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東アジア反日トライアングル
(古田博司 文春新書 2005年10月))
本書は筑波大学教授(東アジア政治思想)の著者が、昨年10月11月に雑誌「諸君」に寄稿した記事を中心に加筆改稿したもの。
著者は2003年3月から2年間、日韓歴史共同研究委員会のメンバーだった。
PONKOは委員会の日本側メンバーは左傾学者ばかりだと誤解していたので、この著者のように中・韓・朝に厳しい批判の目を向け、韓国の歴史学者と激論を戦わす委員の存在を知らなかった。
本書の帯にあるように「中国・韓国・北朝鮮は、なぜいつまでも「反日」に固執するのか?」を考察し、反日は今後も永遠に続き、止むことはない。日本はそれに敢然と戦うべきであるという。
著者はまず、日本と特定近隣諸国との違いを次のように分析し、それが本書の底に常に流れる主要なメロディーになっている。
すなわち、日本は近代化を終えてポストモダンの時代に入っている。
一方、中国も韓国もまだ近代化の途中であり、これからが本番である。北朝鮮にいたっては中世の真っ盛りである(その論拠は詳しく述べられているが割愛する)。
これらの諸国は日本と戦ったことがない。
中国は蒋介石の国民党が戦っただけであり、共産党ではない。
日本は連合軍に敗れたわけで、朝鮮に敗れたわけではない。彼らは本当は正面きって戦っていないので自分自身を解放できない。
日本を打ち負かして祖国を解放したなら、靖国神社に文句はつけないだろう。
戦っていないから、スッキリしないでいつまでたっても文句をつける。
そのうえ、国是として反日を掲げているがために、自分で戦いとったような偽史を捏造しなければいけない。
それに中華思想がある。
(中華思想、小中華思想については特に目新しい記述はない)
我々が付き合っている東アジアは我々の過去だ。我々は早く先に行ったために過去から攻撃されている。したがって過去から攻撃されたら先輩として敢然と闘うべきだ。間違っていることを指摘し、納得しなかったら、いろいろな外交手段を使って行動すべきだ。
「わが国が国際舞台で不当な非難を受け、日本の文化や歴史や精神を一顧だにしないような取り扱いを受けるのを甘受するしか東アジアの調和を維持する道がないとするならば、そのような犠牲を払って得られる平和はドレイの平和であり、とうてい耐え忍ぶことはできない」
と、かなり過激な発言もある。
しかし、著者は「ナショナリストの正義を唱道しているわけではない」という。
たしかに、著者は日本が東アジアに行ったことは植民地化であり、侵略だと断定している点では生粋のナショナリストとはいえないかもしれない。
しかし、侵略であると同時に「近代化の輸出」であったとするバランス感覚も持っている。
韓国併合も不法ではなかったとするケンブリッジ大学のJクロフォード教授の主張に賛同している。
これは2001年に日韓併合は不法だったという結論を導き出すために韓国側の主導で学術会議(日・米・英・韓)が開催された時の次のような発言だ。
「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことであって、日韓併合条約は国際法上は不法なものでなかった」
附論では、田中均の推進した「東アジア共同体」を批判し、柳美里や姜尚中の在日一世の神話化は在日三世、四世に害毒を流すものだと批判する。
また、靖国神社と東アジアの霊魂観にも触れ、死ねば神様になる日本人と違って、売国奴として墓まで暴かれて彷徨う東アジア諸国の霊魂を靖国神社に合祀すればいいと談話で述べている。
巻末にある今年8月の著者の談話が印象的だ。
国家理性の欠如が東アジア全体の宿痾だ。
80年代に反日問題が集中して起きたのは、社会主義が機能しなくなったからだ。
近代化で日本の後塵を拝することは不愉快だ。
日本はいつも自分たちより下の存在と思いたい。でも下ではない。
このジレンマに苦しんで「被害者の正義」を押し立てる。
そんな児戯はもうやめて自分たちの国家の理想像をしっかり立てて日本を追いつき追い越して欲しい。
(PONKOのひとりごと)
自分たちの国家の理想像をしっかりと立てなければならないのは日本も同じだ。
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