年後に首相になった時に、過去の秘めた出来事と符合する形で、私の想像力を刺激したのと、同じような興奮を掻き立てる。この件に関しての記録は、『財界にっぽん』2002年6月号に、「大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁」と、『真相の深層』2004年春号に出た、「小泉純一郎の破廉恥事件にまつわる日本のメディアの腰抜け」があり、共に『賢者のネジ』に収録して置いたが、言論弾圧で抹殺されてしまった。
 ここで再び歴史の相似象として、岸信介と安倍晋三の間で、遺伝子に関わる問題が蘇ってくるのは、法医学と観相学の面から、とても興味深いことである。 それにしても文献学的に見て、笹川良一に関した記録では、多くの庶子の存在が知られており、その幾つかは活字になっている。だが、岸信介に関しては発掘が遅れて、その秘密は未だ埋もれたままだ。そこに日本での調査報道が、世界から立ち遅れている現状があり、それが詐欺や犯罪の摘発を始め、それ法の公正な適用の面から見た後進性が露呈した理由なのではないのか。
 それでも有力情報筋によると、晩年の岸信介には子供があって、その一人は元自民党代議士の夫人であるし、日本航空のスチュワデスをやり、東京大学では歴史学を学んだ後で、大蔵省に入り職場結婚をして、彼女自身も自民党議員になった。岸信介と笹川良一は刎頸の友で、アヘンと結ぶ満州人脈だし、共にA級戦犯として巣鴨体験と、CIAにスカウトされており、半島から勝共連合を日本に持ち込んだ、極右思想の仲間でもある。しかも、伝記作家の工藤美代子は、二人について伝記を執筆しており、笹川については『悪名の棺』で、京に住む大津法子という女を描き、岸は『絢爛たる醜聞』において、浜田マキコが隠し子であると、思わせぶりな筆致でほのめかした。二人の巨魁の晩年の足跡は、笹川はニクソンとの交友でカリフォルニアに、岸はインドネシアの石油利権や、デュッセルドルフの日本館経営を含む、利権網を世界に確立している。そして、老いて益々お盛んだったのだが、熟年の性愛に迫っている工藤でも、肝心な今一歩に踏み込まないで、歴史の謎を放置しているのは、戦後史を綴る上での瑕瑾である。私がフランスで習得した生理学では、「個体発生は系統発生を繰り返す」や、「優性と劣性は隔世遺伝する」が法則だった。また、2年住んで学んだ台湾の観相術では、「幼相は孫に現れ、老相は祖父に重なる」と教え、それが私に2枚の引用写真を注目させたのである。

イメージ 2
加計孝太郎(左)と岸信介

 こうした直観力は現場で鍛えた、刑事が持つ円熟したカンと同じで、情報学科で習った付け焼刃の知識とは、一味違うプロの洞察力に属す。だから、私は高島易断に入門していないので、その真偽は図りかねるけれど、司法と検察当局は何かを見落として、洞察に代えて忖度(そんたく)に頼りすぎ、国民を裏切ったのではないだろうか。
言論弾圧と狂気が横行する時代性
 21 世紀の日本を襲った狂乱劇は、小泉首相と竹中平蔵のコンビが、ネオコンに操られて演じたもので、その震源地はワシントンであり、日本担当の手先はその世界に詳しい、海兵隊上がりのアーミテージと、政治屋のマイケル・グリーンだった。英語教師として来日したグリーンは、東大の佐藤誠三郎教授に師事し、中曽根や笹川財団に接近して、ファシスト的な軍事オタクに育った。また、帰米してからFSX問題で論文を書き、日本の防衛政策の専門家として、謀略家で悪名高いアーミテージの指示に従い、日米同盟を担当して売国奴を操り、絶大な打撃を日本に与える実績をあげた。それにしても、こんな卑劣漢たちに日本が愚弄され、振り回された姿は無惨であり、無条件降伏した敗戦に似て醜悪だった。この時期に君臨した小泉首相については、「Japan's Zombie Politics」の中で、そのゾンビ政治振りを徹底的に批判して、私は次の世代に歴史の証言を残した。しかも、この二人に土下座して奉仕し続けて、日本を屈辱の色で染め上げたのが、小泉の後を継いだ安倍晋三だった。しかも、横須賀の海軍基地の手配師一家に生まれ、ヤクザ政治とロカビリーを演じ、全世界に醜態を晒した小泉は、日本の名誉を徹底的に傷つけたし、国富は大量に流出してしまい、企業の所有権は海外ファンドに移った。ほとぼりが冷めるまでロンドンに逃げていた小泉は、サイコパスに属す「変人」であり、それを望診した私はそれを草稿に書いた。だが、名誉棄損の訴訟を恐れた編集部は、それを削り取って題名も著者に無断で変え、『小泉純一郎と日本の病理』を出版した。案の上というか、新聞や雑誌での書評はゼロであり、ギネスの世界記録に相当したが、ネットで出版が騒がれて読者の手に渡ったとはいえ、光文社の出版部門は閉鎖になり、古本も回収されてその存在は抹殺された。
 ところが「フグ刺し」の料理人の手並みで、草稿からテトロドトキシンを抜き、安全にしたこの本に何かを感知したらしく、松沢病院まで行って調べたジャーナリストがいた。取材した記者は公安に狙われ、冤罪の別件で拘留されて、臭いメシを食べたと教えてくれたのは、後に『月刊・日本』を立ち上げた南丘喜八郎編集主幹だった。当時の日本では権力批判はタブー視され、公安や検察を使った冤罪事件は、佐藤優、小沢一郎、植草一秀という具合に、当局のしたい放題の状態だった。それはソ連やルーマニアでは日常茶飯事だし、30年住んだ米国でも見慣れていたから、オーウェルの『1984年』が日本に取りついたと思った。私は米国からそれを観察して、無念な思いでその愚劣さの総括を通じ、削られたサイコパス診断を復活し、英語版で恥ずべき時代の墓碑銘を刻んだ。ところがそれで終わらずに、小泉を受け継いだ安倍政権は、小泉を凌駕する悪政の権化になり、『さらば暴政』で一度消滅したが、ゾンビのように蘇って来た。そして、以前にも増して醜悪な本性を現し、日本の社会を徹底的に損ない、無惨極まるまでに食い荒らした。それが現在に至るゾンビ政治の実態として、日本人に強い閉塞感を与え、息苦しさの原因を生んでいる。だが、屠殺場に率いられた畜群に似た、そんな境遇にいる事実にも気づかずに、日本人は貧富の差の拡大を黙認しているし、自民党は安倍の任期の延長まで認めて、日本の運命を地獄に導こうとしている。
 ギリシアやローマの歴史を読めば、最高行政長官は2名選ばれるし、アルコンやコンスルという執政官は、任期1年で再任は禁止であり、それが平時における統治原理だった。また、緊急時には独裁官のディクタトゥールが,任期半年で再任禁止で登場して、危機を乗り切る知恵に基づき、国家の運営が行われていた。しかも、独裁官でさえ再任させない、この政治における叡智を忘れ、三選禁止の党則を打ち捨てた、自民党の愚劣さは自涜行為の典型だ。しかも、アベノミックス詐欺に騙され、如何に歴史感覚をマヒさせて、無責任な安倍におもねている日本の運命が、自滅への道を辿っているかは、歴史の相似象が証明しているのである。
※文中敬称略

 筆者の横顔
 藤原肇(ふじわらはじめ)1938年、東京生まれ。仏グルノーブル大学理学部にて博士課程修了。専攻は構造地質学、理学博士。 多国籍石油企業の開発を担当したが、石油ジオロジストを経て、米国カンサス州とテキサス州で、石油開発会社を経営した。コンサルタント、フリーランス・ジャーナリストとしても活躍。ペパーダイン大学(米国加州)の総長顧問として、21世紀の人材育成問題を担当する。
 処女作の『石油危機と日本の運命』(サイマル出版会)で、石油危機の襲来を予言したのを手初めに、『平成幕末のダイアグノシス』『朝日と読売の火ダルマ時代』『夜明け前の朝日』などで、ジャーナリズム論を展開した。『情報戦争』『インテリジェンス戦争の時代』などの情報理論もある。また、『賢く生きる』『さらば暴政』(清流出版社)、『生命知の殿堂』(ヒカルランド)、『小泉純一郎と日本の病理』(光文社)、『Japan's Zombie Politics』『Mountains of Dreams』(Creation Culture)など著書多数。

日本を破壊したゾンビ政治と愚民化のための言論統制
 
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田中眞紀子氏「アベは相変わらずの大バカ」安倍政権を痛烈批判
@日本外国特派員協会 2018 03 14 - YouTube




2018年3月18日 あたりまえの政治をとりもどす3.18市民と野党の街頭宣伝


 
先週の記事一覧(10記事目)
西瓜を食べた時の写真        2018年3月12日(月)午前9:00
赤城乳業の練乳宇治金時アイス    2018年3月13日(水)午後0:00
李の高級品種貴陽の写真        2018年3月16 日(金)午前8:00
Snap! - Rhythm is a Dancer    2018年3月16 日(金)午後9:00
タラの芽・蕗のとうの天麩羅を揚げました  3月17 日(土)午前9:00
小学生🎒最後のバブリーダンス    2018年3月17 日(土)午後9:00

今週の記事一覧(1記事目)

追悼・西部邁と日本

追悼・西部邁と日本



皆様いつもご訪問ありがとう御座います
毎月最終金曜日には夜中ですが、朝まで生テレビが放送されています。

長くご視聴されている方であればよくご存知だと思いますが、この番組によく
御出演されていた保守派の論客西部 邁先生が先月お亡くなりになりました

とても難しい話をされていましたが、喩えを織り交ぜ論理的に話されていて
朝生には過去多くの論客がいましたが中でも別次元の知性が光った方でした。

正確には土曜の深夜に始る番組なので、司会の田原さんが西部邁先生の事に触れ
るかどうかは分かりませんが、番組にも多大の貢献をされた方だと思っています

西部 邁先生の考えていた事、伝えたかった事等大変興味深い追悼番組がありま
したので朝まで生テレビが始るこの時間帯に動画をアップ致しました

西部 邁先生が北海道長万部町のご出身だったのは今回初めて知りました。

昔函館から札幌に向かう途中であの由利徹さんが言っていたギャグの影響で
長万部町駅で記念に切符を買った事も思い出しました・・・

この動画は追悼番組としては3時間以上になっています。
御興味・関心のある方がもしいましたら、是非。



【討論】追悼・西部邁と日本[桜H30-2-10] - YouTube




【平成29年 年末特別対談】西部邁氏に聞く[桜H29/12/29]


西部 邁(にしべ すすむ、1939年(昭和14年)3月15日[1] - 2018年(平成30年)1月21日[2])は日本の保守派の評論家、元経済学者、雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。

経歴
北海道の南部に位置する山越郡長万部町に生まれる[3]。父は夕張郡長沼町[4]浄土真宗派の末寺の末男で農協職員。札幌郡厚別の信濃小学校、札幌市立柏中学校北海道札幌南高等学校に進学。高校卒業まではマルクスレーニンスターリン毛沢東も知らぬノンポリであった[5]。18歳まで重症の吃音であり、ほとんど何も喋らずに生きていた[6]。1957年、東京大学を受験するが不合格となり、一年間の浪人生活を送る[7]
1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入寮。同年6月、和歌山の被差別部落に入って子供たちに勉強を教える[8][9]。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟。1959年から同大学教養学部で自治会委員長を務める。同委員長の選挙のとき、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させた[10]全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加[11]
1961年3月、左翼過激派と訣別。1964年3月、東京大学経済学部卒業。当時、ブントの活動家であった青木昌彦の勧めにより、東京大学大学院に進学、経済学を専攻。指導教官は嘉治元郎。1971年3月、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。経済学修士。1972年、連合赤軍による群馬県榛名山での集団リンチ殺人事件(山岳ベース事件)の報道を目にして、多少とも左翼に共感していたことへの道徳的反省をせざるをえなくなる[12][13]
横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を歴任。1975年出版の処女作『ソシオ・エコノミックス』では社会学などの方法論を導入して旧来の経済学を批判。その後渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍。米英滞在記『蜃気楼の中へ』を発表。帰国後、1980年代から大衆社会批判を主軸とした保守論者として活動を始める。高度大衆社会・アメリカニズム批判と西欧流保守思想の擁護とを基軸にした評論活動を活発に行う。サントリー学芸賞選考委員を務める。1986年、東京大学教養学部教授(社会経済学専攻)に就任。放送大学客員教授も務める。
ケインズヴェブレンを取り上げた『経済倫理学序説』で1983年に吉野作造賞を受賞。社会思想についてのエッセーを集めた『生まじめな戯れ』で1984年にサントリー学芸賞を受賞。

東大辞職
1988年、中沢新一東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手)を東京大学教養学部助教授に推薦。委員会では通ったが教授会の採決で否決される。これに抗議して同年3月、東京大学を辞任(東大駒場騒動[要出典]。西部曰く「東大の馬鹿騒ぎ」。西部支持に回ったのは、蓮實重彦佐藤誠三郎公文俊平村上泰亮村上陽一郎芳賀徹平川祐弘鳥海靖舛添要一松原隆一郎大森彌などである。逆に反対した教官は、船曳建夫谷嶋喬四郎折原浩見田宗介

東大辞職後
東大辞職後は評論活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授、2009年3月まで秀明大学教授・学頭を歴任。テレビ朝日系列の討論番組、「朝まで生テレビ」に出演し[14]、保守派論客として知られている[14]1994年から2005年3月まで、真正保守思想を標榜する言論月刊誌発言者』を刊行していたが、財政上の理由で廃刊。後継の隔月刊誌『表現者』の顧問を務めていた。
新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった[15]
2001年8月、船橋市立西図書館のある司書が同館所蔵の西部らの多数の著書を廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した(船橋市西図書館蔵書破棄事件)。
2002年、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。同年、西部は東京西麻布の裏通りにある土地の所有者となり、イタリアンレストラン「ゼフィーロ」という店名で長男の西部一明をオーナー兼支配人として経営させた[16]。同店は2007年4月に営業終了。
雑誌『WiLL』の2011年4月号では大相撲の八百長を擁護した[17]
2013年3月1日、佐伯啓思西田昌司富岡幸一郎との座談会で「自分の咽頭部にができていると最近知った」と述べた[18]。同年4月22日、首相公邸内閣総理大臣安倍晋三、参議院議員の西田昌司、評論家の西村幸祐と会食をした[19]
2014年3月17日、妻が死去[20][21]
2017年11月、『表現者』の顧問を退き、執筆活動から引退。西部の執筆活動の実務を担当していた長女の西部智子も引退した。『表現者』は2018年1月号(2017年12月発売)をもって「第一期」を終了。2018年3月号(2018年2月発売)より「第二期」『表現者』として『表現者criterion』に改題・新創刊するとともに編集体制を変更。藤井聡内閣官房参与京都大学大学院教授が新編集長に就任した[22]

死去
2018年1月21日未明、西部が自宅からいなくなっていることに一明が気付き、捜し歩いていたところ、大田区田園調布5丁目の多摩川で流されているところを発見。同日午前6時40分頃「父親が川に飛び込んだ」と一明から110番通報があった。駆けつけた警察官が救出したが既に意識がなく、同日午前8時37分に搬送先の東京都内の病院で死去した。78歳没[23][24][25][26]。現場の河川敷遺書らしきメモが残されていたという[23]。通夜・葬儀・告別式は行われなかった[27]


関連項目

外部リンク

なぜ天皇の生前退位がそれほど大問題なのか

イメージ 1
国立国会図書館デジタルコレクション - 岩倉具視関係文書



皆様いつもご訪問ありがとう御座います
いよいよ今年最後の日となりました

大晦日の準備とお正月の準備は無事終わられたでしょうか?
僕は中途半端になってますが(笑)

ブログでは日々の出来事を食生活中心にちまちまとお話させて頂きました
また今年1年をブログの記事と写真で前後2回に分け簡単に振り返りました

個人的に関心のある社会的話題やニュースも沢山ありましたが、ブログの
趣旨とは違うのであまり記事としてはアップしていませんでした。

テレビや新聞・ネットでも多くの情報とニュースが瞬時に流れ受け取る側も
主体性が問われる時代になったと思います。

関心領域も十人十色なので、ブログに於ける繋がりも自然と似通った皆さん
同士が多いのかなあ〜等とも思う様になりました。

今年のニュースで特に関心と衝撃を受けたのが天皇の生前退位の放送でした。
そもそもそんな事が可能だったのか・・・と。

天皇が日本の象徴として機能している現在、退位とか譲位という話になると
政治的利用がされやすくなるのではないかと危惧するからです。

過去にもあった・・・という話も聞きますが、どういう理由や状況で退位・譲位
されていたのか(政治利用されたのかも含め)経緯は全く知りません。

天皇の退位や譲位ができる要件・条件・規定等前例を踏襲するとしても誰が
どうやって何を基準にして決めるのか・・・

国の根幹に係わる問題なので、議論と法的措置を含み時間のかかる問題だとも
思ってます。

今年最後の日なので、関心領域の中から1つだけ此方の動画を選ばせて貰いました
尚関連する記事並びにキーワードもコピペしました。

1番最後に天皇陛下の記者会見動画を貼り付けてあります。
ご興味のある方は御覧頂ければと思います



なぜ天皇の生前退位がそれほど大問題なのか - YouTube

今上天皇が、生前に天皇の位を皇太子に譲る意向を示していたことが報道され、大きな議論を呼んでいる。それは現在の象徴天皇制が、そのような事態を想定していなかったためだ。
 今上天皇は82歳とご高齢なうえ、過去に前立腺がんや心臓のバイバス手術などの病歴もあり、多くの公務を務めなければならない状態が大きな負担になっていた。一方で、長男の皇太子も既に56歳と、今上天皇が即位した時の年齢を超えている。そうした中で、今上天皇は天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示していたのだという。
 皇位継承などを定めた法律、皇室典範には生前退位に関する定めがない。そのため、今上天皇の意向に沿って生前退位を可能にするためには、皇室典範の改正が必要になると考えられている。
 皇室典範とて法治国家日本においては法律の一つに過ぎない。国会の承認があれば、その改正は可能だ。
 ところが、問題はそれほど簡単ではない。そもそも皇室典範に生前退位の定めがないのは、政府にできればそのような事態を避けたい理由があったからだった。
 現在の皇室典範では天皇が崩御した時のみ、皇太子が世襲で即位することが定められており、それ以外の方法で退位や譲位が行われることは想定されていない。一般には生前譲位が可能になると、天皇が退位後も上皇や法皇などの地位から政治的な影響力を持つことになる恐れや、逆に本人の意思に反して強制的に天皇が退位させられることも可能になる恐れがあることなどが、指摘されている。また、天皇自身が退位の意向を示すことは、それ自体が憲法が禁じた天皇による政治権力の行使につながるとの指摘もある。
 そうした懸念が、近い将来、現実に問題化することは考えにくいが、天皇に関する取り決めは国家百年の計にも関わる重い意味を持つ。一度それが可能になれば、何十年、何百年か先の将来に大きな禍根を残すことになる可能性も真剣に考えなければならない。
 しかし、今回、今上天皇が「生前退位」、あるいは「譲位」の意向を示したことによって、それよりももっと重要な問題がわれわれに投げかけられたと考えるべきだろう。それはそもそも象徴天皇制という現在の制度が、元々孕んでいる大きな矛盾と言ってもいい。われわれは天皇を聖なる存在として尊んでいる。だからこそ、われわれの多くが天皇に対して強い尊崇の念を抱く。陛下が被災地に赴けば、被災者たちは大きな勇気を与えられ、どんなスポーツでも天覧試合は歴史に残るような名勝負になることが多い。
 ところがわれわれは天皇がそのような聖なる超越的な存在であることを求めながら、もう一方で、政治的な発言を一切封じたばかりか、事実上人権さえも認めていない。天皇は公務を拒否することもできないし、そもそも憲法で天皇は世襲と定められている以上、即位を拒むこともできない。職業選択の自由など何もない。しかも、一度即位してしまえば、退位もできず、亡くなるまで天皇としての役割を全うすることを義務付けられる。これがわれわれが象徴天皇制と呼んでいる制度の実態だ。
 これまでは今上天皇がそのようなある意味で理不尽な立場を甘受し、粛々と公務に勤されてきたからこそ、その問題は浮上してこなかった。しかし、同時にわれわれ日本国民はその間、その問題と向き合うことをせず、放置し続けてきた。今上天皇に聖なる存在として国民を包摂したり励ます役割を果たすことは期待しながら、天皇ご自身がどのような問題を抱えているかについては、いたって鈍感だった。
 今回の問題はその矛盾が、今上天皇ご自身がご高齢の上に健康不安まで抱えるようになった今日、現実的な問題として浮上したに過ぎない。 
 そもそも何が問題なのか。そして、この問題とわれわれはどう向き合えばいいのか。ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。

attitude (アティチュード)態度、考え方、姿勢


天皇陛下が、自らのお気持ちを国民に向けて語られた。日本国及び国民統合の象徴としての責務を全うすることへの強い責任感をにじませたことに多くの国民が共感した。天皇の地位は、主権者である国民の総意に基づく。陛下のお気持ちを受け止めつつ、改めて象徴天皇の意味と皇室の未来を考えたい。
天皇陛下が、自らのお気持ちを国民に向けて語られた。日本国及び国民統合の象徴としての責務を全うすることへの強い責任感をにじませたことに多くの国民が共感した。天皇の地位は、主権者である国民の総意に基づく。陛下のお気持ちを受け止めつつ、改めて象徴天皇の意味と皇室の未来を考えたい。

長谷川良                          

 
バークは、人間の文明社会は、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”で形成されたものであっても、人間の知力で“設計”されたものではないと考え、“幾世代にわたる無意識の人間の行為”と“神の摂理”との共同作業において開花し発展・成長した偉大なものが文明の社会だと把握する(『イギリス史略』)。
自由は英国の長きにわたる歴史の中で醸成されたものであり、国王大権と議会特権とのあらゆる嵐と抗争に耐えて維持されてきたものである。自由は祖先から相続した財産であるがゆえに国家に対して不可侵権をもつのであり、けっして人権や自然権であるからではない。そして、自由を世襲の権利として正しく永続させ、聖なるものとして保持すべき筋道・方法として世襲王制以外はないと、経験が教えている。
偏見は諸国民や諸時代の共同の銀行・資本であり、そこには潜在的な智恵が漲っている。したがって、その偏見がより永続したものであり、広く普及したものである程好ましいものである。各人が私的に蓄えた僅少な理性よりは、共通の偏見に従ったほうがよい。言い換えれば、偏見の衣を投げ捨てて裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性が折り込んである偏見を継続させる方が遥かに賢明である。偏見は火急に際しても即座に適用できる。予め精神を確固たる智恵と美徳の道筋に従わせ、決定の瞬間に人を懐疑や謎で不決断で躊躇させない。偏見とは人の美徳をしてその習慣たらしめるもの、脈絡のない行為の連続には終わらせないものである。このように、偏見は迷信とは異なり、智恵と美徳をもたらしセンセーショナリズムを防ぐものである。

評価
1906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。
ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている[7]花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。
また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した[8]
また、北は安岡正篤岸信介にも強い影響を与えたとされている。[


皇位簒奪
皇位簒奪(こういさんだつ)とは、本来皇位継承資格が無い者が天皇の地位(皇位)を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から皇位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語。本来皇位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。皇位簒奪と言う言葉は、「皇位は不朽の万世一系によるもの」という思想から出る言葉である。従って、皇統内で武力や政治的圧力により皇位の移動があっても簒奪とは一般的には言わない。また皇位は基本的に万世一系であるとされており、皇位簒奪の具体例として挙げられているものは、未遂、あるいは本当に皇位簒奪かどうかは学者の間でも議論が分かれているものとなる。
簒奪とは君主の地位を奪取する事である。皇位の場合とは異なり、諸外国の君主の場合は、確実に簒奪とされている例も多い、しかし実質的な内容が簒奪であっても表向きは「自主的に血縁関係が無い有徳の人物に君主の地位を譲る」禅譲と称されることがあり、これは前王朝から王位・帝位を獲得した方法について、肯定的ないし賞賛する立場からの表現であり、批判的な立場からは「簒奪」とされる。歴史上で企図した人物を確認出来るとされるが、それらにその意図があったかは不明な部分が多い。
今谷明は著書『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』(中央公論社)で足利義満の皇位簒奪説を説いた。しかし、中央公論社は嶋中事件の後遺症で「皇位簒奪」の用語を用いることを恐れ、今谷の反対を押し切って、「王権簒奪」という不正確な表題にしてしまったという。

歴史上の皇位簒奪の事例
上記の通り、皇位簒奪を行ったのか、あるいは皇位簒奪を目指していたかどうかについては議論が分かれている。

古代の天皇
崇神天皇応神天皇継体天皇など、古代の天皇の何人かは、前代の天皇とは血縁は無く皇位簒奪を行ったのではないかという説が存在する。ただし古代の天皇については、そもそも血縁による皇位継承を行っていたかどうか疑問を呈する意見もある。
蘇我氏は大王家(後の皇室)を凌ぐ権勢を誇り、遂には自身が大王になろうとしたため、乙巳の変により滅ぼされたと『日本書紀』が伝えている。

天武天皇
大友皇子(弘文天皇)は正式に即位しており、従って壬申の乱天武天皇による皇位簒奪であったという説がある。さらに進めて、天武天皇が天智天皇の弟だったという通説に疑問を呈し、兄弟ではなかったのではないかという異説も存在する(佐々克明ら)。ちなみに、仮にこれが皇位簒奪であったとしても、天武天皇の血統は称徳天皇(孝謙天皇)を以て絶えており、その後の天皇は天智系に復している。

弓削道鏡
聖武天皇の出家(神⇒仏)、孝謙太上天皇の再即位(仏⇒神)など神仏混交が進み天皇の地位が変質するなか、孝謙天皇(称徳天皇)の看病禅師として宮中に入り、寵愛されるようになっていた道鏡は、天皇に準ずる法王に即位し、家政機関も設置されるなど事実上の女帝との共同統治者となり仏教事業や神祇を司った。更に二人の二頭体制によって皇太子を経ず形式的に天皇に即位すべく準備が行われた。間もなく女帝が死去した為実現しなかったとされる(宇佐八幡宮神託事件)。道鏡は神託を否定するが、下野薬師寺造寺別当として左遷された。
もっとも、この事件は「道鏡が皇位を狙った」事件ではなく、女帝が「(皇族ではない)道鏡に皇位を譲ろうとした」事件とする見方もある。また、この事件を記した『続日本紀』が、女帝の死によって皇位継承権を得た光仁桓武両天皇時代の著作で、その正当性の誇示を目的に執筆されたとも言われているため、留意する必要がある。

平将門
平将門は、一族の内部抗争を勝抜き坂東(関東一円)を制圧すると、天慶2年(939年)、上野国庁で即位の儀礼を行った。八幡大菩薩の使いを称する巫女が宣託を告げ、興世王から「新皇」の号を進呈されたという。新皇位への即位は京都朝廷へ奏上を行っており、相対する新たなる天皇という意味で新皇を名乗った。しかし将門は、敵対勢力への対応に忙殺されて翌年には討たれているためその政治目的は不明瞭であるが、独自に諸国受領などの文武百官を任命するなど支配機構の確立も行っている。新皇即位など一連の行動を証拠として、「坂東独立王国」を築こうとしていたとする説[要出典]が主張されている。
なお平将門の出身である桓武平氏は、臣籍降下した皇胤であり、将門は桓武天皇玄孫(一説には来孫)にあたる。

以仁王
詳細は「以仁王の挙兵」を参照
後白河法皇の子である以仁王は、平家を後ろ盾に持つ異母弟高倉天皇が即位したのに対し、自らが皇位に就くどころか親王宣下すら受けられない現状に不満を抱き、平家政権打倒を計画するが事前に露見したために園城寺などの支持を受けて挙兵し、源頼政とともに戦うが敗死した。その際に王が令旨を出して全国の源氏に平家政権打倒の呼びかけた。その令旨に「断百王之跡」「尋天武天皇舊儀」「御即位之後。必随乞可賜勸賞也。」と書かれている(『吾妻鏡』)。これを以仁王が平家が立てた高倉・安徳両天皇の正統性を否定して、天武天皇の旧儀(先例)に倣って、平家とともに高倉上皇・安徳天皇を倒して自らが皇位に就くことを宣言し、なおかつ即位後の褒賞の約束まで行ったと言われている。以仁王は天皇の皇子であるが、現在の皇統を実力で倒して自ら皇位に即位することを宣言したという点では皇位簒奪であると言える。実際に以仁王の令旨を奉じて上洛した源義仲は、令旨を根拠に平家とともに西国に逃れた安徳天皇(高倉上皇は既に崩御)に代わって以仁王の遺児北陸宮の即位を後白河法皇に迫り、それがならないと知るや法住寺合戦を起こして後白河法皇を幽閉している。

足利義満
南北朝の動乱により、皇室と公家勢力の権力及その権威が低下すると共に、室町幕府の成立以来、足利将軍家の権威は皇室に迫り、実質的に日本の君主としての役割を担った。とりわけ三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。天皇・治天の代わりに、中国の明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受け独自の外交を行っているが、これを国内的な君主号としての天皇の権威に対抗するためであり、簒奪の為の準備の一つであるとの説[要出典]がある(ただし、貿易の利便性を高める為、冊封を受けたとの説もある)。
晩年には、実子義嗣を親王に準ずる形で元服させた。義満が皇位簒奪を企てているとする論者は、義嗣を皇位に就かせ、自らは上皇(治天)に就く意図があったものとする。しかしその直後に義満は後継者不指名のまま急死し、四代将軍となった足利義持や幕府重臣により勘合貿易など義満の諸政策も停止された。義満の皇位簒奪説は、一方で皇統の正当性は血統により発生するという反論もあり、疑問視する声も根強い。しかし義満の死後、朝廷が「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った事(義持は斯波義将らの反対もあり辞退)、相国寺が過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記しているのは事実である。
なお足利将軍家は、清和天皇の子孫が臣籍降下した清和源氏の一流(河内源氏)であり、皇胤であるため皇室とは遠い血縁関係にあたる。
しかし榎原雅治教授(東京大学資料編纂所)によれば、現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定を経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と丶武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる。[1]

織田信長
明治から昭和戦中においては、信長は「勤皇家」としての性格が強調された。明治の初年には京都市に信長を祀った建勲神社が建立された。また、国定教科書では、上洛の目的が天皇の権威の復興を目的としたことや、天皇の権威の復興の為に式年遷宮を復活させたことなどの実績が強調された。 そのため、信長の皇位簒奪説が強調されるようになったのは、昭和戦後からである。
戦国時代後期、織田信長足利義昭を将軍として上洛を行ったが、程なく信長と義昭の間に対立が生じ、その結果義昭は追放され室町幕府は滅亡した。また信長は、時の正親町天皇とは当初協調路線をとっていたが、しだいに自らを神格化するような行動を取り、さらには朝廷が決定するの制定にまで口をはさむようになった。朝廷は、まず信長を右大臣とし、更には太政大臣関白征夷大将軍のいかなる官位をも授けると打診したが、信長はそれを辞退。その一方で京都で馬ぞろえ(軍事パレード)を行い、朝廷を威嚇したとされる。この様な行動から、信長は天皇を廃して自身が日本の王になろうとしたのではないかという説[要出典]がある。そのため、朝廷を敬う明智光秀によって本能寺の変で殺されたとされる。いわゆる「朝廷陰謀説」である。
しかし近年では、天皇を招くための「仮の御所」と思われる遺跡が安土城内部で発見されていることや、信長自身も浅井長政朝倉義景との戦いや石山合戦では天皇に仲裁を求めたりしていることから、信長には天皇を廃する意思がなかった、あるいは不可能ではなかったかと言われている。 ただしこの仮御所の存在は、自らの為との説[要出典]もある。

神道研究
神道研究において、皇室の血筋(いわゆる万世一系)を男系で引いていなければ天皇になる資格はないのか、それとも理論上は三種の神器を抑えた権力者は誰であれ天皇となりうるのかについては結論は出ていない[要出典](ただし、神道の公式見解ではない)。

関連項目

天皇陛下、退位に強い思い 象徴のあるべき姿を表明
Japan's 82-year-old emperor indicates readiness to abdicate - YouTube


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