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戦争体験記 その2
(伯父の回想は続く)
夜が明けて、自宅に戻ってくると、あたりは一面焼け野原だった。
自分の家には4個の焼夷(しょうい)爆弾が落ちていた。勝手口にひとつ、床の間にひとつ、隣家との間にひとつ
そして庭に作った防空壕のど真ん中にひとつ。
防空壕に避難していたら一家は全滅だった。この防空壕は一家四人が入れる大きい酒樽を土の中に埋めて、その上を鎌倉のように土で覆ったものだった。
空襲警報のサイレンが鳴るたびに飛び込んだが、いつも沢庵のような臭いがしていた。
自分の好きだった戦闘機や軍艦の絵本が灰になったまま、まだ本の形をしていた。
小さい一軒の民家に4個もの爆弾を落としたのだから、おそらく米軍の爆弾は雨のように降ったのだろう。
回り一面焼け野原で遠くの方まで見渡せてしまう。わずかにガスタンクが立ったまま数個残っていたが、時々、バッと紅い炎を上げていた。
隣組の親友の塚本キーボーは腰に焼夷弾が直撃して亡くなったという。
キーボーは小学校の校庭で行進中にボクの前を歩いていたが、我慢しきれずに脱糞したまま行進していた。
先生に言われて、彼のパンツを取りに家まで走っていたことを思い浮かべた。
近所の優しくしてくれたおばさん(今思えば嫁いで間もない若奥さん)の焼死体を防空壕から引き上げる光景が忘れられない。それは真っ黒に焦げた焼死体だったが、曲げた膝から真っ白な骨が三十センチくらい突き出していた。
家を失い、頼れるところは田舎にある母の姉妹しかなかった。母の姉は呉服屋に嫁ぎ、妹は隣の酒屋に嫁いでいた。
父がどうして汽車の切符を手に入れたのか、鉄道はなぜ動いていたのか分からない。
駅のホームで父はボクと姉を列車の窓から投げ込み、乗り込んだ。(終戦後も列車は窓から乗るのが当たり前だった)
一級河川のA川の鉄橋をゆっくりと列車が渡る時、下を見たら黒い焼死体が川にも岸にも山のように折り重なって倒れていた。人体の焼ける異様な臭いが鼻をついた。
大人たちの噂では、米軍はまず、市の周りに爆弾を落とし、次第に中に落としていく絨毯爆撃で市民殲滅作戦をとったらしい。大部分の市民がA川に向かって避難した。逃げ惑う人たちはA川へA川へ言い合って走って行ったがなぜか、父は広い畑のある方向に逃げた。
一説には川が光っていたので狙われたとも言われる。
家族四人が生き延びたのが不思議なくらいだ。
山本五十六元帥が戦死した時、先生は小学校の生徒全員に作文を書かせた。
小学校三年生の自分の作文が選ばれて、NHK放送局に行きマイクの前で朗読した。
軍国少年だった。あの頃はみんな軍国少年だった。
日米開戦のとき、父が「この戦争は負ける」と悲痛な面持ちでつぶやいたことが思い出される。
田舎に疎開すると、町からきたよそ者として特殊な目で見られた。母の妹の家では「居候」と呼ばれて肩身の狭い思いをした。酒屋の屋敷の一番奥の十畳間が自分達四人家族の生活の場所となった。少し年下のわがままな従弟が居て、祖母が溺愛してたたためにボクにつらく当たった。母には我慢しろと毎日言われた。温厚な父も雨の日、駅から一時間近く自転車に乗って帰宅し母によく当たった。父も子供以上にストレスが溜まっていたに違いない。
小学校では勉強ができるということで一目置かれた。呉服屋と酒屋という田舎では大家の庇護のもとにあったのかもしれない。
大人しい子だと言われていたが、ある時、近所のガキ大将に苛められて腹を立ててやっつけてしまった。それから子供たちの自分を見る目が変わった。仲間になった。
夏は川や池で泳いだ。田んぼに入って蛭に食いつかれた。
冬は寒くて股火鉢をして婆さんに叱られた。足の裏に垢切れができてパツクリ割れて紅い肉が見えた。
治療法は山から取ってきたユリの花の根っこを傷口に埋め込んで、焼き火箸で抑えて溶かした。
ぼくら子供たちの服の両袖はいつもゴワゴワニに固まっていた。垂れた鼻をこするからだ。
街から来た青白い少年も逞しくなった。
小学校では被爆の実態を作文に書き、教室の後ろの壁に張り出された。
鬼畜米英というような言葉も書いたような記憶がある。
夏のある暑い日、大人たちが集まって深刻な顔をして話し合っていた。新型爆弾が広島に落ちたという噂が流れて来て数日後だった。
学校では教科書や壁に張られた作文もはがして燃やした。アメリカ軍に見られてはいけないということだった。
教科書を黒塗りした覚えは無い。
ロシアの兵隊は女を犯し、腕時計を略奪すると大人たちは噂し、米軍以上に怖がっていた。
米軍は上陸すると日本の売春婦と手をつないで歩いていた。売春婦を大人も子供も「パンパン」と呼んで蔑んだ。
言葉の由来は分からない。
終戦になって子供心にホッとした開放感を抱いた記憶がある。これでもう毎日B29の空襲を怖がらないで済むという安心感だった。
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