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今月はじめ、上記の本(6月29日発行)が贈られてきた。帝国陸軍兵士、中国国民党兵士、最後は中国人民解放軍捕虜と3つの軍隊を経験した兵士の数奇な10年の記録だった。82歳の老人との対話形式の本は、紛れもなく日中間で起きた戦争がもたらした歴史の実録だ。不誠実な国家、その指導者の醜い姿、その中で人間性を喪失される兵士、虫けらのように扱われた庶民。まさしく歴史認識を迫る力作だった。 (あらすじ)新潟県中条町出身、早稲田専門学校生の奥村和一氏(当時20歳)は終戦の前年、1944年11月応召。中国・山西省北部の寧武という農村地帯の部隊に初年兵として入隊。翌年の終戦で帰国する筈だった奥村青年は、軍の“命令”で残留を強いられ、捕虜になり、1954年9月、帰国した。刺突(しとつ)訓練 入隊3ヶ月の45年2月。初年兵教育仕上げの“肝試し”。後ろ手に縛られた中国人を立たせ、銃剣で刺殺する。「怖くてたまらない。目をつむったまま当てずっぽうに刺す。古年兵に怒鳴られながら何度も刺突くうちに心臓に入った。『合格』」の声。 「人間を一個の物体として処理する、殺人者に仕立てられたのでした。軍隊というところは、いっさいの理性を剥奪してしまうのです」。 その後、この「人を殺した」ことから奥村さんは逃れることができなかった。 「敗戦でなく休戦」と上官。そして、国民党軍に編入 北支那派遣軍司令官・澄田睞四郎中将と国民党軍・山西軍の司令官・閻錫山(軍閥)の裏取引で、武装解除(ポツダム宣言違反)されずに残留、山西軍に編入(同派遣軍第一軍5万9千人のうち残留部隊は2600人)。共産党の八路軍(賀竜将軍)との国共内戦に参戦させられた。 人民解放軍の捕虜に−1948年7月 重傷を負っての捕虜だったため野戦病院、次の捕虜収容所では学習(思想改造のための教育)に反抗したことから労働改造所へ。そこで水路工事、炭鉱労働者(炭鉱の地底から石炭運び)など。 帰国(1954年9月) “中共帰り”のレッテルを貼られる中、職は見つからず、ニコヨンなど転々、早稲田大学第二商学部に編入学、同大退学、業界新聞記者、「中国展」開催会社員。そんな時、気づいたのが終戦後約9年間、兵士だったが日本政府に「終戦時に『現地除隊』」の不当な扱い。是正を国に求めて軍人恩給訴訟を起こす。 同時に、山西省残留兵問題の史料探しに取組む。奥村さんは数年間かけて防衛庁史料閲覧室、都立日比谷図書館など各地の図書館、現地・山西省各地の公文書館に出向き、自分や戦友たちの“自分証明”に挑んだ。 その現地で、元人民解放軍兵士、日本軍による強姦被害者に出会う。その人たちから「昔の日本軍は憎んでいるが、決して今の日本人とか、あなたを憎んではいない」の言葉。 (映画に)「戦後60年」をテーマにしたドキュメンタリー映画の素材を探していた映画演出家、池谷薫さんが本書の聞き手、酒井誠氏(前・日中友好協会事務局長)の紹介で2004年4月、奥村さんの存在を知った。昨年5月、現地取材、映画撮影が実現した。奥村さんを中心に描く作品「蟻の兵隊」は今月22日(渋谷・イメージフォーラム)から全国で上映。 ● ● ● 「靖国神社には戦争を指導した人間と、それによって犠牲になった人間とが一緒に祀られているのです。戦争を指導した人間を神として崇(あが)め、参拝するというのは、それは被害を受けた東アジアの人たちからすれば許されないことだと思います」 「相手の身になって考えないと、被害を受けた人びとの身になって靖国神社を見直さないと、結局、日本はいつまでたっても、東アジアの人たちと和解できないと思いますね」 「このまま、戦争に対する反省もなくて、あるいはそれが正しい行為であったという形で引き継がれたら、日本は道を誤っていくと思うのです」 さらに、奥村さんは前述の元兵士、元被害者の婦人らが戦争での体験を子や孫たちに語り伝えていたことを知る。奥村さんは「日本では戦争体験を語らない。自分も、それまではそうだった。だから、戦争の悲惨さ、非人道さが引き継がれない」ことに気づいた。 今、奥村さんは 「私に残された“任務”は戦争を知らない人たちに語り、受け継いでもらうこと」 と肝に銘じている。 ※「歴史を鑑に、未来に目を向ける」と中国政府は繰り返し、靖国神社にこだわる。歴史の中で、中国が日本を虐げたことはなかった。日本は…。 「歴史認識」を再度、学ぶのに、この本は最適だと思うが…。(園木 宏志) <このコラムは、ヤフーセカンドライフサイトとの提携企画です。>
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一兵士として戦争を体験した著者の訴えが強く心に残りました。暑かった夏 少し重かったけど、いい本を読ませていただきました。
2006/9/15(金) 午後 4:44 [ aed**279* ]