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「神様でも間違える」
長年「産経抄」の執筆を続けて来た石井英夫氏が同紙の「蛙の遠めがね」で天皇陛下のご親拝を望んだ一文を寄せた。
往年の「産経抄」は寸鉄人を刺す鋭さと、軽妙なユーモアが入り混じった見事なコラムだった。
同氏は「神様だって間違える。天皇だってお考えが間違うことはありうる。靖国神社も柔軟に修正すればいい」として、陛下のご親拝を懇望している。
Ponkoはいつものヒステリーで「恐れ多くも」(この言葉で、そこに居合わせた全員が雷に打たれたように「気を付け」の姿勢を取る)「天皇のために死んでいった英霊をご親拝しない天皇なんて要らない」と極論を披露して顰蹙を買った。
その気持ちを代弁してくれた石井さんの詳論をコピペしてご紹介する。
ただし、A級戦犯14柱のみたまを「復祀」するというある意味姑息な考えには同意できかねるが・・・
産経新聞(2006年8月28日付朝刊)より
蛙の遠めがね(石井英夫)
陛下、どうかご親拝を
かつては高貴な方のことに触れる時は「恐れ多くも」という枕詞をつけるのかならわしだった。それが約束事だった。
そこで恐れ多くもだが、この老蛙生はいまの天皇陛下と同じ昭和1ケタの生まれである。ただし靖国の遺族ではない。しかし戦後61年目の夏が過ぎようとするいま、天皇陛下と靖国神社にお願い申し上げたいことを思い切って書くことにした。
それは、陛下にはどうか靖国神社にご親拝いただきたいというお願いである。一老蛙生としての切なる懇望である。
この8月15日、東京・九段の靖国神社を参拝した人の数は、過去最高の25万8000人にのぽった。
老蛙生もそのうちの1ピキだったか、小紙を除く大手紙のすべてが「首相参拝」を批判した。
ところがその各紙の世論調査では「参拝支持」がなんと多数を占めた。つまり人びとの意思は各紙論調をみごとに裏切ったのだった。
これは勝手な推測だか、そういう民意はいま天皇陛下の靖国ご親拝を熱く望んでいるのではないだろうか。ところか昭和50年11月に昭和天皇が最後におまいりなさって以来、今上陛下まで31年間も絶えて天皇の靖国ご親拝がない。これはどうしたことだろう。
これでは祖国のため、天皇のためといって命をなげうった246万柱の英霊に対して説明がつかない。物事の道理が立たないというか、筋道が通らないというか、市井のカエルの頭脳では理解できないことなのだ。
この7月、昭和天皇のご発言メモなるものが世にでた。無私であらせられる天皇の私的なつぶやきを世間に流出させた関係者の無責任と不見識は、到底許されることではない。しかし百歩譲って、メモが昭和天皇のご意思だとした場合、老蛙生はこう考える。
神道の神髄は融通無碍なところにある。世界にも類のない神道のすぱらしさは、何ものにも束縛されない自由さにある。神道むをめぐるシンポジウムに『いま、神道が動く』(片山文彦編、新人物往来社、平成13年)という本があった。同書で仏教学者のひろ・さちやさんは神道の根本原理のーつとして「神様でも間違える」ことをあげている。
神道の神は絶対無謬のイスラム教やキリスト教と違い、一神教でなく多神教だから素戔鳴尊(すさのおのみこと)でも聞違いをする。神様が間違うのだから、自分たちが聞違うのは当たり前である。だから「今日はこれでいくが、状況が変われば問題を元に戻し、今度はこれでいく」。それが神道のいいところだというのだった。
天皇だってお考えが間違うことはありうる。靖国神社も時と場合によっては一度決めたことでも修正すればいい。そして宮内庁が硬直した石頭だったら、靖国神社は逆に柔軟な水平思考をすればいい。
たとえば、いわゆるA級戦犯14柱のみたまは靖国神社の一角にある「鎮霊社」にもう一度戻っていただくのも一案だろう。これは分祀ではなく、復祀だ。
キーワードは「融通無碍」。すべては天皇の靖国ご親拝の実現のために、あらゆる英知と努力を傾けて欲しいのである。
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