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吉田の火祭りです・・・

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寛文・貞亨・延宝・元禄・宝永甲斐国検地帳(山梨県立博物館)


皆様いつもご訪問ありがとう御座います
先日山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家をご紹介しましたが今回はその続編です 

食べ歩きや料理も好きですが、歴史も同じく好きなので簡単にご紹介致します

今回は写真を撮ってもよい場所があったので写したものがあります


寛文・貞亨・延宝・元禄・宝永甲斐国検地帳3546冊です
検地というと豊臣政権太閤検が有名ですね




紹介文にもある通り、これだけの冊数がまとまってあるのは全国でも珍しいそうです
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綺麗に積まれてています
和書が好きな方には堪らない光景が広がっています
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内容なくずし字でところどころしかわかりません
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溜息が出る光景です
検地帳がこれだけ保管されていたとは知りませんでした
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素晴らしい眺めとしか言えません
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かなり上から目線ですが、教えてもらいました
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漠然とですが、田畑の種類や面積などが記載されています
それにしてもよく調べてますね
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検地水帳というのもありました
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わかる様な、わからない様な(笑)
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全国的にみてもこれだけの冊数は無いのかもですね
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反対側にもあります
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上畑・中畑と読めます
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検地帳の表紙や巻末には検地が行われた村名や実施日・担当役人などが記され、内部には検地の結果を元にしてそれぞれの村の石盛を決定し、村内の田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。
必要に応じて屋敷地には居住者の身分(村役人・僧侶・神官・後家など、一般農民と年貢・諸役の負担に違いが生じる人々)や山林や沼沢・荒地なども記載する。更に村内の個々の土地についての記述を終えた後に村全体の地目・品位ごとの段別集計を行った後に村高を記載する。最後に検地を行った地域全体の段別総計と石高合計を記す。
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ここから数枚内容をご紹介致します
昔の字(あざ)は今は使いませんが、当時は大事な住所の役割があったと思います
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甲州全体の地図が各村ごとに書き込まれています
これもよく出来ています
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甲府国絵図と案内がありました
甲府徳川家によって作成されたそうです
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今でも使われている地名が多いので驚きました
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今で言う税収を把握する為のものかも知れません
各村の石高が克明に書かれてあります
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の文字の後に何百石とありますね
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上・中・下と畑の状態までは把握してますね
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普段なかなか見る事が出来ない資料なので写真を撮りましたイメージ 28



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寛文十年と読めます
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寛永の文字が読み取れます
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甲府徳川家のガイドブックを買いました
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という事で山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家で閲覧した寛文・貞亨・延宝
元禄・宝永甲斐国検地帳3546冊はここまでです




検地帳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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検地帳(けんちちょう)とは、検地の結果を村単位で集計して取りまとめた帳簿のこと。水帳(みずちょう)とも。家数人馬改帳と共に、封建領主が土地・人民を支配するための基本台帳としての役目を果たした物。

概要
検地は室町から戦国期にかけて戦国大名などの地域権力によって領国内で実施されて検地帳の作成が行われ、年貢高や増分を把握し、統一的な年貢・諸役賦課体制の貫高制が成立した。戦国期の検地は戦国大名が検使を派遣して実測する場合と、地頭や寺社などに命じて作成させる指出によって行われ、検地帳は野帳などの検地の実施に際して作成された文書をもとに、地域的なまとまりで整理して作成されたと考えられている。戦国大名の検地帳は領国内で記述の詳細さには差異が存在し、統一した書式も未確立であった(例えば、村切の未確立の問題など)。
近世以降、豊臣政権太閤検地)では文禄期以後、江戸幕府では寛文・延宝検地以後に統一した書式が定められた。また、統一以前の時期にはまだ政権による地方支配が完成されておらず、実際の検地内容を反映しているか問題が残されている場合がある。封建領主側は検地帳に記された村の石高の集計(村高)を元にして徴税令書である年貢割付状を発給して村落に年貢・諸役を賦課した(村請制度)。
検地帳の表紙や巻末には検地が行われた村名や実施日・担当役人などが記され、内部には検地の結果を元にしてそれぞれの村の石盛を決定し、村内の田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。
必要に応じて屋敷地には居住者の身分(村役人・僧侶・神官・後家など、一般農民と年貢・諸役の負担に違いが生じる人々)や山林や沼沢・荒地なども記載する。更に村内の個々の土地についての記述を終えた後に村全体の地目・品位ごとの段別集計を行った後に村高を記載する。最後に検地を行った地域全体の段別総計と石高合計を記す。
検地帳は同一内容のものが2冊作成され、検地役人と村役人がそれぞれに連署して全ての綴じ目に奉行の割印を押印した上で領主側と村方に1冊ずつ保管した。名請人の記載方法には大きく分けて2つあり、単純に年貢・諸役の負担義務者を記したものと「○分(○家抱)・×作」と併記して負担義務者と実際の耕作者に分けて記したものがある。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地に緊縛されることになる。後者は実際の耕作者名を記載することで所有するだけで耕作を行わない地主層への牽制の意味も含まれていた。これは逆に考えれば、当時の村内部で重層的な階層が形成されていたことを示しているとみることも可能である。
また、検地帳は年貢高の把握のみならず、国絵図の作成などにおいても記載村落の基準として活用されていた。
検地帳は体系的に残されているケースが多いため、記載を年次的・地域的に比較することで地域の開発状況や景観変化などを知る歴史資料としても活用されている。

参考文献
関連項目
  

山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家


皆様いつもご訪問ありがとう御座います
さて今回は博物館の写真をご紹介したいと思います

昨年の10月開催された山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家
に行った時の写真がありました。

県立博物館で開催される企画展にはできるだけお邪魔する様に
していて、毎回企画を楽しみにしています。



駐車場から中に入ります
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いつもここにポスターが貼られています
黒竹が綺麗です
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こちらは入り口右手にある大きいポスターです
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自動ドアが三つ葉葵になっていました
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ここから展示室に向います
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こんな舞台も作ってあります
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では早速チケットを渡し、見学してきます
中は撮影できないので、ここまでです
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甲府に徳川家?と思う方もいるかも知れません
やはり武田信玄公のイメージが強いと思います。

イメージ的には・・・

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐一国幕府直轄領となる。
甲斐支配は甲府城代や四奉行・初期代官により行われた。

という流れです。

江戸時代の藩の分類でいうと、 御三家、御三卿、一門の中では一門という
親藩になるそうです

詳しい事は説明出来ませんが、武田氏が滅んだ後甲州を幕府直轄領とした
事に深い意味があったのでは?と思っています

甲斐の歴史にとって甲府徳川家時代はなかなか見えてこない時代でもあるので
とてもよい機会になりました。

皆さんお住まいの地域の歴史はお好きでしょうか?



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山梨日日新聞創刊・山日YBSグル―プ創業145周年記念事業
「甲府宰相」、「甲府様」と呼ばれた大名がいたことを、知っていますか―。
 徳川綱重とその子綱豊。彼らは甲府城を中心に甲斐・信濃などの諸国に所領を与えられたため、甲府徳川家と呼ばれます。綱豊はのちに六代将軍家宣となるなど、甲府徳川家は徳川将軍家を継承する資格を持つ徳川一門の大名として、江戸幕府から非常に重視されていました。
  甲府徳川家が甲斐国を治めていた時代は、全国各地で江戸時代の社会の基礎が固められる時期でもありました。甲府徳川家が行ったさまざまな施策は、その後も江戸時代を通じて甲斐国の行政の基礎となっていきます。甲斐国の歴史にとっても、甲府徳川家の時代は非常に重要な転換点であったのです。
  本展では、「知られざる名門」甲府徳川家と、彼らを支えた甲府藩の人々、そして彼らが生きた時代や社会について、多様な資料からご紹介します。


山梨県立博物館『甲府徳川家』と武田の城図面常設展示。
20171007 - Togetter
甲府徳川家。四代将軍家綱の弟徳川綱重が甲斐山梨郡、巨摩郡、信濃佐久郡を与えられたのが1651年(慶安4年)で15万石。後、甲府城主となり、信濃高井郡、小県郡、甲斐八代郡加増で10万石、さらに近江や駿河も加増で計35万石。綱重が甲府城を与えられたのは1661年(寛文元年)。
 
この寛文元年、信玄公百回忌に向けて武田遺臣らにカンパを求め、三枝守俊や小幡景憲が奔走したであろう年。後に百回忌が営まれる1672年(寛文十二年)、家綱将軍から寺領寄進を受けていて、家綱と綱重の親しさ(当時御三家より年頭拝賀が先)を考えると何かあるかな?など想像。
 
さらに同じ1672年やその前後の甲斐徳川家支配下の甲斐國の徴税の重さを示す借金証文など。信玄公百回忌に群衆が集まるその当時、甲斐國は辛かったのだろうが、その民衆の慰撫のために恵林寺が信玄公百回忌を企画したと考えるのは妄想にすぎるだろうか?
甲府徳川家は甲斐全域を支配しておらず、綱重の子綱豊が五代綱吉から後継指名を受けた後、郡内谷村藩秋元氏が川越に移封、代わって川越から柳沢吉保が入府。谷村藩領も吉保預かりとなり、甲斐一国が再びまとまる。
 
元禄の頃辺りから藩祖・初代藩主を顕彰する動きがあったらしいが、甲斐國では信玄公がその役目を負うことになったらしい。『武田信玄公以来甲斐國御領主代々鑑』(安永二年、1773年)なんてのはその流れだろう。ちょうど信玄公二百回忌の翌年、柳沢氏の武田氏との連続性主張との関連を伺わせる。
あと展示で気になるところ幾つか。徳川綱重十三歳の筆。割と署名の字に幼さが残る。
徳川綱重って、死後に征夷大将軍を追贈されてるんですってね!息子の綱豊が家宣となって将軍になったのもあるんですが、太政大臣近衛基熙との良好な関係あってのこと。将軍位追贈なんてあるんだとビックリ。
新井白石。父が久留里藩土屋利直幕下らしい。土屋ということは武田に関係あったのかな。後に父子ともに牢人、白石は師の推挙で徳川綱豊に仕え、綱豊が将軍家宣となると幕政を担う重鎮になっていく。へぇ‥正徳の治と江戸城天守再建を考えてた人ってイメージしかなかった(汗)
 
新井白石が筆をとった『東照宮』。それまで東照社と呼ばれていたのをより位の高い宮号へとした。徳川将軍家の威信を維持するにあたり、神君家康のさらなる顕彰を必要とした‥江戸城天守再建もある意味その更なる威信を必要とした事情にあるのかもしれない。
 
で、その新井白石像。ものすごいわたし的には高橋和也氏を思い出させる…てことは馬場美濃守…馬場さん何してはんの!?みたいな軽い混乱(笑)
 
江戸幕府老中奉書写。能大好き綱吉が津和野藩主亀井茲政に…明日能やるから見に来いよ、を老中を介して伝える内容。急すぎる…解説にいきなり呼び出されて、褒めちぎるしかなかったであろう、さしずめ現代の接待ゴルフやカラオケとあってつら。。。
で、甲府徳川家から将軍になった家宣も将軍になってから約七年で3600回以上の観覧、583回の実演…という凄まじい能ヲタク。3〜4日に一度は能を見たり演じたり。あ、あ、あ…能といえば真田丸の宇喜多秀家…(笑)
常設展もみてこよ。
常設展にある限定展示。井伊直政による甲斐衆所領安堵の徳川家朱印状と甲陽軍鑑巻十六『御献立之次第』の再現。巻十六は軍鑑成立時にはなく、刊行本発刊時に追加されたらしく、天正から江戸初期くらいとな。確か山梨県立博物館の紀要に論文あった気がするな。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
 
まぁそんな時代の差がないから、まー武田もこんな感じじゃね?でとりあえずいいような気はする(笑)鳥の丸焼きとか美味そう。数の子や鱧の味噌漬け、鶉姿焼、鯛焼き魚、伊勢海老‥鮭やタコやアワビももりもりのご飯みたいな山盛りになってんのがすごい。これすごいボリュームよ。
 
竜王村文書?からなぜか遠州諏訪原古城図。年代不明。が、重要なのは縄張りのうち、黄色に塗られた点。古文書の素養がないのでなかなかわからないが、古□□八○とあるの。八○は他にも六○と五○とかあるから何かの単位だろう。間(けん)ではない。しかしこの黄色部分‥…
黄色部分、徳川による諏訪原城増築前の縄張りを表しているのではないか?と感じます。実際デカイ丸馬出で発掘調査から徳川と判断された二の曲輪大手馬出、同中馬出、北馬出、南馬出、東馬出、大手曲輪、大手外馬出には黄色着色がない。
 
この図によれば、本曲輪、二の曲輪、そして本曲輪から西側に段々と曲輪帯曲輪が二重に巻いており、本曲輪に虎口があって帯曲輪に通じている。これも黄色着色。そして丸馬出は二の曲輪東内馬出のみ。やはりか…これなら他に見てきた特に駿河遠江の丸馬出の城と比較しても違和感がない。
 
この諏訪原城図、静岡にお住まいのお城好きなフォロワーさん方にぜひ見ていただきたい…面白い図。
 
あと、頼生文庫から『武田甲斐國領土出城見取図』のうち、駿河江尻城。もう小県の岡城や川中島の北、長沼城そっくりすぎる。まだ背面に川、三方向に丸馬出。いずれの城も地域の拠点となり、駐留した軍勢も多いと思われるし、支配の中心拠点的な城には複数丸馬出あったのかもしれないなぁ。
 
逆に言えば、諏訪原城は重要な城ではあるが、補給拠点であって地域支配中心にはならない。駐留できる兵数も限られるから丸馬出いっぱいつくるとそれだけ分散されちゃう。背後だけでなく他方も崖や自然地形ないなら横堀で遮断し、一方向に敵を集めるよう誘導、そこに丸馬出を、と。勝手な解釈楽しい。



甲府徳川家
甲府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(のちに35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍家綱の弟綱重とその子綱豊(のちの将軍家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。


近世甲斐国と甲府徳川家の成立
甲府徳川家は江戸幕府3代将軍徳川家光の三男・綱重を家祖とする。家格は親藩石高は25万石。
近世甲斐国天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡・本能寺の変による無主状態となり、天正壬午の乱を経て徳川家康が確保する。その後、豊臣政権時代には豊臣系大名が配置され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て甲斐一国が幕府直轄領となる。甲斐支配は甲府城代や四奉行・初期代官により行われた。慶長8年(1603年)には家康の子・五郎太(徳川義直)が、元和2年(1616年)には将軍秀忠の子である忠長が甲斐を拝領したが、いずれも自身は在国せず城代・代官衆によって在地支配が行われた。寛永9年(1632年)に忠長が改易されると甲斐は城番制(第二次甲府城番制)による支配となる。
慶安4年(1651年)、徳川綱重(左馬助)の兄・家綱が将軍職に就任すると、綱重は弟の綱吉(右馬助)とともに厨領として6か国で都合15万石を拝領し、この中に甲斐の所領が含まれる[2]寛文元年(1661年)に綱重は10万石を加増され甲府城を城地に賜り甲府藩が立藩された。ここに甲府徳川家は独立した大名となる。

甲府徳川家の所領と石高
将軍時代の徳川家宣
柳沢吉保
「甲府殿御領地割」(『山梨県史』資料編8近世1領主 - 645号)によれば、綱重領の内訳は府中領として甲斐巨摩郡山梨郡の14万石5000石、江戸屋敷地近郊で保持する鷹場のあった武蔵国羽生3万1000石のほか、駿河国に6000石、近江国に3万石、信濃国に3万7000石の飛び地があり、これら賄い領を合わせて都合25万石となる。
また、甲斐国には中世以来の土豪的性格を維持する旗本領が散在していたが、寛文元年に甲斐の旗本領は上知され、旗本らは関東各国に分散され居館も取り払われた。これは幕府による旗本の自立的性格を否定することを意図したものと考えられている[3]

甲府徳川家の廃絶
綱重は甲府に在国したことはなく、江戸桜田邸に居住したので「桜田殿」と通称された。甲府徳川家の甲斐支配は、家老衆に城番制時代の代官衆を加えて行われていた。綱重と綱吉は常に同等の加増や叙位叙任を経ており、綱重の甲府徳川家は綱吉の館林徳川家とともに両典厩(御両)として、御三家に次ぐ高い家格をもっていた。
延宝6年(1678年)に綱重が死去すると、綱重長男綱豊(徳川家宣)が二代藩主となる。綱豊も綱重と同様に甲府に赴くことはなく、御浜御殿に居住し「御浜御殿綱豊卿」と呼ばれた。宝永元年(1704年)、綱豊は五代将軍となっていた徳川綱吉世子となり、次いで将軍職を継承して江戸城西之御丸へ移る。ここに甲府徳川家は一度も甲府に入らないまま2代で絶家となり、甲府徳川家の家臣団は幕臣として再編成された。
一方、宝永元年(1704年)には甲府藩主に綱吉のいわゆる「側用人」を務めた武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)の柳沢吉保が甲府城と、甲斐:駿河国内の領地を合わせて15万石となる。翌宝永2年(1705年)3月12日には駿河の領地が甲斐に一元化され、さらに甲斐国内の谷村藩主・秋元氏が吉保の旧領川越藩に転封される。谷村藩の郡内領は幕府直轄領とした上で吉保の預地とし、甲斐は柳沢氏の一元支配となった。柳沢氏は享保9年(1724年)に大和国郡山へ転封され、以後甲斐国は幕末まで幕府直轄領となる。
なお、家宣の弟・清武越智松平家を起こし、この家は幾度の転封を経て石見浜田藩主となり、明治維新まで続いた。

甲府徳川家の家臣団と施策
新井白石
甲府徳川家の家臣団には間部詮房新井白石らがおり、書上には元禄8年9月『甲府様御人衆中分限帳』[4]、元禄16年8月宝永元年12月推定『甲府殿御分限帳』[5]、田安徳川家所蔵『甲府黄門侍郎様臣下録』[6]などがある。
甲府徳川家家臣団には内部紛争が多く、寛文元年(1670年)には、家老職の大田吉成(壱岐守)・島田時郷(淡路守)両名が綱豊継嗣を排除して綱重乱心を訴える綱豊継嗣事件が発生しており、大田・島田両名は家老職を解任され毛利家に預りとなっている[7]
甲府徳川家による甲府藩政期には寛文4年(1664年)から元禄年間に検地が実施されているが、甲府徳川家は課税強化を行い延宝2年(1674年)には甲府城番と代官側の抗争も発生している。万治元年(1660年)1月の甲府城下での大火後の復旧や甲府上水の整備、徳島堰をはじめ朝尾堰楯無堰など用水堰の開鑿による新田開発が実施された。

関係資料
甲府徳川家に関する家政・藩政史料などの文書群や日記類は綱豊の将軍就任に伴い幕府へ移管されたものと考えられており、その大半の所在は不明だが、部分的に山梨県内や国立公文書館内閣文庫に残されている。
甲府徳川家に関する日記類は享和3年(1803年)に勘定奉行中川忠英による筆写の「甲府日記」が部分的に伝存しているほか『甲府御館記』、『人見私記』などがあり[8]。江戸城の紅葉山文庫には『桜田御殿日記』468冊が架蔵されていたと言われるが[9]、その後江戸城は幾度かの火災に見舞われており、今日その原本の所在や実在は不明となっている。

歴代当主
  1. 徳川綱重
  2. 徳川綱豊
参考文献
  • 斉藤司「甲府藩主徳川綱重・綱豊の政治」『山梨県史通史編3近世1』第一章第三節 

目次

御三家
もし徳川将軍家に男系男子(将軍継嗣)がなければ、この三家が将軍を出すように決められていた。また、徳川姓を名乗ること(他の一門は松平姓)や、三つ葉葵の家紋の使用などが許されていた。ただし、当初は水戸は入っておらず、将軍家・尾張家・紀州家をもって御三家と称した。8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂は紀州藩主から、15代将軍徳川慶喜は水戸徳川家の血統であるが一橋家当主から将軍に就任した。


御三卿
吉宗の時代以降にさらに御三卿が設けられた。御三卿は「将軍の家族」として扱われた。
15代将軍は一橋家当主から将軍に就任した。将軍の後継を補う他に、御三家のうち尾張藩主と紀州藩主の養子となって当主を継承した者も複数出ている。将軍家や御三家の後継補完のため、御三卿当主はたびたび空位の時期が存在した。

一門
江戸初期には将軍家の次子以降から親藩が立てられたが、宗家継承や後嗣断絶のため一時的なものにとどまった。
御三家・御三卿に次ぐ一門としては、
などがあった。これら一門大名は家格・官位などでは優遇されたが、(将軍の親戚というだけであって譜代大名ではないので)幕政に参加することは許されなかった。ただし、保科正之は徳川家綱の補佐役として大政参与に就任して幕政に携わったが、これは病没前の徳川家光による特例措置である。他に例外として越智松平家の松平武元徳川家重の時代に老中となっている。
幕末に至ると、一門大名の幕政参加がみられるようになる。




今週の記事一覧(7記事目)
葡萄オリエンタルスター          2018年9月10日(月)   5:00
ごはん処華膳でもつ煮メンチカツ定食    2018年9月10日(月) 17:00
自民総裁選 安倍氏と石破氏が共同記者会見 2018年9月10日(月) 21:00    
山梨県立博物館秋期企画展甲府徳川家    2018年9月12日(水) 5:00

昭和町風土伝承館杉浦醫院見学その2展示資料編


皆様いつもご訪問ありがとう御座います
それにしても暑い日が続いていますね

体力も消耗するので、十分な水分補給と栄養のある食事、それと睡眠も
しっかり確保して乗り切って欲しい(自分も)と思ってます。

週末になったので、少し気を楽にして更新してますが。
今回も昨日に続き昭和町風土伝承館杉浦醫院見学その2展示資料編です

写真が多いので、文章は控えめにします
風土病と戦った歴史を少しでもご紹介出来れば・・・と思っています。



院内はとても静かで、昭和にタイムスリップした感覚です
昔の顕微鏡ですね
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中間宿主のミヤイリ貝の標本です
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水槽の中にもいました
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それぞれ大きさが違います
成長段階の違い?でしょうか・・・
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こんもりとした木々が茂る昭和町風土伝承館杉浦醫院の全景です
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昭和のガラス戸です
今はこういったガラスも貴重ですね
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骨董品級の書もあります
意味は存じ上げませんが、きっといいものかと・・・
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証明もとってもレトロです
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新聞記事も丁寧に集めてあります
資料は相当豊富そうです
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建物自体も本当に懐かしい感じです
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神主さんの様な姿になっています。
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ミヤイリ貝の標本です
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長いですね〜
この書は・・・
誰かの文でしょうか?
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この方がミヤイリ貝の名前にもなった宮入慶之助博士です
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イベントのチラシです
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昭和町風土伝承館杉浦醫院の地図です
すみません、反対でした(笑)
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レトロなグランドピアノもあります
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文様がまた素晴らしいです
僕も写ってますが・・・
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終端も高級そうです
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弾いてみたくなります
ドレミ・・・くらいですが。
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あまり中を見た事はありませんが、精巧な造りですね
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蔵書も興味をひきます
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医学書がメインですね
研究者として、本も沢山あります
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可愛いお人形
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昭和天皇が来られたときの写真です
これは初めて見ました
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院内の光景です
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医薬品もありました
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スチブナールという薬の説明書です
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棚の薬
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棚の薬2
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棚の薬3
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休診の看板も残ってます
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薬の調剤ですね
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書類棚
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この棚は少し驚きました
当時の医薬品のサンプルでしょうか?
整然と並べられていました
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薬の数、種類も沢山です
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薬の看板2イメージ 37



薬の看板3
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薬の看板4
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薬の看板5
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ボケてますが、沢山の薬が保管されてました
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こういった部分も興味を引きます
ネジがマイナスだと古いもの、とか読みました。
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こういったもので患者さんのために薬を調剤していたんですね
薬剤師さんにも是非お出で頂きたい場所ですね
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棚の荷物
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昔のお医者さんの机という雰囲気ですね
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棚のフラスコ?
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黒電話が懐かしいです

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資料の棚です
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此方の棚も資料や本が沢山あります
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機械の種類はわかりませが・・・

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最近?の顕微鏡でしょうか?
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研究の為のいろいろな資料や品々
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アメリカ軍とも共同研究していたとお聞きしました
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部屋に飾ってある絵はどこか南国風ですね
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ホタルも飼育しているのでしょうか?
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雰囲気のある通路
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手洗い付近もレトロです
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手術室の看板です
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立派な棚に全集ものが・・・

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天皇陛下の写真も飾ってありました
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展示コーナーです
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使っていた身の回り品ですね
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勲章奏上書など・・・
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奏上書です
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日本住血吸虫の研究論文です
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資料2
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資料3
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杉浦博士の略歴です
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杉浦三郎医師の略歴です
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シルクハットも・・・
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院内に飾ってありました
登録有形文化財です
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大きい石碑もありますが意味まではわかりませんイメージ 72



登録有形文化財の石碑です
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昭和町風土伝承館杉浦醫院の全景です

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道路に出るとマンホールにホタルがデザインされていました
ホタルが舞う地域だったという事でしょうか・・・
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という事で今回は真面目(笑)にレポートをしてみました
地方病は知らない事も多く、案内して頂いた女性職員の方にも親切で感謝致します

地域のこういった歴史も知る事でより一層、山梨が住みやすく
住んで良かった、と思える街や県になっていって欲しいです

皆さんも地域の歴史伝統など知る機会として博物館資料館にも
是非、お出かけされてみたら如何でしょうか・・・

長々とお付き合いありがとう御座いました
昭和町風土伝承館杉浦醫院見学全2回 完



今週の記事一覧(13記事目)
厚揚げ入り鰤大根を作ってみました      2018年7月30 日(月)  5:00
ヤマザキうずまきマロンデ二ッシュ           2018年7月30 日(月) 17:00
本場風?お好み焼きを作りました     2018年7月31 日(火)   5:00
竹輪入り炊き込みご飯を作りました    2018年7月31 日(火)  17 00
中華丼を作りました           2018年8月日(水)     5:00
栗を茹でて食べました          2018年8月日(水)    17:00
dining玉屋で玉屋しゃぶしゃぶランチ   2018年8月2 日(木)     5:00
スーパーバロー北欧クラブのパン    2018年8月2 日(木)     17:00
葡萄甲斐乙女を食べました       2018年8月3 日(金)   17:00
The Roots - You Got Me ft. Erykah Badu 2018年8月3 日(金) 21:00

昭和町風土伝承館杉浦醫院見学その1ビデオ鑑賞編


皆様いつもご訪問ありがとう御座います
今回はいつもとはちょっと志向の違った写真を御紹介したいと思います

これも昨年の10月の写真でもっと早く更新したかった写真ですが、地方病
戦った杉浦醫院を見学してみました。

HPには・・・

甲府盆地を中心に県内にまん延した地方病日本住血吸虫症の研究と治療に生涯をかけた医師杉浦健造三郎父子の業績を顕彰し、地方病終息に至る先人の足跡を伝承していくために、町は平成22年に杉浦家の土地・建物を購入し、杉浦家から全ての収蔵品の寄贈を受けました。平成24年8月13日に敷地内5つの建造物が国の登録有形文化財に登録されました。現在は、杉浦父子が、治療と研究を続けた病院と庭園に加え、裏の土蔵・納屋から車庫・温室までを公開して、本オープンするはこびとなりました。

とあり、杉浦醫院の存在は知っていましたがなかかな尋ねるきっかけが無く
長い事行きそびれていた場所でした。

写真の枚数が多くなったので2回に分け記事に致しました




杉浦醫院の看板が見えてきました
アルプス通りからちょっと入った住宅街にあります
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少し探しましたが、敷地にはこんもりした樹木が聳えていたのでわかりました
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一見しただけではわかりませんが、こちらが昭和町風土伝承館杉浦醫院です
どこか懐かしい感じのする建物です
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地方病流行終息の碑がありました
多くの研究者、地元の皆さんの努力の賜物だと思いました
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国の天然記念物であった「鎌田川ゲンジボタル」指定石碑(昭和町押越)の隣に
2002年12月に建立された。その後2010年の風土伝承館杉浦醫院オープンに伴い杉浦醫院の庭に移設された。
石碑の下部には医院の屋根に使用されていたが、終息に要した年数と同じ115枚並べられている




文字が小さく読めないかも知れませんが碑文です
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英語でも看板が掲げられてありました
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彫り出した杉浦醫院の看板です
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昭和町ふるさとふれあい祭りのポスターも・・・
受付を済ませ、女性職員の方に説明を受けました
色々と親切に」御教授して貰いました。
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最初にビデオを見せて貰っています
杉浦健造博士と三郎博士 です
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山梨でもこの地方病と戦っていた歴史があります
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頭痛の兆候や・・・
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ビデオの内容は様々です
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杉浦博士の説明です
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ミヤイリ貝の名前の由来になった宮入先生です
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人間に寄生する経路の解説です
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当時の写真です
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地方病予防溝?こう?
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資料が沢山展示してあります
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中間宿主のミヤイリガイの図
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セルカリアの図です
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ミヤイリ貝の駆除の様子
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昭和26年当時
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米軍第406医学総合研究所から贈られ法被
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杉浦醫院からの返礼
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杉浦三郎博士の奏上書
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昭和天皇も視察されています
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昭和22年10月、山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。
中巨摩郡玉幡村(現甲斐市)




文化功労者表彰を授賞した杉浦三郎博士
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地方病との斗いのケースです
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色々な資料を拝見しました
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病気の感染経路
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小さい文字なので少しアップしましたが、ボケました
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今見るとどこかレトロな感じもしますが、内容は深刻です。
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嗜好異常も起こしたようです
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成績不良も起こした様です
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という事で写真が多いので一旦ここで終了致します。

神社、仏閣等昔の建築物や歴史も好きですが、こういった独特の歴史や
地方病との戦いの歴史も知る機会に恵まれ、とても勉強になりました。

やっと写真がアップ出来て少しほっとしています。
皆さんは地域の歴史はお好きでしょうか・・・




山梨県 昭和町 風土伝承館 杉浦医院について
山梨県中巨摩郡昭和町にある杉浦醫院(医院)は、約3300平方メートルの敷地に大正から昭和にかけて建てられた木造2階建ての病院が、明治時代に建てられた母屋と並立しています。病院玄関の左右には、「Dr.Sugiura’s Office Physician」と書かれた英字看板と当時のまま表札「杉浦醫院」が並んでいます。
 
 
多くの患者が治療を受けた診察室
薬室と薬棚
杉浦健造博士と三郎博士
 杉浦医院8代目の健造博士(1866〜1933年)は、地方病発症地の用水路に共通して宮入貝に似たカワニナが生息するという研究結果を発表し、「宮入貝」と「日本住血吸虫」発見の先駆者として著名です。
 動物実験を繰り返し、宮入貝を中間宿主にしたセルカリアが皮膚から侵入する感染ルートを突き止めた9代目三郎博士(1895〜1977年)は、米国の研究者も地方病の治療・予防の講習に訪れたという日本住血吸虫症の世界的権威です。




日本住血吸虫
日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう、学名Schistosoma japonicum)は、扁形動物吸虫綱二生吸虫亜綱有壁吸虫目住血吸虫科住血吸虫属に属する動物哺乳類門脈内に寄生する寄生虫の一種である。中間宿主は淡水(水田側溝ため池)に生息する小型の巻貝ミヤイリガイ(別名カタヤマガイ)。最終宿主ヒトネコイヌウシなどの様々な哺乳類である。日本住血吸虫がヒトに寄生することにより起こる疾患を、日本住血吸虫症という。
特徴
紐状の形の、細長い吸虫。雌雄異体で、雌は黒褐色で細長く、雄は雌よりも淡い色で太くて短い。雄の腹面には抱雌管と呼ばれる溝があり、ここに雌がはさみこまれるようにして、常に雌雄一体になって生活する。体長は雄が9-18 mm、雌が15-25 mm。虫卵の大きさは70-100×50-70 μm。ヒトを含む哺乳類の血管(門脈)内に寄生し、赤血球を栄養源にする。

生活環
 
日本住血吸虫のセルカリア。これが水系から経皮膚的に哺乳類に感染する。
最終宿主動物の糞便とともに排出されたは水中で孵化し、繊毛をもつミラシジウム(またはミラキディウム/miracidium)幼生となる。ミラシジウム幼生はミヤイリガイの体表を破って体内に侵入し、そこで成長するとスポロシスト幼生となる。スポロシスト幼生の体内は未分化な胚細胞で満たされており、これが分裂して胚に分化し、多数の娘スポロシスト幼生となってスポロシスト幼生の体外に出る。娘スポロシスト幼生の体内の胚細胞は、長く先端が二又に分岐した尾を持つセルカリア (cercaria) 幼生となって娘スポロシスト幼生と宿主の貝の体表を破って水中に泳ぎ出す。ミヤイリガイは水田周辺の溝などに生息しており、その水に最終宿主が皮膚を浸けたときに、セルカリアがその皮膚から侵入し感染する。その後肝臓の門脈付近に移動して成体となる。成体は成熟すると雌雄が抱き合ったまま門脈の血流をさかのぼり、消化管の細血管に至ると産卵する。卵は血管を塞栓するためその周囲の粘膜組織が壊死し、卵は壊死組織もろとも消化管内にこぼれ落ちる。


分布
日本を含む東アジア東南アジア。かつては日本が分布の北限であった。
日本では、寄生虫病予防法1932年-1994年)により、日本住血吸虫病の有病地(発生地)を都道府県知事が告示していた。

日本住血吸虫発見の歴
日本の個体群が最初に医学的、生物学的に記載されたため日本住血吸虫と名付けられた。日本人が国外に広げた日本特有の寄生虫という訳ではない。
まずセルカリアが侵入した皮膚部位に皮膚炎が起こる。次いで急性症状として、感冒様の症状が現れ、肝脾腫を認める場合もある。慢性期には虫が腸壁に産卵することから、発熱に加え腹痛、下痢といった消化器症状が現れる。好酸球増多も認められる。虫卵は血流に乗って様々な部位に運ばれ周囲に肉芽腫を形成するが、特に肝臓とにおける炎症が問題になり、肝硬変が顕著な例では、身動きができないほどの腹水がたまる症状が出て、死に至る。
このように日本住血吸虫が重篤な症状を引き起こすのは、成体が腸の細血管で産卵した卵の一部が血流に乗って流出し、肝臓や脳の血管を塞栓することによるところが大きい。
右の顕微鏡写真は、病理解剖で見つかった結腸と肝臓の住血吸虫卵の痕跡。かつての流行地での生活履歴を物語る所見である。戦時中に中国南方、東南アジア、フィリピンなどに従軍した折の感染であることも多い。

日本における過去の有病地
日本では、古くから山梨県甲府盆地底部、福岡県佐賀県筑後川流域、広島県深安郡旧神辺町片山地区(現:福山市)の風土病として知られていた。
最大の有病地である山梨県ではこれを「地方病」と呼び、古くは「流行地には娘を嫁に出すな。」という地域差別にまで発展したことをうかがわせる話も伝わる。同県では、日本住血吸虫対策を行ったことで、肝硬変による死亡率が約2/3にまで激減するほど、人々の生命を脅かす存在だった[1]

日本における日本住血吸虫対策と撲滅
日本住血吸虫症(地方病)にはプラジカンテルと言う特効薬があるが、感染を繰り返す度に肝障害が蓄積するために、感染に対する治療だけを行っても根本的な解決には至らない。そこで「水田、用水路には素足で入らないこと」等の感染予防指導を行い、同時に日本住血吸虫の生活環自体を破壊することを考えた。
日本住血吸虫の中間宿主であるミヤイリガイは、水田の側溝などに生息し、特に水際の泥の上にいる。そこで、それまで素堀で作られていた水田の側溝をコンクリート製のU字溝に切り替えたり、殺貝剤を使用したりするなど、ミヤイリガイが生息できない環境を造る取り組みが行われた。
日本では第二次世界大戦後に圃場整備が進んだことから、ミヤイリガイも日本住血吸虫病も瞬く間に減少し、1978年以降新規患者の報告はなくなった。
1996年2月、国内最大の感染地帯であった甲府盆地の富士川水系流域の有病地を持つ山梨県は、日本住血吸虫病流行の終息を宣言した。115年にわたる対策の成果であった(詳細は「地方病 (日本住血吸虫症)」を参照)。
また、西日本における主要な感染地帯であった筑後川流域では、筑後大堰の建設を機に、河川を管理する建設省(現・国土交通省)、堰を管理する水資源開発公団(現・水資源機構)、流域自治体の三者が共同して、1980年より湿地帯の埋立て等の河川整備を堰建設と同時に行い、徹底的なミヤイリガイ駆除を図った。この結果、1990年には福岡県が安全宣言を発表し、その後10年の追跡調査を経て新規患者が発生していないことを確認し、2000年に終息宣言を発表した。ミヤイリガイの最終発見地となった久留米市には「宮入貝供養碑」が建立され、人為的に絶滅に至らしめられたミヤイリガイの霊を弔っている(詳細は筑後川#日本住血吸虫症の撲滅を参照)。
ただし、すべてのミヤイリガイが絶滅したわけではない。現在でも千葉県小櫃川流域[2]及び最大の有病地であった山梨県甲府盆地北西部の釜無川流域では、継続的に生息が確認されている。



日本国外での日本住血吸虫対策
中華人民共和国フィリピンをはじめとする東南アジアではいまだに感染地域が残り、プラジカンテルに対する耐性の出現も報告されている。またアフリカ等ではマンソン住血吸虫ビルハルツ住血吸虫、東南アジアではメコン住血吸虫の感染も問題になっている。ワクチン等の予防手段はないので、感染地では淡水の生水を皮膚に接触させないことが重要である。

脚注
  1. ^ 行政施策と肝硬変死亡東京都健康安全研究センター 平成8年度厚生科学研究
  2. ^ 千葉県レッドデータブック(2011年改訂版) - 貝類 pp.434 (PDF)
外部リンク
  
   


今週の記事一覧(10記事目)
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山梨県立美術館ヴラマンク展 絵画と言葉で紡ぐ人生


皆様こんばんは
在庫写真もいよいよ10月に突入しそうになりました(ようやくか・・・)

今は夏真っ盛りですが、秋口になっているこの記事は芸術の秋(爆)
となっています。

山梨県民の方でこの山梨県立美術館に入られた方は多いと思いますが
ミレー種まく人などミレー作品のコレクションでも有名な美術館です

この時の企画展はヴラマンク展をやっていました
どこにでも突撃する方ですが(笑)ヴラマンクは全く知らない方でした。

美術館の静けさも好きですが、僕でも何か感じ取れる作品とか印象に残る
絵や作品が1枚でもであえれば、という気持ちでお邪魔しました。

作品は写せませんし、解説するには知識も持ち合わせていませんが
この記事を作る過程で観た映画がとても印象的でした。

その映画タイトルは・・・

醜聞』という映画で(スキャンダル)1950年(昭和25年)の日本映画です
監督はあの黒澤明、主演は若き日の三船敏郎さんです

ヴラマンク解説の余談に・・・

黒澤明の映画『醜聞』では、バイクに乗って風景画を書く主人公の青江一郎(三船敏郎)が、美術雑誌で「ヴラマンクの真似をしているとかなんとか」と書かれた、という形でこの画家に言及されている。

と Wikipediaには紹介がありました

この記事をアップしながら1時間45分の映画を2日に分け観ました
御時間があれば、是非皆様にも観て欲しい映画です

丑闻-1950年日本高清电影完整版免费在线观看-雪狐影视
http://www.gzzza.com/play/22392(此方のサイトで全編観れます)

11分過ぎの台詞にその名前がでてきますが、Wikipediaでは説明されていない
「あんな具合に生きられたらさそ気持ちいいだろう」という台詞がありこの映画
当時のヴラマンクの印象を物語っていました。

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自家用車の前で、妻ベルト・コンプと共に 1926年頃



銀杏が黄色くなってきた頃です
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もう何度も来ている山梨県立美術館です
中学生の頃は自転車で来てました(笑)
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◆エミール=アントワーヌ・ブールデル / 『ケンタウルス』(1914)
Emile-Antoine Bourdelle (1861 - 1929) / "CENTAURE MOURANT"
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正面から・・・
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入り口右横にも大きな看板がありました
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次回の予告です
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特別展観覧券で入ります
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どこを見ても芸術的な作品が多いです
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ヴラマンクの映像も観ました
遺言でした
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ヴラマンク展 のポスターです
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展示作品一覧
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売店で飾られていた関連商品です
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思わず買いそうになっていた記念の本です
なかなかのお値段です。
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ヴラマンクの写真が立て看板みたいになっていました
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遺言の中に・・・

ひとつの作品の運命は、蒔かれ、芽を出し、花開く植物の種子の運命と
同じなのである。

ともあり美術品としての将来を植物の種子の運命として捉えているのも
印象深いです。

映画の台詞の中で語られる人物像と遺言から感じ取る人物像が同じ人だとは
思えないのも、やはり画家らしいと思った次第です。

台詞にもその名前が出てくるこの映画もマスコミを題材にしていて面白いので是非。
皆さんは美術館はお好きでしょうか?


モーリス・ド・ヴラマンク「私の遺言(1957年)」
これは私の遺言である。
私は現在80歳である。人生は短い。しかし、私は、いまだに空を見ることができることに驚いている。この世界で人間の生命を脅かしてきた何千もの突発事件を免れ生きてきたことに驚いている。
また私は、文明人が生み出した科学の野蛮さにこれまで耐えることができたこと、それでも恥ずかしさのあまり地下を這う虫にならなかったことに、自ら驚いている。
人生とは、指先で触れてわかるものである。人生とは、目の前に現れ、直接感覚に働きかけるものである。私の年老いた心のなかでは、ライスダール、ブリューゲル、クールベ、セザンヌ、ファン・ゴッホらに対する思い出が今なお新鮮であるが、それらがもたらした深い感動をありとあらゆる人々に無償で遺し伝えることにしよう。
そして同時に、私が嫌いなもの、私が拒絶してきたもの、たとえば、低温殺菌牛乳、薬品、ビタミン剤、代用食品、抽象芸術の装飾的な語呂合わせなどをも、惜しみなく、また嫌味なしに、遺し伝えることにしよう。
なぜなら、私はこんなに年をとったにもかかわらず、フランス料理を楽しみ、マッシュルーム入り若鶏や、ビフテキのフライドポテト添え、山鶉のキャベツ添えを味わい続けており、その上で、食事と薬を混同することはなく、田舎生活とサナトリウム生活を、作品と商品を、そして悪徳と愛情を混同することはないからである。
私は、苦悩を知らない人たちを気の毒に思う。また、適切な方法によってそこから逃れることができなかった人たちも気の毒に思う。
苦悩は、深い傷跡を残す。愛の悲しみの涙は、決して消えることはない。その涙の苦い味が口の中に残る。それでも、人が良い歯を持ち、空腹であれば、固いパンもとてもおいしく感じるものである。
美しい声を持つ人々は、たとえ苦痛にあえいでいても、歌うであろう。
芸術家や作家たちを駄目にするのは、お金そのものではない。金がもたらす安易さ、それが生み出す新たな欲望は、人生の様相を変え、内的情感を変質させ、当初の若々しくまじめな清らかさを萎縮させるほど、病的な要素であり、有害なものなのである。ひとつの作品の運命は、蒔かれ、芽を出し、花開く植物の種子の運命と同じなのである。
画家は発明家ではないし、絵画は発明であってはならない。本当に個人的でオリジナルな表現は、稀である。
たいていの場合、芸術家、いや、人間というものは、すでに使用されたやり方、どこかで見たことがありそれを再利用するやり方、使い古されたやり方でしか、何事も行うことができないものである。
内的様相をそれ自体の深みから表現し、人々に理解してもらうことがいかに難しいことか! 
あらゆるものが乱雑に混ざり合うなかから、本当の感情を見分けて選び出し、筆やペンで表現することがいかに難しいことか!
私は、若い画家たちに遺し伝えようとしているのである。野に咲くありとあらゆる花々を。小川の土手を。平原を行く白と黒の雲を。川、森と大きな木々、丘、道を。雪に覆われた寒村を。花が見事に咲きそろい鳥たちや蝶が飛び交うありとあらゆる牧草地を。
これらの幸福、それぞれの季節が巡り、花が咲き、心臓が高鳴るこの上もない幸福、光と影があり、空と水の色彩が存在するこの幸福、それらが、われわれのきわめて貴重な財産であり、傑作を生み出してきた原動力であることを、時にわれわれは思い出さなければならないのではないか。
それらは、税務署から取り立てられることのないわれら共通の財産であり、かつて畑や牧場で目にしたイメージをいまだにまぶしく目に焼きつけ、かつて耳にした泉の音をいまだに耳に残している年老いた画家が、公証人に邪魔されることなく後世に残すことができる共通の財産である。
これらすべてを、われわれは、十分に楽しもうではないか。
あなたがたも、それらを十分に尊重してはどうか。深く永遠の感情をカンヴァスの上に定着させるにあたって、あなたがたは、現れたばかりの夜明けやもはや夢見ることのできない昼間に感動して十分に味わってみてはどうか。
私は、決して何も求めてこなかった。
人生が、私にすべてのものを与えてくれた。
私は、私ができることをやってきたし、私が見たものを描いてきた。


F46ブラマンクの生涯について、インターネット絵画教室3分動画テキストで説明 -



MAURICE de VLAMINCK - YouTube



山梨県立美術館 現館長
「ポンペイとソンマ・ヴェスヴィアーナ」青柳 正規(国立西洋美術館長)1:
平成18年度 軽井沢土曜懇話会 第2回 - YouTube



モーリス(モリス)・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck 発音例, 1876年4月4日 - 1958年10月11日)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される19世紀末〜20世紀フランス画家文筆家

生涯
1876年、パリで音楽教師の子として生まれるが、16歳の時には家を飛び出してシャトゥーに住んだ。18歳の時に結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラバイオリンを弾いたりして生計を立てていた。
ヴラマンクは、徹底した自由主義者で、自分の才能以外の何ものも信じず、何ごとにも束縛されたり、服従することを嫌った。こうした性格から、絵画についてもあらゆる伝統や教育を拒否し、少年時代に多少絵の手ほどきを受けた程度で、ほとんど独学であった。
1900年、シャトゥー出身の画家、アンドレ・ドランと偶然知り合って意気投合し、共同でアトリエを構える。1901年には、パリのベルネーム・ジュヌ画廊で開かれていたゴッホ展を見に行き、そこでドランを通じてアンリ・マティスに紹介されている。
第一次世界大戦で兵役に着き、復員後はパリ郊外に拠点を移し、自身の住む村や周辺の町の風景画、静物画を多く描いた。 また文筆家としても執筆活動を行い、亡くなる2年前には家族宛てに遺言を残している。

作品の特徴
あらゆる伝統を拒否し、自分の才能だけを信じたヴラマンクであったが、ファン・ゴッホにだけは少なからず影響を受けていることを画家自身が表明しており、作品からも影響がうかがわれる。ヴラマンクの絵は絵具チューブから絞り出した原色を塗りつけているように見えて、その画面には明るさよりは陰鬱さがただよっているのが特色である。第一次世界大戦後はフォーヴィスムから離れてポール・セザンヌを見出し、独自の道を歩み、色彩も一転して茶と白を基調とする暗めに移行した。

代表作
余談
黒澤明の映画『醜聞』では、バイクに乗って風景画を書く主人公の青江一郎(三船敏郎)が、美術雑誌で「ヴラマンクの真似をしているとかなんとか」と書かれた、という形でこの画家に言及されている。
  


【名 称】
ヴラマンク展 絵画と言葉で紡ぐ人生
 
【会 場】
山梨県立美術館 特別展示室
 
【会 期】
2017年9月2日(土)〜10月22日(日)
 
【休館日】
9月4日(月)、11日(月)、19日(火)、25日(月)、10月2日(月)、10日(火)、16日(月)
 
【開館時間】
9:00〜17:00(入館は16:30まで)
 
 
  観覧料
一 般大学生
1,000円(840円)500円(420円)
※ ( )内は20名以上の団体料金、前売り料金、県内宿泊者割引料金
※高校生以下の児童・生徒は無料
※県内65歳以上の方は無料(健康保険証等持参)
※障害者手帳をご持参の方はご本人と介護の方1名が無料

関連イベント

記念講演会 「ヴラマンク−”野獣”(フォーヴ)からの出発」
講師 島田紀夫氏 (実践女子大学名誉教授)
日時 9月9日(土) 14:00〜15:30
場所 講堂(申し込み不要、聴講無料)
  
 
■大人のための美術講座
ヴラマンクの芸術家人生を概観します。
ギャラリー・トーク前のちょっとお得なレクチャーです。
講師 担当学芸員 (申し込み不要、聴講無料)
日時 9月18日(月・祝) 13:30〜14:00
場所 講堂(申し込み不要、聴講無料)
 
 
■担当学芸員のギャラリー・トーク
日時 9月18日(月・祝)  14:30〜
場所 特別展示室(申し込み不要、本展チケットが必要です)
 
 
■こども美術館 「かいたひとのきもち みるひとのきもち」
日時 9月30日(土)  ①10:00〜11:30 ②13:30〜15:00
場所:ワークショップ室
対象:小学生(1〜3年生は保護者同伴、各回定員20名程度、参加無料、申し込みが必要です。)
〈申し込み期間〉8月30日(水)〜9月27日(水)
〈申し込み方法〉FAXまたは電話にて「こども美術館」係にお申し込みください。その際次の事項をお伝えください。
①参加希望コース(午前/午後)、②参加者全員の氏名、③学年、④電話番号(FAX番号)
 
 
■記念コンサート
演奏 大久保ちえみ(ヴァイオリン)、佐藤和子(ピアノ) 
日時 9月10日(日) 14:00〜14:40
場所 本館1階ロビー (申し込み不要、入場無料)

その他の年度の展覧会はこちら

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醜聞
醜聞』(スキャンダル)は、1950年(昭和25年)4月26日公開の日本映画である。松竹製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎モノクロスタンダード、105分。
東宝争議のため東宝での映画製作を断念し、他社で作品を撮っていた黒澤監督の初の松竹作品である。過剰なジャーナリズムによる問題を描いた社会派ドラマ。無責任なマスコミの言論の暴力を不愉快に思っていた黒澤が、電車の雑誌広告のセンセーショナルな見出しをヒントに製作した[1]。第24回キネマ旬報ベスト・テン第6位。

あらすじ
新進画家の青江一郎は、オートバイクを飛ばして伊豆の山々を描きに来ていた。3人の木樵は彼の絵を不思議そうに眺めている。そこに人気声楽家の西條美也子が現れ、宿が同じだと分かると、美也子を後ろに乗せて宿へ向かった。青江は美也子の部屋を訪ね、談笑していたが、そこを雑誌社「アムール」のカメラマンが隠し撮りし、嘘の熱愛記事を書かれてしまう。雑誌は飛ぶように売れ、街頭で大々的に宣伝された。これに憤慨した青江はアムール社へ乗り込んで編集長・堀を殴り倒し、騒ぎは更に大きくなってしまう。青江はついに雑誌社を告訴することにし、そこへ蛭田と名乗る弁護士が売り込みに来る。翌日、素性を確かめるために蛭田の家を訪ねた青江は、結核で寝たきりの娘の姿に感動し、蛭田に弁護を依頼する。しかし、病気の娘を抱えるも金のない蛭田は10万円の小切手で堀に買収されてしまう。裁判が始まるも、買収された蛭田の弁護はしどろもどろで、法曹界の重鎮・片岡博士を弁護人にたてた被告側が圧倒的に有利だった。2回3回と公判が進むも、蛭田は言わねばならない証言でも押し黙り、4回目の公判で木樵が原告側の証人として立つも、勝ち目はなかった。青江は蛭田の不正を疑ったが口にはしなかった。そんな中、父親の不正を察知し心を痛めていた蛭田の娘が青江の勝利を叫びながら亡くなった。最終の公判の日、青江側の敗訴が決定的になる寸前、蛭田は自ら証人台に立ち、10万円の小切手を出して自らと被告人の不正を告白する。これが決め手となって片岡博士は敗訴を認め、原告側の勝利となった。記者団の前で青江は「僕たちは今、お星様が生まれるのを見たんだ」と語った。


先週の記事一覧(12記事目)
桃まどかの様子と日焼けした腕(笑)    2018年7月16日(月)17:00
輸入パスタの値段                   2018年7月17日(火) 5:00
自家製魚介だれで生中華つけ麺      2018年7月18日(水) 5:00
三ツ矢新絞りレモン(24時間以内搾汁)  2018年7月18日(水) 17:00
暑いとおでんが売れないみたい      2018年7月19日(木)  5:00
新聞に甲府の高砂湯90年の歴史に幕    2018年7月19日(木) 17:00
ヤマザキランチパックグラタンコロッケと鹿児島産黒豚メンチカツと夏野菜カレー                 2018年7月20日(金) 17:00
いきなりステーキの前で佇みました(笑) 2018年7月21日(土)  5:00

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